感覚論の始動
結局私にとって終極目的は、快不快、苦楽、幸福不幸などの、実際性を持った感覚である。ここにおいてはひとまず、私とは何かを熟考してその基層に措定される生存本能や欲動と呼ばれるものを考察することは、まずは一旦控える。しかし恐らく、私において感覚論に持続可能性があれば、私はいずれそれらも書き加えることになるだろう。
さて、もはやそれら「実際感覚」が目的に置かれることに関しては、比較的多くの人が、少なくとも丁寧に説明すればすぐに自明のこととして受け容れていることだとわかると思う。もちろん既にベンサムの功利主義などで快楽計算が論じられているようなことはあるのだが、感覚論として十分とはいえない。またの問題として、感覚の認知科学的方面での検討も交えなければならないし、感覚を通じた幸福をも論じなければならないのだが、ベンサムとミルの功利主義だけを見ると、果たしてうまくいっているのかどうか疑問にも思える。案外宗教的マゾヒズムの方が感覚の最適化に寄与しているような気がしてならないし、また、未来論と感覚論の接点こそ考えなければならない。すなわち、かなりの遠大な構想である。今のところ、カントの『純粋理性批判』の「超越論的~」という体裁を借りればうまくいくのではないかと思っている。すなわち、ヘーゲルの『精神現象学』のような思考プロセスの記述にはならないだろうと思う。
そうした次第だから、そのような理想を抱き、ひとまずこの先は感覚の議論を研究してみようと思う。なぜなら、感覚こそが肝心な問題だからである。なお、当然感覚には感情や感動や情感といった機微も含まれる。
2023年7月11日