クライシュ族の鷹
序
いまは昔、遠きアラビアの地に、ウマイヤ朝という国がありました。ウマイヤ家の人々が作った、イスラムの国です。正確には、「国」という表現は正しくないのかもしれませんが、いまこの物語では、難しいお話はやめましょう。ですが、一つだけ。イスラムの世界では、王さまという表現は使いません。カリフという言葉を使います。カリフ。これは代理人という意味だと思ってください。カリフとは、イスラムの偉大な預言者、マホメットの代理人なのですが、実質的には、イスラム世界を治める王さまなのです。
さあ、お話を進めましょう。
ウマイヤ家は砂漠の民。都市の喧騒より、砂漠の寂寞を愛する人々。そして、古代からのアラビア人らしく、詩を愛し、酒を楽しみ、美人をめで、また、馬や鷹を好みました。儀式などでの衣装はもちろん、ふだんから白衣を好み、旗も白。ウマイヤ家の人々は、とても気さくで、偉大なカリフであろうとも、街へ出て、市民と直接交流を持つことを好みました。ときには、護衛さえ付けず、一人で街を歩いたそうです。露天で野菜を売っているオジサンも、果物を売っているオバサンも、道端で遊ぶ子供も、偉大なカリフとお話ができたのです。ウマイヤ朝時代のイスラム世界は、白衣と白旗がアラビアの太陽に照り映えて、どこか陽気で、明るい雰囲気が国中に漂っていました。
そんな、ウマイヤ家の初代カリフ、ムアーウィアから数えること十代目のカリフは、ヒシャームと申しました。彼には、アブドル・ラフマーンという孫がおりました。金髪の巻き毛が愛らしい、それはそれは美しい少年でした。彼こそが、これからお話しする物語の主人公。ラフマーンも、ウマイヤ家の血を受け継ぎ、明るくおおらかな性格の青年へと成長していきました。
ところが……ラフマーンが、二十歳になるころ。ウマイヤ朝は、アッバース朝に滅ぼされてしまったのです。
アッバース家。彼らは、イスラムの創始者マホメットの叔父、アッバースの末裔。アッバース家の人々は、百年以上前の戦いで、ウマイヤ家に破れました。その恨みを、ずっとずっと胸に秘め、ウマイヤ朝を倒す機をうかがっていたのです。
アッバースの人たちは、黒衣を好みました。旗も黒。そして、ササン朝ペルシア時代のように厳格で、とても気難しい人たちでした。カリフが一人で街に出るなんてもってのほか。アッバース家のカリフは、宮殿の奥の部屋の、さらにカーテンで仕切られた向こう側にいるのです。
ですから、アッバース朝は、どこか重苦しく、暗い影がつきまといます。そもそも、新王朝の門出から、アッバース家の行いは血なまぐさいものでした。彼らは、ウマイヤ家に対して、冷酷な迫害と虐殺を、容赦なく行ったのです。ウマイヤ家の人々は、草の根を分けて探し出され、そして殺されました。シリアでも、イラクでも、メディナや聖市メッカでもさえも……女も子供も、容赦なく殺されました。とくに、ラフマーンの祖父ヒシャームは、アッバース家に恨まれていたので、孫の一人は、手足を切り取られ、息を引き取るまで、町中をロバで引き回されました。
いえ……それは生きている者たちだけではなかったのです。死者もまた、墓を暴かれ、骨を鞭打たれたのです。もちろんヒシャームも墓を暴かれ、遺骸を十字架にはりつけられ、鞭を打たれ、焼いて灰にされて、風に吹きさらされました。
ウマイヤ家の血を引くものは、たとえ赤ん坊であっても、その血の一滴たりともこの世から消し去る。それがアッバース家のやり方だったのです。
そして、ついにウマイヤ家の生き残りたちが地下に潜り、姿を現さなくなったころ。新王朝のカリフ、アブール・アッバースは、もはやアッバース家は、ウマイヤ家への恨みは晴らしたので、生き残った人々と和睦したいと宣言しました。
