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気仙沼について「絶対書かなきゃ!」と感じ続けていたこと

気仙沼では、SNSでのやり取りがあったとはいえ、初めてお会いした方に「これでもか!」と言わんばかりに大事にされて、夢のような2週間を過ごすことができました。改めて感謝いたします。しかも、傘をさすことが一度も無く、素晴らしい空と雲と霧に、魅せられながらの毎日。「人生に、こういうことは、そうは無いな」みたいなことの連続で、見るもの、聞くものが、身体中に染み渡るような2週間。そんな旅を終えた私が、滞在3日目くらいから、じわじわ感じ始め、「旅を終えたら絶対に書かなきゃ!」と決めたことがあります。少し長くなりますが、お付き合いください。(ここから後は、いつものように常体で書きます)

気仙沼で、最初に私を癒してくれたのは‥‥

「チビ・デブ・短足 三重奏」で、定年退職後の4月以来、再就職もせず、ずっと家にいて「朝ドラ」に熱中する私は、『おかえりモネ』が最終週を迎えた月曜の夜、転がるように家を出た。ただただ『気嵐』が見たかった。「何日でも粘って見てやる!』と息巻いている気持ちとは裏腹に、これといったプランも無く、気仙沼で2泊、登米をまわって4、5日で帰ることになるだろう。帰ったら、部屋に閉じこもる日々に逆戻りするだろう、くらいに思っていた。

高速バスで仙台から気仙沼に向かう車窓から、ドラマに出てきた風景が見えるので、動画での撮影を楽しみにしていたが、ずっと雨。それでも窓に張り付いて、予定の場所は全部撮った。ワクワクした。でも、再生してみると、空は灰色、窓ガラスの雨の滴が写り込み、何だか寂しそうな絵ばかり。バスの中で、ちょっと落ち込んだ。

BRTに乗り換えて気仙沼駅に着いた頃には、もう辺りは暗くなっていた。でも、ありがたいことに雨は上がっていた。目の前のホテルでチェックインを済ませると、モネが気嵐を眺めながら、朝の天気予報をアナウンスしている情景を思い浮かべながら、夕食のために、トコトコと内湾まで歩いた。

火曜日の夜だし、雨が上がったばっかだし、歩いている人は、1人も見かけなかった。ただ、PIER7の広いホールには、数十人の人影が見え、イベントが静かに行われているようだった。そのためか、二つの大きな商業施設と桟橋が、電球色のLEDで見事にライトアップされたままになっていて、お陰さまでというか、私が単純なだけなのか、とにかく気持ちが一気に明るくなった。

そして迎えた翌朝未明の散歩。微かな期待を持ちつつ内湾まで歩く。浮御堂付近まで歩いたが、誰もカメラなど構えていない。がっかりして帰ろうかと思った時、朝日にゆらめいて「気嵐」が見えた。その翌朝も見せてくれた。私はもう嬉しくて嬉しくてたまらなかった。何だか肩の力が抜けていく感じがした。粘ってでも見ようと思っていたものが、あっさり、しかも2日連続で見えた。気仙沼って、なんて優しいんだろうと思った。この時「恋」をしたんだと思う。気仙沼に。よそ者の私を、最初に癒してくれたのが「気嵐」だったのだから。

「気嵐」から「人」へ

それからは、もう、気仙沼で出会った人に、癒されっぱなしの毎日が始まるのだが、そんな中で、自分の気持ちの奥底が見えてきたように思えた。『おかえりモネ』で描かれた「気嵐」は、単になる気候現象じゃなく、モネが帰りたくなる気持ちの中心にある「原風景」なんだと。懐かしさの根源のようなものだと。

だったらそれは「人」だ。「人」が関わっている。「人」との関係の中で生まれる何かを、安達さんは「気嵐」に込めたんだと気づいた。だったら、気仙沼の「人」から生まれる何かを、できる限り浴びたいと思った。ここからが、私の、本当の旅の始まりだったと思う。

そんな中で、私に声をかけてくれた人が、何人もいた。大島に在住の小川さん、ラーメン店を営む佐藤さん、乾物を商う小野寺さん。この方々は、気仙沼で生きる多くの「人」に出会わせてくれた。どの「人」も、温かく迎え入れてくれた。日本有数の漁港として、歴史を重ねてきた気仙沼のDNAだと思う。
(それぞれの出会いは、書ききれないので、別稿で書ことにします。)

「なかま」を想う気持ちの繋がりの中で

何も知らない私は、地元の人に何でも聞いて、いい旅をしたいと考えていた。「美味しいものは、どこで食べられる?」「お土産は、どこで買ったらいい?」ちゃんと教えてくれた。間違いはなかった。ただ、最初のうち、違和感もあった。私だってネットで多少は調べてる。お仕事だって、多少は知ってる。だから「あなたのお店を教えて?」のつもりで聞いているのに、返ってくるのは他の店の名前。だから、はっきり聞くことにした。「どこ?」

