唐澤貴洋の「人をinvolveする」という発言を「人を陰謀論にする」と聞き間違えたのは『日本会議の研究』の著者菅野完である。しかしだいたいにおいてこれは間違っていない。
すなわち、喚起における伝達である。感度としてはダジャレに近い。中国に「意象」と「意境」という区分があるのだが、「意象」というのは、すなわち具体的に対象として表象しうる事物であり、「意境」とはその意象を積み重ねていったところに立ち現れるところの「境地」である。例えば、「川」「人」「竿」「舟」「家」「煙」「畑」「山」などという諸意象によってそれとして立ち現れるところの「境地」が意境である。これは明らかに諸表象のマトリックスの複合体作用によってある有意味な類型的全体性を喚起している。詩歌や音楽性の強い現代音楽は詞と曲のコンプレックスイマージュにおいて意境を伝達可能にして喚起している。
そこで陰謀論について考えてみる。陰謀論的世界観、この場合例えば「臨海」「船」「会議」「家(家庭)」「親」「明治」「満州」「巣鴨」「赤坂」などのコンプレックスイマージュで喚起されるところの或る対象は、たんに意境としての全体性ではなく、相互に接続された有意味に「脈あり」の複合体なのである。陰謀論は狂気と結びつけられるが、それはいかにもMAD的であるしだいを表明しているものといえる。陰謀論はこのようなイマージュの巻き込みによって各人の悦楽的なアナロジカルシンキングによって相互触媒的に他者を巻き込みながら展開するので、実際にinvolveなのである。「気」は狂っていなければMADたりえず、「気」が狂っていることがMADであるから、陰謀論は野性の思考におけるブリコラージュ的なMADである。すなわち、陰謀論的世界観という現実性(リアリティ)の形成は、「素材」を嵌め込むという意味で、ブリコラージュの寄せ木細工に酷似していることが指摘できる。これが折口の述べた「類化性能」であるが、これはすなわち「類推(アナロジー)」の発揮でもある。
ところで、私が行っていることは、かつてのカウンターカルチャーであるドイツ観念論およびロマン主義が遂行したところの、制作行為を基本に置いた現実性の形成の議論の現代化でもある。ここでタイトルにある通りの、コピペ的、MAD的、陰謀論的な制作行為を基本に据えるのは、私自身がそのようなところで制作行為と鑑賞と現実性の形成を行い育ってきたからである。私にはどうもメディア的な気質があり、周囲を巻き込み(involve)つつ周囲が触媒となって、執筆や自己形成などを行う傾向がある。やり方としてはプロテウスというよりメタモンに近い。なおメタモンとは恐らく「メタモルフォーゼするポケモン」のことである。私はよく「経験をプロテウスする」という言葉を使うが、それはすなわちメタモンになるということでもあろう。そういえばエンターテイナーであった志村けんの代表作である「変なおじさん」も、たんに「おかしい」という意味ではなく、毎度「変態」していた。
なにもかも変なのである。
2023年8月2日