やっと虐殺が終わった。と安心したウマイヤ家の人々は、アブール・アッバースの用意した宴会へと出かけました。そこで彼らは酒をふるまわれたのですが、宴もたけなわになったころ、隠れていた兵士たちが、こん棒を持って突然乱入し、ウマイヤ家の人々をひとり残らず撲殺したのです。虐殺が終わると、死んだ人たちの上に革の敷物をうちかけ、その上に座って宴会を続けたのだそうです。敷物の下からは、まだ息のある者のうめき声が聞こえてくる。彼らはその声を伴奏にしつつ、全員が死に絶えるまで、酒を酌み交わし続けたそうです。
しかし。ラフマーンは、アッバース家の言葉を信じることができず、宴会には出ませんでした。十三歳だった弟をつれて逃げたのです。彼は最初、遊牧民の中に姿を隠したのですが、不幸にしてラフマーンは、十代目のカリフ、ヒシャームの孫なのです。その血筋は血統書付き。正真正銘の公子です。ウマイヤ家の血を濃く受け継いでいるだけでなく、とびきりのハンサムなのですから、目立たないわけがありません。ほどなく見つかってしまい、こんどはユーフラテス河の岸に近い寒村へと逃げ延びました。
そんなある日。子供がおびえて泣きながらラフマーンの隠れ家に逃げ込んできました。外を見ると、そこにはアッバースの黒旗がはためいているではありませんか。ラフマーンは、弟をつれ、河畔の森をくぐってべつの村へと逃げました。このときラフマーンは、彼を慕ってついてきた女子供を助けることができませんでした。弟を連れ出すのが精一杯だったのです。ところが、逃げ延びた先の村でも、密告されてしまったのです。
ラフマーンは、馬のひづめの音を聞きつけ、アッバース家に見つかったとさとり、近くの林に隠れましたが、そこもついに包囲されてしまいました。
万策つきたラフマーンは、ユーフラテス河を泳いで逃れるしかありませんでした。ですが、ユーフラテスは世界でも有数の大河。どれだけ川幅があることでしょう。それでもラフマーンは、弟とともに河に入りました。対岸ではアッバースの兵士たちが、「戻ってこい。命だけは助けてやる」と叫んでいます。ラフマーンは、敵のそんな言葉を信じるわけはありません。ところが、弟の方は、川幅にひるんで、引き返してしまったのです。
ラフマーンが、やっとの思いで対岸に泳ぎ着き振り返ると、弟がいないことに気づきました。懸命に呼んでも返事がありません。弟は、敵に捕まっていました。そしてラフマーンは見たのです。首をかき斬られる弟の血しぶきを……
ついにラフマーンは、天涯孤独の身となりました。一族すべてを殺されました。弟は目の前で。それでもラフマーンはくじけませんでした。必ずやウマイヤ朝を再興する。その想いだけが、彼の傷つき疲れ果てた身体を突き動かしていました。
なんとか、パレスチナの地まで逃れていったとき。ラフマーンにかすかな希望が訪れました。忠僕だったバドルと、妹の開放奴隷であったサーリムとめぐり合ったのです。彼らは二人して、こっそり金貨や宝石などを持ち出し、ラフマーンを慕ってあとを追ってきたのです。感動の再会でした。
ですが……ウマイヤ朝の正当なる後継者、アブドル・ラフマーンを、アッバースが見逃すはずはありません。ラフマーンは地の果てまでも追われる身なのです。
さあ、みなさん。今宵は、ラフマーンが、バドルたちと再会したあとからのお話を、ほんの少しばかりいたしましょう……
1
「くそっ」
バドルは、夜の闇の中を駆け抜けながら、舌打ちをした。
「あの悪魔どもめ。なんてしつこいんだ」