確かに、いきなり自分の店へ紹介ってのも、普通は、ないかもしれない。常識で考えれば、そうかもしれない。でも、ちょっと違う空気感があるのだ。自分だけが良ければいいんじゃなくて、気仙沼という町が、良くなっていくことを願ってるような感じがある。だから、どこへ行っても「人」と「人」が繋がって見えた。

どこに住むか、どこに店を出すか、の延長線上にある「覚悟」

外部の者は「復興」と、ひとまとめに言うが、気仙沼に住み続ける覚悟なら、当然「どこに住むのか」は、ものすごく大きな問題であり、決断だったはず。簡単に、前にいた場所を再建するのとは訳が違う。土地を上げる、高台に引っ越す、覚悟を決めてそのまま再建する‥。選択肢はたくさんある。しかも、自分の家族だけでは決められない。これまで育んできたご近所さんとの付き合いを重視するのか、切ってしまうのか。行政も動いているから、住んでいる地域のなかまだけで決めることだってできない場合がある。

出店も同じだ。儲かる場所は海抜高度が低い。安全を最優先すれば、商売が成り立たない。何を取り、何を捨てるか。考えるだけで心が痛む。

この10年を想うとき、気仙沼をはじめ、被災された多くの場所で、膨大な時間を費やして話し合いが繰り返されたはずだ。時には対立し、時には涙を飲んで妥協し、それでも復興は進めなけれないけない。もう、街からは消えてしまったが、朝ドラ『おかえりモネ』のポスターには「晴れ、雨、進め。」の、言葉があった。晴れても、雨でも、進まなきゃ、何もできない。そういう覚悟を、いろんな場所で感じた。そういう想いで、町を作ってきたのだと思う。

多くの来訪者を受け入れる港町だから、きっと、ホスピタリティーは元からあるはず。そこに、話し合いながら協働する場面が増えたことで、繋がりが深まり、それが来訪者への、更なる優しさに繋がっているように思えた。だから、もっと気仙沼にいたくなる。「ずるずると」ではなく、積極的に滞在を伸ばした。「恋は〝した方〟が負け」と、よく言われるが、その通りかもしれない。

気仙沼に移住できるか

少し思った。でも、これは甘すぎる。もう少し若ければ話は別だが、私の役割は、リピーターになることしかないなと、思い直した。気仙沼では、若い人たちが頑張っていた。遠くからでも、微力でも、その後押しをしたい。それが私にできることの全てだと納得した。

地域のために何ができるか? 私も自分の住んでいる場所で、できることが何なのかを考え、すぐに実践することにした。あるんだ、しなければならないことが。そういうことを考えさせてくれたのも、気仙沼だったと思う。移住については、私には、その資格がないと思った。でも、これからの人には、選択肢として、気仙沼への移住を考えてもいいかもしれない。

話し合いから生まれたもの

気仙沼のいろんなところを歩いて、それぞれの場所で、どう「海と生きる」かを感じさせてもらった。それは、モノとなって、それぞれの場所に息づいている。巨大な堤防。動力を必要としない防潮設備。土地を上げての街づくり。防潮壁に作られた透明な窓。旧道と新道の高低差のある接続。住居と離して海沿いに作られた作業場。それらはきっと、津波対策としてだけではなく、話し合いから生まれたものとして、気仙沼の新たな魅力となり、訪問者を増やすはずだ。

今、学校では「課題学習」が大流行りだが、おそらく入試直前の3学期は、間違いなく低調なはず。しかし、進路が決まっていく今の時期だからこそ、生徒にとって、さまざまな課題が見えているのは今だ。できることなら、気仙沼の生徒と一緒に、話し合いの末に作られたものを巡りながら、ご家族や近所の方がどんなことをおっしゃってたか、裏話を含めて聴いて回りたいなと思っている。「気嵐」が観光資源になるなら、この10年の話し合いの積み上げは、充分に人を集める力になると思う。

いや、観光資源などではないかもしれない。地球温暖化の今、自分の町を、町に住む人の命を、海水面上昇から守るための研修の場として、さまざまな場所で、さまざまな形で作られたものが、大切な資源になっていくはずだ。

まだまだ見たい、見続けたい

私は地元の生徒に見せたいし、見に行って欲しい。震災の現実を知り、震災の遺構を見ることも大切だとは思うが、未来に生きる子どもたちに、今の気仙沼の、話し合いから生み出されたもろもろを、その過程を聞かせながら見せることに、大きな意味があると思う。

まだまだ変わっていく気仙沼から、私も学び続けたいと思っている。

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