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プロの勝負師達の本から「運」って何だろうって考えてみた。

最近、「運」とか「勝率」という言葉が目につくと、それらについてアンテナが引っかかるようになってきた。

自分はこれまで確率云々を抜きにしても、単純に「運が強い方だ」と思っている。

 例えば2年前、子供のお迎えに夕方車を走らせていたら、横から来た車に強く突っ込まれたけどお互いに無傷で、自分は3割の過失割合だったけど、相手の方のご好意で全額負担で車を直してもらったとか。

大学生の時、お金が無さ過ぎてカップ麺を買うことすらも厳しい位になってた時期(主に、年に2回の学費の納付日後しばらく)、友達の親がご飯を食べに来なさいと、毎晩夕ご飯とお風呂を用意して下さった事とか。

 大学4年生の就活中、就職先が決まらず社会人になれないかもしれないと思った時に、取締役の方(ただのおじいちゃんだと思ってた。滝汗、、、)が説明会という名目の一次面接に突入し(私本人はただの雑談だと思っていた)で気に入ってもらえて、(なぜか最終は圧迫面接)、無事それを通過し、何度も地元の北海道から、飛行機代や東京でのホテルの宿泊代を会社負担にしてまで関東で開かれる面接と懇親会に呼んでくださり、住むアパートも家具家電付きの所を用意してくださったり。

そんな感じで、自分的にはできうる限りの最大限の努力をしているんだけれども、にっちもさっちもいかない状況というのが多々あって、その度に、手を差し伸べてくれる存在がふっと必要なタイミングで現れたよなぁっていう経験が大きいのかもしれない。

それだから、そんな人たちもいる世の中に対して、恩返しというべきか差し伸べてもらうばかりではなくて、今度は手を差し伸べる側に回らなくてはいけないよなってのも思う。


ここ2年ほど、金融界隈の情報を見ることが増えて、よくギャンブルをするな!みたいな言葉を見ることがあった。ただ個人的にその「投資」と「ギャンブル」(賭け事)の違いがよくわからなかった。

何となく私の感覚で説明させてもらうと、投資っていうのは、価格の変動が大きく起きた時に、その源をなるべく自力で辿れる所までたどって将来似たパターンが起きた時に、即座に行動に移せるよう準備や研究をする事が大きな割合を占める事、ギャンブルってのは、その時々の感覚や直感だけでやることなのかなと。

ただ、ギャンブル含めて勝負事の世界には、長期的に勝ち続けている人たちってのがほぼ一定数いる。

その人たちは、常軌を逸脱するレベルで、その取り組んでいるものがとてつもなく好きで、チャンスを掴むための努力を努力と思わず、そのための勉強や研究を歯磨きをするように習慣にして取り組んでいる上で、実戦で戦っている。何年も何年も。

 長期的に勝ちづつける人で、自分が最初に思いついたのは将棋の羽生善治さんだったので、羽生さんの本をご紹介したいと思います。

羽生善治さんの著書「大局観」

 本書は羽生さんの言葉をお借りすると将棋士生活25年と、満40歳のまとめとして執筆したもので、これまで経験したことの中から、勝負に対する考え方を網羅して書き綴ったものだとしています。

「大局観」とは「木を見て森を見ず」という格言があるように「部分だけをみて全体を見ていない」とは真逆の意味だと書かれています。

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という格言が勝負事の世界にはあって、「勝ち」にラッキーはあるけれど、「負け」には何かしらの理由があるはずという意味だそう。

「負け」の原因は何だったのか直視しなければいけない。どんなに立派な理論や作戦を構築しても、自分自身がそれを選択して、その結果について生じた責任は自分で取らなければならない。現状と現実を、ひいき目で見るのではくて、客観的に、中立的に、シビアに直視する必要があると。

そう、「負け」の直視ってホントに辛いしかない。でも自分で選択したものに責任を取る覚悟で生まれた「負け」ってのは、正しい「検証」と「反省」をすると、「勝ち」に変わる経験や、根拠や、負けを避けるための、直感や感覚に結びついてくるのかなと思うのです。本当に痛みを伴ったものって、二度としたくないって思う経験は誰しもあるはず。

攻守、決断するまでにかける時間などの方針は「大局観」から生まれます。多くは経験から培かわれるもので、いわば「大局観」にはその人の本質的な性格や考え方がとても反映されやすいと言います。つまり「大局観」に関していうと経験年数が長い人ほど積み上げて行きやすい力の部分になります。

大局観のデメリットとしては「知り過ぎてしまう」こと。それによって、即断即決の判断がしにくくなってくること。
若い人は良い意味で怖いもの知らずで勢いがあって、勢い勝ちすることもあります。結果も大切だけれど、その過程の内容も同じくらい重要だよと本書は説明しています。

指す手は一つだけの決断だが、水面下には膨大な思考がある。それらを立体的にして厚みを増すことが、長期的には結果にもつながるのではないかと考えた。

「鍛えの入った一手」とは将棋界ではよく使われる言葉の一つで、負けにくい一手で、慌てない一手、今まで苦しい思いをしていなければ指せないような一手を形容する。似た表現としては「泣きの入った一手」というのもある。勝負の厳しさを知ったシビアな一手の事だ。鍛えの入った一手や、泣きの入った一手には、慎重に、手堅く、負けにくく、思慮深いという傾向があり、それは経験を重ねていく中で身についていく。しかし、いつまでもセーフティーゾーンの中で局面を進めることはできない。どこかで思い切った決断が必要になる時がくる。

 投資をちょっとかじってみて思うのは、見てる時と、お金をかけた時とでは、値動きが全然違って見えて、正直、お金をかけた時の方が、視野は狭くなるし、下手になりがちな気がします。

 今でこそ、やっててよかったエントリー✨って思える場面も、少しづつ増えてきましたが、え、何でここでこれしたのー!って後から考えると意味不明すぎる事を、普通にする事の方が圧倒的に多いです。
 なので、ダメだった時の自分を戒めの意味を込めて、記録に残すのはとても大事です。なぜここで入ったのか、どこを根拠にして優位性があると自分は考えて行動に移したのか、どこが自分には足りなかったのか。今の自分のレベルでわかる範囲で全て書き出します。

 感情がたかぶり過ぎて、直視できない時も当然あって、そういう時は、半日とか一日とか時間を空けた上で、振り返りをします。そうすると、あ、これが根拠として強そうだ、とか、自分はこーゆーところが弱点なんだな、とか自責ではなく分析ができます。私はその状態でいる事(辛いが、自分を責めすぎず、客観的に振り返りは何とかできる)くらいが成長するための負荷量と毎日コンスタントに継続できるバランスとして良いのかなと思えるようになりました。

 2022年、自分の振り返りや、分析がもっと上手にできるよう、頑張りたいと思います。

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