パレスチナで再会した彼らを待っていたのは、安息でも安堵でもなかったのだ。アッバース家の出した威令は、故郷から遠く離れたパレスチナにも轟いていた。
「バドル」
ラフマーンは、彼に従う忠僕に声をかけた。
「このまま三人で逃げるのは目立ちすぎる。いったん分かれよう」
「わかりました。どこで落ち合いますか」
「街外れの泉で。おまえは、森に入れ。サーリムは、川を下るんだ」
「殿下は?」
「ぼくは街に戻る」
「なんですって!」
バドルは、驚きの声を上げた。
「殿下。まさか一人で追手を引きつけるつもりじゃないでしょうね?」
「そんな無謀なことはしない」
「しかし……」
「信じろ。木を隠すなら森の中、人を隠すのなら街が一番いいんだ。われわれの中で、一番目立つぼくが、街に入るのがいい。全員が助かるためだ」
「本当ですか?」
「くどいぞバドル」
「ですが……」
ラフマーンの性格よく知るバドルは、懇願するように言った。
「殿下。お願いです。生き抜いてください。なにがあっても、あなただけは、死んじゃぁいけねえ。立ち止まっちゃいけません。振り返ってもいけない。走り続けてください。オレたちを踏み台にしてでもです」
「それ以上いうな。死んではならないのは、おまえたちも同じだ。ウマイヤを再興したとき、ぼくの右腕と左腕に、おまえたちがいなければ意味がない」
「しかし殿下……」
バドルは迷った。ラフマーンに従うべきか否か。だが、ラフマーンを知るがゆえに、説得が無駄なことも知っていた。そしてなにより、だれよりも聡明で、だれよりも強いことを知っていた。殿下は、こんなところで無駄死にする人じゃねえ。バドルは、自分にそう言い聞かせた。
「わかりました。オレは、殿下を信じます」
「よし。ここで分かれよう」
「はい。お気をつけて!」
バドルは、向きを変えて、森の中に紛れ込んだ。
だが、サーリムは、おびえた表情を浮かべていた。
「サーリム」
ラフマーンは、サーリムを安心させようと、努めて落ち着いた声で言った。
「大丈夫だ。川を下ればやつらも気づかない。さあ、行くんだ」
「あ、はい……殿下。どうかご無事で」
サーリムは、ラフマーンに促されて、あわてて川に向かった。
ラフマーンは立ち止まった。忠僕たちの気配が消えると、ひとつ大きく息を吸い込んで振り返り、来た道をゆっくりと引き返し始めた。
足音。アッバースの兵士たちだ。
「いたぞ! ラフマーンだ!」
兵士の一人が叫んだ。
ラフマーンは、静かに剣を抜いた。
「バドル。すまん。ぼくはおまえに嘘をついた」
ここでアッバースをくい止めなければ、バドルたちが逃げ延びることができない。
ラフマーンは、アッバースの兵士たちを見た。二十人……いや、三十人はいる。
突破できるか……
さしものラフマーンも、ごくりとつばを飲みこんだ。
いや。やらねばならない。ここで死ぬわけにはいかない。自分も。そしてバドルたちも。
「アッラーよ! われにご加護を!」
ラフマーンは、漆黒の闇に包まれた天に向かって叫ぶと、アッバースの兵士たちの間に飛び込んだ。
2
その夜。
ハディージャは、スーク(市場)の近くの街角で、占いの店を出していた。店といっても、スークから拾ってきた木箱の上に、小さな水晶の玉を置いただけのものだ。
「ちょっとあんた」
黒いベールをかぶった女が、ハディージャに声をかけた。
「ここで商売をするとはいい度胸じゃない。だれの許しをもらってるんだい?」
ハディージャは、見つめていた水晶玉から顔を上げた。彼女も黒いベールをゆるくかぶっていたが、金色の髪を完全に隠すことはできなかった。
「占い師に許可証があるなんて聞いたことないわ」
ハディージャは、挑発的な声で言った。
