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note18 須佐之男命の傲りと悪行



うけいから勝さび、そして須佐之男命の傲りと悪行について考察してみます。

うけいによって、須佐之男命の御心が清らかであると証明された瞬間、須佐之男命は勝ち叫び、傲慢になりあらゆる悪行の限りをはたらきます。

これは、須佐之男命は傲り(おごり)により、悪心が起こったと、解釈できるように思います。

どれほど清らかな心を持っていても、瞬時でも油断し、慎みを忘れ、感謝を忘れると、たちまち汚れた異心(ことこごろ)が本来の清明な心を占領し悪行となって現れるということなのです。

それ故に、たとえ悟りを開き、心に一点の曇りがない状態になっていたとしても、常に用心し、自らの心の汚れを祓い続けなればならないのです。

これは禅で言う「悟後の修行」に当てはまるのでは、と思います。

このようなことから、神道は祓えにはじまり祓えに終わるのだと思います。

須佐之男命は、伊邪那岐命の一喝によって、自らの本体にはっと気づき、それまで我欲に覆われて汚れていた異心が祓われます。
異心の象徴として在ると言える黄泉の国に行かないで、全く反対の「永遠のいのち」が輝いている世界である高天原の天照大御神のところに行きます。
そして、謙虚に高天原に上がってきた事の次第を天照大御神にご報告します。
しかし、須佐之男命は、その御心の清らかさが証明された瞬間、再びつつしみを忘れ傲慢になり、本来の清明な御心が我欲の異心に覆われてしまいます。傲慢は全てを滅亡へと導くかのように、須佐之男命の悪行は、ますますひどくなっていきます。
とりわけ農業妨害の罪がその中心をなしていますが、これが、「大祓詞」の中にある「天津罪・国津罪」のうちの「天津罪」にあたります。

いずれにしましても、このうけいから勝さびの段は、たとえどんなに悟りを開いたとしても、瞬時に異心に覆われて傲慢になることがあり、そうなれば、たちまち暗やみの世界が広がるのです。

私はこの箇所は自らの問題として、考えなければならない大切なところだと思っています。

私がご奉仕する神社は須佐之男さまをご祭神としてお祀りしています。
古事記を深く学ぶ前は、この段を読んだ時に須佐之男さまの振る舞いをどう捉えたら良いのかと思いました。
この須佐之男さまの振る舞いが、天照大御神が岩戸にお隠れになる原因となるのです。
ですが、この後須佐之男さまはヤマタノオロチを退治しますので、二面性を持ち合わせる神様というのが須佐之男さまの一般的な解釈かと思います。

さて、この須佐之男さまの振る舞いを我ことのように捉えてみること、今はこれがとても大切だと思っています。

このnoteでも古事記の解釈として何度も異心をお伝えしています。私が発信している古事記の解釈や考察は、終始、異心を祓うことの大切さをお伝えしていくことになります。

その前提として古代から日本人は私たちには「永遠のいのち」があり、清らかな存在であることという認識があり、だから、その清らかさを覆う異心を祓う必要があるというのです。
そのことを須佐之男さまがお伝えくださっていると思っています。

いまここである中今に心を向けて、異心がおこれば自ら祓う、ひたすらこの繰り返しが生きるということなのかもしれません。
とは言え、これを繰り返すことで、本来の自分に戻りやすいなるように思います。
その本来の自分が、自分の中に在る神であり、神性と呼んでいるものです。

古事記の冒頭
「天地のはじめ」では、遠いとおいはるか昔と、解説ではお伝えしましたが、捉え方を変えれば、「天地のはじめ」はいまここにあるのかもしれません。

今回はここまでにします。

次回からいよいよ、天の岩屋戸です。

いつもありがとうございます🌈

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