【卓球】瀬能と瀬町ー2002年神戸市総体の思い出ー
2002年5月、滝川第二高校に入学して、初の公式戦が、神戸市中央体育館で開催された。
総体なので、神戸市で勝ち上がった選手が、兵庫県総体に出場でき、そこで勝ち上がった選手がインターハイに出場できる。
先に僕の結果を書くと、シングルスは、ベスト8決定戦で、滝二団体レギュラーの西田光宏さん、準々決勝でレギュラーの岡田真治さんに勝利。
「このまま優勝してやるぜ!」と思っていたら、準決勝で、植本剛さんに負け、ベスト4だった。(結局、剛さんは三冠王)
多分、ダブルスもベスト4だったかと。もちろん団体戦は優勝。
神戸市総体は2日間の開催である。
団体戦で、滝二は、ウルトラスーパーシードでめちゃくちゃ驚いたのを覚えている。
ウルトラスーパーシードとは、決勝戦までシードなのだ。つまり滝二以外で試合をして、そこで優勝したチームと対戦するのだ。
育英が勝ち上がってきて対戦。期待の1年生だった僕も出場し、きっちり勝利して、3-0で勝利した。その後、県総体で粗相の敗戦をして、近畿、インターハイと使われなくなるのだが、、、
神戸市総体は、シングルス、ダブルス共に、予選トーナメントがあり、勝ち上がった選手が決勝トーナメントで戦うという方式だった。
滝二のほとんどの選手は、予選は免除で、決勝トーナメントからだった。
なので、神戸市総体の開会式に出た後は、試合がない為、滝二OBの西田さんがやっているニシダスポーツで練習をしていた記憶がある。
会場でぼーっと試合を見ているのではなく、練習に行かせるというのは、「鯛中先生、流石だなー。その環境を作るのはすごいなー」と、今になって思うのである。
ちなみに、ダブルスの記憶は全くない。
1日目で、シングルス、ダブルスの、予選トーナメント、決勝トーナメントの準々決勝まで行われたような気がする。
つまり2日目は、準決勝からと、団体戦の本当の決勝戦が行われたと記憶している。
検索しても当時の組み合わせやトーナメントが出てこないので、もし間違っていたら申し訳ない。
試合日程と、僕の話はここまでで、ここから本題に入りたいと思う。
瀬能と瀬町。せのうとせまち。まず2人の紹介から始めようと思う。
まず、瀬能君。岡山の七区スポ少出身で、中学時代全国大会には出たことない。
しかし、決して弱くなく、滝二1年生リーグ戦で僕と1位を争った実力である。つまり、僕は瀬能君の強さを評価していた。
今は、兵庫県の加古川市と、神戸市北区で、瀬能クラブを運営している。実は、来月、数年ぶりに瀬能クラブに遊びに行く予定があり、楽しみだ。
次に瀬町君。僕の1学年上で、神戸市の歌敷山中出身。
歌敷山中は、普通の公立中学だったが、兵庫県団体優勝。近畿大会では、全中決定戦で、当時、時吉君と桑原兄弟が転校してきた、高野中に2-3で負けて全中出場を逃す。
2-2ラストの対戦は、滝二の先輩井本さんと、筑波大の後輩、桑原元希君だったらしく、1-1の20-15で井本さんがマッチポイント取りながら、元希君に逆転負けしたらしい。
公立中で地元の子達だけで頑張ってきた歌敷山中が、全中決定戦で、東山に入る為に転校してきた、時吉、桑原兄弟の高野中に負ける。
滝二に入ってから、これを井本さんに聞いた時に、「仕方ないのだが、なんか無慈悲過ぎないか!」とイライラしたのを覚えている。
当時は、私立の強豪中学もほとんどなく、時吉君と桑原兄弟が京都に来たというのは、近畿中に衝撃を与えたのだった。
僕も、中3の近畿総体で、桑原元希君に負けているので、大いに影響を受けている。
筑波時代に、後輩となった元希君には、「お前らの存在はマジで脅威だったんだからな!」とガチで言った記憶がある。
でも、彼らは卓球が強くなるために、勝負を賭けて京都まで来たのだ。今では、勝負の世界だから仕方がないと思っている。が、当時は「なんで近畿に来んだよー」と思っていたのが、正直な感想だ。
瀬町君は、その歌敷山中のレギュラーで、地元の舞子高校に行った。歌敷山中の人は、各々違う高校に進学し、各学校でエースとして活躍していた。
話は戻って、神戸市総体。
滝二の選手は、ほとんど決勝トーナメントからなのだが、瀬能君や苗村君、他県から来た1年生は兵庫県での実績が無い為、予選トーナメントからの出場だった気がする。
皆、順調に勝ち進み、シングルスの決勝トーナメントが始まった。
僕も、ニシダスポーツから中央体育館に戻り、少し緊張していた。だって、初めての試合が、予選トーナメントを勝ち上がって調子の良い選手との対戦なのだから。