「ふん。よそ者が偉そうに。ムハンマドに言いつけるわ」
「ムハンマド?」
「そうよ。ここら辺りを仕切ってる男よ。強いんだから」
「はいはい、わかったわよ」
ハディージャは、水晶を革袋にしまった。
「場所を変えればいいんでしょ、変えれば」
「バーカ。どこいったって同じさ。よそ者が生きていける街じゃないよ。さっさと出て行きな」
「それでも生きてきたわ。ご忠告ありがとう、オバサン」
「オバサンですって!」
オバサンと呼ばれた女は、ハディージャにつかみかかった。
「おっと!」
ハディージャは、軽い身のこなしで女から逃げた。
「無理しちゃダメよオバサン。腰が痛くなってもしらないから。じゃあね!」
「きーっ! 覚えてらっしゃい!」
ハディージャは、女の金切り声を聞きながら、スークに向かった。日が落ちてずいぶんたつが、スークには大勢の人々が集まっていた。このあたりは、まだアッバース朝の威光もそれほど強くない。ウマイヤ朝の影響が残っている。人々は、酒を酌み交わし、陽気に騒いでいた。
「ったく」
ハディージャは、ぶつぶつ言いながら歩いていた。
「なによ、みんなして、よそ者よそ者ってバカにして。アラビア人だって、もともとはよそ者じゃないのさ」
ハディージャは、ベルベル族だった。人種は大きく分けて、モンゴロイド(黄色)、ネグロイド(黒色)、コーカソイド(白色)の三つに区分できる。ベルベル族はコーカソイド系の人種だった。金髪で青い瞳を持っている者が多い。とはいえその肌は褐色で、同じコーカソイドでも、ゲルマンやケルトとは明らかに違う。そして、アラブ族ともアーリア人とも違うのだ。ベルベル族の歴史はあまりにも古く、彼らがどこから来たのか、ハッキリしたことはわからない。
ドン。
うつむきながら歩いていたハディージャは、背の高い男にぶつかった。
「きゃっ」
ハディージャは顔を上げた。
「ちょっと。どこ見て歩いてる――」
ハディージャは、自分のことを棚に上げて、その男に文句を言いかけ、口をつぐんだ。
その男は、ターバンで金色の髪を隠し、鼻から下の顔は薄いベールで覆っていた。瞳だけが見える。
ハディージャは、一瞬、その瞳に燃えるような力強さを感じて息をのんだ。だが、つぎの瞬間には、その瞳から輝きが消え失せ、どこにでもいる凡庸な若者の目になった。
な、なによこいつ。変なの……
ハディージャが、心の中でそう思ったとき、男が低い声で言った。
「ベルベル族か。こんなところに珍しい」
「ふ、ふん……よそ者で悪かったね」
ハディージャは、口癖のように応えはしたが、関わり合いにならない方が身のためだと思い、軽く肩をすくめて、男をよけた。
そのとき。スークの方向から黒ずくめの集団が歩いてくるのが見えた。
「ちっ。アッバースの兵士だ。まったく今日はついてないわね」
ハディージャは、舌打ちした。ウマイヤ家の時代はよかった。国中が寛容だった。カリフがアッバース家になってから、暮らしにくくてしかたがない。人々の心が徐々にすさんでいくような気がしてならなかった。彼女が、いまこうしてパレスチナにいるのも、アッバースの影響の少ない街へと逃れたかったからだ。
すると、いまの男が、すっとハディージャの背中に回った。
「ちょ、ちょっと、なによあんた」
「すまん。追われている」
「え? アッバースに? マジ? 面倒はごめんだよ」
「迷惑はかけない。アッバースの兵士に男を見かけたかと聞かれたら、街の外れに逃げたと答えてくれればいい」
そういって、男は路地の暗がりに身を潜めた。
「ちょ、ちょっと! どーしてあたしが――」
ハディージャは、男に文句を言いかけて、あわてて口をつぐんだ。アッバースの兵士たちが歩いてくる。
