登米市豊里町に住む「川谷清一」さんのこと
気仙沼の仲間が、私を登米に連れてきたかった一番の理由は「川谷清一さんに会ってみて欲しい」ということだった。写真家でもあり、震災直後に大阪から、ボランティアで宮城に来て、ずっとこっちに住まわれるようになったと聞いていた。
やや暗くなり始めていた時間。豊里町の「風の宿つむぎの家」に着いた。というか、どこに車を停めようかと悩んでいたら、川谷さんが帰って来られて、駐車場を教えてくれた。
GoogleMapのストリートビューでみると、入り口はこんな感じ。看板が出ている訳でもないから、皆さん迷うとのこと。ちなみに駐車場は、正面に見える青いテントの方に向かって行って、手前を右に曲がったところ。
今回の写真展は、ご自宅をギャラリーにしてるので、なんと川谷さんの寝室も展示室。古民家だから、私なんかには懐かしさの溢れる空間だ。
なぜ、ちょっと急いでいるかと言えば、この写真展の会期が、今週末21日までだからだ。だったら、もっと早くに紹介すべきだったんだけど、許して頂きたい。いろいろ勉強してたので。
私も写真が好きなので、写真展の会場を撮っていいかと聞いて、撮ればよかったのかもしれないけれど、もう廊下にある写真群に圧倒されて、そんなことというか、写真を撮ること自体を忘れていた。震災で、津波で、大変なはずなのに、写ってる人には満面の笑顔。老いも若きもみ〜んな。
昨日、東京の『庵野秀明展』を観てきた。彼の中学校時代の手書きのもろもろも展示されていたが、小冊子を手作りして、みんなに回し読みさせていたようだった。実は、私も中学校1年生の時、クラスにまつわるもろもろをイラスト付きで書き、回し読みをさせていたことがあった。ところが受験重視の先生に「勉強に関係ないことはするな!」と一喝され、根性のない私は、二度と書くことはなかったが、彼はそれを通していたんだなと思った。
川谷清一さんにも、自分が興味のあることを追求し続ける強さが、きっと幼い頃から身についていたんだと思う。もう一つは、誰に何を言われても、自分のことは自分で決めるという覚悟みたいなものがあったんだと分かった。
古民家だから、二階に上がるのは、ハシゴのように急な階段だが、その二階の部屋の写真の中からは、今の川谷さんにつながるものを感じることことができた。仕事は仕事。でも自分らしく生きるために必要なことは、物おじせずにやってきたんだなと思えた。
震災後10年間、私は正直逃げていたと思う。わずかな募金活動に参加したぐらい。当時の仕事が忙しいという理由で、何もして来なかった。そんな時、わずか4つしか年齢の違わない川谷さんは、こっちへ移住されてまで関わって来られた。どう表現したらいいか、ピッタリな言葉が見つからないけれど、私のような思いをしてきた人なら、観た方がいい。というか観ることで、癒しがあるかもしれない。
川谷さんのような人がいて、今の復興があるんだと、心から思えた時、何もしてこなかった自分を責めるより、今何かできないか、今やればいいじゃないと、背中を押される感じがした。だからこそ、何もできなかったと思ってる私のような人間が、救われるのだと思う。
私が、書くのをずるずる伸ばしていた間に、『河北新報』のオンラインニュースでも、10日の記事として紹介されていた。URLとスクショを紹介したい。
https://kahoku.news/articles/20211110khn000002.html