僕の初戦は、確か、御影工業の町田君だったと思う。
きっちり勝って準決勝まで勝ち上がったのだが、滝二の選手全員が順当に勝つわけではない。(でも、ここで負けてる時点でもう終わりなのだ。厳しい世界なのである。)
当時、滝二は、3年生4人、2年生4人、1年生5人。順当に勝ち上がると思いきや、瀬能君が瀬町君に負けたのだ。
僕は試合をしていたので、その試合を見ていないのだが、「は?瀬能が瀬町君に負けたん!?」と衝撃を受けた。
なんせ、瀬能君は、僕と同じ位の実力と思っていたからだ。失礼だが、僕が瀬町君に負けるなんて、120%無いと思ったいた。でも瀬能君は瀬町君に負けたのだ。(瀬能と瀬町ややこしい)
「あぁ瀬能終わったなー」と思いつつ、神戸市総体1日目が終了。自宅生の僕は、そのまま神戸市営地下鉄で、湊川駅から名谷駅の自宅に帰った。
翌日2日目。僕は、自宅から会場の神戸中央体育館に向かう。
寮生達よりも早く着いたようで、早速会場で練習をしていると、会場に着いた寮生の中で、一人だけ見かけない奴がいた。
そいつは坊主頭で、観客席から練習しに降りてくる様子もない。「あれ、あいつ誰だろうなー」と思いよく見ると、坊主頭になった瀬能君だった。
「あれ、瀬能やんけ!瀬町君に負けたから坊主にしたんか!」「しかも瀬町君に似てるし!がはははは!」と練習しながら爆笑した。
なんと、瀬能君は負けたショックからか、寮でバリカンを借りて、頭を刈り、坊主で来たのだった。
今思うとその行動は気合が入っているという評価も出来るし、自ら坊主にするという異常なことなのだが、当時瀬能君が坊主にしたことが面白過ぎて、皆でいじりにいじりまくった記憶がある。
なんせ、瀬能君に勝った瀬町君が坊主だったのだ。そして、瀬能君が坊主にすると、瀬町君にめちゃくちゃ似ていたのだ。
その為、瀬能君の髪が伸びるまで、「瀬町瀬町!」といじられ続けていた。
この坊主にした結果、瀬能君の結果が良くなるわけではないのが、悲しいことだ。
「坊主にしたからって、勝てるわけじゃないんだな。全ては実力なんだ。」と15歳で思い、僕は、甲子園で涙する坊主頭の球児を「そんなに泣くなら、死ぬほど練習したのかね」と冷めた目で見る、へそ曲がり野郎になってしまった。
ちなみに、瀬能君は、坊主にしたが、全国大会に初めて出るのは、2年のインターハイまで時間がかかる。
やはり、始めで、つまずくとなかなか大変なのだ。(これはその後、痛感することになる)
瀬能と瀬町。これが、「瀬能って、面白いなー」と思った第一のエピソードである。
ちなみに、滝二時代のエピソードはいくらでもある。
33歳独身、実家住まいで、高校時代のエピソードを書くのは、情けない、、、
しかし、いつまでも青春時代のはなしは面白いのだ。
※トップ画は、2012年千葉のオープン戦にて撮影
と、瀬能と瀬町のという記事を8月26日にアップし、いつも通りSNSで拡散をした。
翌日、瀬能君本人から、リプライが来ていた。
僕は、驚いた。「あれ、瀬町君に負けたんじゃなかったっけ?」と同時に、18年前の記憶が蘇った。
「そうだ、瀬能は神谷に負けたんだ!」
当時、僕は試合をしながら、他のコートの様子をふと見ると、瀬能君が神谷君に0-2でリードされているのを見た。
瀬能君のリプにもあるように、当時、神谷君はめちゃくちゃ弱かった。
それから、3年生で初めて出たインハイで、池田和正君をパッキン返しし、ラン決まで勝ち上がる。大学では、近畿2位となり、4年生の全日学でランク入りを果たす。ことなんて、当時の誰もが全く想像できないくらい弱かった。
だって、身体も小さく、ガリガリで真っ白な少年で、ラケットが重くて手首を痛めて、常に手首にテーピングをして、ガシアンバルサを使っていたくらいだ。これで、強いわけがあるはずない。
当時、試合をしながら、「あれ?瀬能が負けてるなー」と思っていると、まさかの3-0ストレートで神谷君が瀬能君に勝ったのだ。
と、これが真実で、瀬能君は瀬町君に負けたわけではなかった。
ただ、瀬能君が坊主にすると、瀬町君にめちゃくちゃ似ていた為、「瀬町!瀬町や!」といじられていただけだ。
それが、いつのまにか僕の中で、「瀬能は瀬町君に負けて、翌日自ら坊主にしたら、皮肉にも負けた瀬町君に似ていて、みんなでいじり倒した」という、めちゃくちゃ都合の良い記憶になっていたようだ。
瀬能君、瀬町君失礼しました。