「そこの女」
アッバースのひとりが、ハディージャに言った。
「いまここに、背の高い男が通らなかったか?」
ハディージャは、ごくりとつばを飲みこんでから答えた。
「ああ、見たよ。さっき、あわてた様子で、街の外れに走っていったよ」
「そうか。わかった。おい。やつは街外れに出たそうだ。行くぞ」
アッバースの兵士たちは、街の外れに駆けていった。
ハディージャは、彼らの姿が見えなくなってから、路地裏を振り返った。
「いったよ」
「すまない。助かった」
「ふん。べつに助けたくて助けたわけじゃない。あたしは、アッバースの連中が嫌いなだけさ」
「ぼくもだよ」
男は苦笑した。
「ねえ、あんた。いったい、なにをやらかしたんだい?」
「なにも。ただ、あいつらの言いなりにならなかっただけさ」
「あはは。ずいぶん、偉そうな口を利くじゃないか。男なんか、みんな情けないもんさ。あいつらの言いなりにならなかったのは、アブドル・ラフマーンぐらいのものだね」
「ラフマーンを知っているのか」
「当たり前だろ。子供だって知ってるよ」
「やれやれだな」
男は肩をすくめた。
「なんにせよ助かった。礼を言う」
「礼? それだけかい?」
「ああ。そうだな」
男は苦笑すると、腰のベルトに巻き付けてあった革袋から、銀貨を一枚取り出した。
「わぉ。銀貨だ。久しぶりに見た。あんたどこの金持ちの坊ちゃんなんだい?」
「さあね」
男は、また苦笑した。
「じゃあな。女一人で、夜遅くまで出歩かない方がいいぞ」
男は、ハディージャにそう言うと、スークに紛れこんでいった。
ハディージャは、楽して銀貨を一枚儲けたので、今夜はついてないどころか、幸運だったなと思ったが、男が立っていた場所にふと目をとめて、息をのんだ。
「ち、血だ……」
そこには、血が数滴、したたっていた。
「あいつ、怪我してたんだ……大丈夫かな?」
ハディージャは、首を振った。
「ふ、ふん。あたしには関係ないさ」
だが、突然降って湧いた心の動揺が、どんどん膨らんでいった。
まさか……あの人……そういえば、あたしと同じ金髪だった……ラフマーンも噂では金髪だって……
「いいえ、そんなバカな」
ハディージャは、もう一度、激しく首を振った。
でも、もしそうだったら……
ダメよ! なにを考えてるのハディージャ。もし、もしも、あの人がアッバースが追っているラフマーンだとしても、あたしは関係ない。関わったら死んじゃう。
その理性の声とは反対に、ハディージャは、男を追っていた。自分でもどうしてかわからない。なにかに操られるがごとく、身体が勝手に動いているような感覚だった。
3
ハディージャは、スークの石だたみを走っていた。この地に流れ着いて、それほど日が経っているわけではないが、だいたいの道は、頭に入っていた。いつでも厄介ごとから逃げ出せるように。それが女がひとりで生きていくための知恵だ。
いない?
どうして?
さっき分かれたばかりなのに……
どこ、どこにいるの?
ハディージャは、いつの間にか、懸命になってラフマーンを探していた。
ああ、怪我をしているのに。
きっとアッバースの兵士と戦ったんだわ。早く手当をしなくっちゃ。
ハディージャは、ラフマーンを思いやって、気が気ではなかった。半時間も探しただろうか。もう見つからないかも知れない。そう思って諦めかけたとき。
いた!
ハディージャの目に、路地裏に入っていく男の姿が映った。ハディージャは、あわてて走った。
この路地だわ。間違いない!
ハディージャが路地に入り込んでしばらく行くと、男はいた。石の上に座り込み、うつむき加減で右腕を押さえていた。
傷が痛いのだわ!
