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目が見えるとか見えないとか、いい加減イヤになってしまった

目が見えるとか見えないとか、いい加減イヤになってしまった。
急なことではない、本当はうっすらそれを感じていたのだと思う。
ただ気付かないふりをしていたのかもしれない。

先日、自分とは違うタイプの視覚障害者に出会った。
その人は、見えるとか見えないとかを自分の個性に含めて自己紹介していた。
周囲の人はちょっと微妙な空気だが、誰もそれを本人に指摘しない。
僕はその人を見て背筋がぞわっとした。
あくまで個人の見解として、「こうはなりたくない」と思った。
僕もこんな風に他の人から見られていると思うと、noteに書いていた自分のプロフィールが一気にイヤになった。
そのときのプロフィールには、「見えない目で見た世界を書く言葉と話すことばで伝える」と書いていた。
帰宅してすぐに編集した。

僕が自分の目のことを考え始めたのは、10才頃。
夜になると見づらくて、夜道が歩きにくかった。
14才でいつか失明するかも知れないと診断され、それからはずっと頭の片隅にへばり付いている。
もうその状態が30年。
頑固に付着しすぎて、剥がそうとしたら絶対に皮膚も一緒に剥がれてしまう。
ここ10年は、むしろ目の見えない人としてのラベルを自分に貼り付けて人前に出てきた。
「中川さん」ではなく「視覚障害者の中川さん」として認識され、役割としての視覚障害者を果たしてきた。
視覚障害者としての役割を果たすことが、目が不自由な人生を生きることになった僕の社会貢献であり使命だと考えてきた。
放たれた意図は現実となり、実際視覚障害という属性を生かした仕事が増えてきた。
そうしていつの間にか、自分の内側にへばりついている視覚障害と外側から貼り付けた視覚障害に、僕は挟まれ続けてきた。
「視覚障害者である前に一人の人間です」と人前で言ってきたのに、視覚障害という属性に僕は埋もれかけている。
それを気付かせてくれたのが、先述の視覚障害者だ

僕から視覚障害という属性を切り離す必要はないけれど、せめて距離をとりたいと思っている。
あまりに自分と視覚障害との距離が近すぎるのは不自由で、僕はそれを望まない
望まないけれど、こうして書いたからと言って、自分と視覚障害との間に距離をとれたかどうかは怪しいところだ。
自分は大丈夫と思っている人が、一番詐欺に引っかかる。
きっと僕は今も視覚障害の中にすっぽりと埋もれているに違いない。

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