ハディージャは、はやる心を抑えて男の前に立った。
「あ、あの!」
と、息の弾んだ声をかけたが、そのあとが出てこなかった。彼を見て、もはやラフマーン以外の何者でもないと直感したのだ。ラフマーンが、ウマイヤ家の公子が、本物の王子が、いま自分の目の前にいる。そう思っただけで、足が震えてきた。
「どうした。銀貨一枚では足りなかったか」
男が顔を上げた。
「ち、違う! あ、あの、これ、お返しします!」
ハディージャは、さっきもらった銀貨を男に突き返した。
「どうして? それはきみにあげたものだ。遠慮はいらない」
「で、でも、でも……」
ハディージャは、そこまで言って、一回深呼吸をした。そして、腰を落として、ラフマーンと同じ目線になってから、だれかに聞かれないよう声を落として言った。
「ラフマーンさまから、お金はいただけません」
「おいおい。ぼくは、そんなご大層な人物じゃない」
「でも、あの……怪我の手当をしなければ」
「大丈夫だ」
「大丈夫なものですか!」
ハディージャは、思わず声を荒らげてしまい、あわてて、また声を落とした。
「お願いです。傷を見せてください」
「きみは医者か?」
「いいえ。でも、ちょっとした傷の手当ぐらいできます。そうだわ。あたしのうちに来てください。薬草もあります」
「断る」
「信じてください。あたしアッバースに密告なんかしません」
「そうだとしたら、よけいに断る」
「なぜ?」
「巻き込みたくないんだ。いや……ぼくはラフマーンではないが」
「だったらいいじゃないですか。あたしはただ、怪我をしている人をほっておけなかった。それだけ。お願いだから、言うことを聞いてください」
「どうして、そんなにムキになるんだ」
「アッバースが嫌いだから」
ハディージャは、真剣な顔で答えた。
「母はアッバースに殺されました」
「ウマイヤと関係があったのか?」
「あたしがまだ子供のころ、父はメディナで傭兵をやってました。ヒシャームさまの治世のときです。ヒシャームさまが亡くなられたあとのゴタゴダで、ワリードさまの一派と戦って命を落としました」
ラフマーンの祖父、ヒシャームのあとのカリフを決めるとき、ウマイヤ家の中で内紛があったのだ。
「母には占い師の才能があったので、父が死んだあとも食べるのには困りませんでした。でも、その母も、ウマイヤのために働いたと言う理由で……それからあたしは、母から教わった占いを糧に、アッバースのいない街を転々として暮らしています」
「そうか。苦労をしたな」
男は……いや、ラフマーンは、優しげな瞳でハディージャに声をかけた。
「だが、そんな経験をしているなら、ぼくに関わるのがどれほど危険かわかるだろう。きみはなにも見なかった。それが一番いい。ぼくのことは忘れてくれ」
「ええ。正直言って怖い」
ハディージャは、ラフマーンを見つめた。少し灰色がかった青い瞳。吸い込まれそうに美しい色だった。さっき一瞬感じた、燃えるような強さが、その美しい瞳に宿っていた。
「でも、忘れるのも無理。絶対に無理です。あなたに死んでほしくない。もう立っているのも辛いのでしょう? 夜半になれば、凍えるほど寒くなります。こんなところで死ぬつもりですか?」
「まったく、バドルといい、どうしてこの世にはお節介が多いのか」
「バドルって?」
「なんでもない」
彼女の言う通りだ。ここでうずくまっていても、夜の冷気にやられる。気は進まないが、いまは人の情けにすがるしかないようだった。
ラフマーンは立ち上がった。そのとき、右腕に痛みが走って顔をゆがめた。
ハディージャは、思わず息をのんだ。布で隠しているが、よく見れば右腕にどす黒い血がにじんでいる。
「だ、大丈夫ですか、ラフマーンさま」
「ラフマーンではないと言ったろ」
「では、なんとお呼びすれば?」
「そうだな……ハーシムとでも呼んでくれ」
「いやだ。それアッバースの先祖の名だわ。いえ、名前です」
「だから、いいじゃないか」
「そうね。いえ、そうですね」
「普通に話してくれ。ぼくに気をつかってくれるつもりがあるのなら」
「え、ええ」
ハディージャは、スークの人込みを見てからうなずいた。下手に敬語など使えば、怪しまれてしまう。
「それがいいみたい。さあ、ハーシム。こっちよ」
「すまない。世話になる」
「いいのよ」
ハディージャは、自分と並んで歩くラフマーンを見て驚いた。人込みに出たとたん、痛みに耐えていた瞳から苦痛の色が消え、穏やかなまなざしに変わったのだ。さっき、少し感じた人を吸い込むような強さもない。かなり痛むはずの右腕をかばっている様子さえなかった。
すごい人だ……ハディージャは、素直に感心した。こんな人だから、アッバースから逃れることができたのだ。
「そういえば」
ラフマーンがふいに言った。
「名を聞いていなかったな」
「あたしは、ハディージャ」
「アラブ風だな」
「ええ。生まれはメディナですもの。ベルベル族として育ったわけじゃないわ」
「そうか。そうだったな」
「ウマイヤの時代はよかったわ。アッバースの世になって、住みにくいったらない」
「ああ。ぼくもだ」
「あははは! そうでしょうね!」
ハディージャは、思わず声を上げて笑ってしまった。
「あっ……ご、ごめんなさい」
「なぜ謝る。笑わせるために言ったんだよ」
「そうなの?」
「そうさ。冗談は嫌いかい?」
「いいえ。大好きよ」
「それはよかった」
ラフマーンはほほ笑んだ。
「あ、ここよ」
ハディージャは、スークの外れにある、パン屋の前で止まった。
「この家の裏の納屋を借りてるの。狭いけど、寒さはしのげるわ」
「よく借りられたな」
「このパン屋、三日前に引っ越していったのよ。いまは無人」
「つまり、勝手に借りてるわけか」
「まあね」
ハディージャは、そう言って笑うと、隣の家との間をぬって納屋に行き、ドアを開けた。
「さあ、どうぞ」
「ありがとう」
ラフマーンは、ハディージャの部屋に入った。たしかに狭かった。荷物はほとんどなく、街を転々としているという言葉に真実味が感じられた。
「さあ、急がなくっちゃ」
ハディージャは、ランプに火をつけると、小さな戸棚から、薬草の入ったツボをいくつか出した。
「いろいろ揃えているんだな」
ラフマーンは、床に腰を下ろした。
「そうよ――いえ、そうです。病気になったって、だれも助けてくれませんから」
「ハディージャ。どうか普通に話してくれ。二人きりとはいえ、壁に耳ありだ」
「え、ええ。そうね。わかったわ」
ハディージャは、薬ツボを持って振り返った。
「さあ、服を脱いで」
「ああ」
ラフマーンは、まず顔を覆っていたベールをとり、頭に巻いていたターバンも解いた。
ハディージャは、ラフマーンの顔を見て、目を丸くした。
「どうした?」
「髪の毛……本当にきれいな金髪なのね」
「ああ。ぼくの母はベルベル族だ」
「ホント?」
「本当だとも。この髪の色が証拠だ」
「へえ……そうなんだ」
ハディージャは、自分がベルベル族であることに誇りを持っていなかった。アラブで生まれたのに、なぜアラブ族ではないのかと嘆いたことさえある。だが、ラフマーンに自分と同じ血が流れているのを知って、妙にうれしかった。
「それにしても、ハンサムだって噂も本当だったのね。噂なんて、たいていウソだと思ってたけど」
「母に似たんだ。父がベルベル族の母を愛した理由が、今日やっとわかったよ」
「どういうこと?」
「ベルベル族には美人が多いらしい」
「あの……それって、あたしに対するお世辞?」
「そうかもね」
ラフマーンは笑いながら、上着を脱いだ。さすがに痛みに耐えきれず、小さく、うっとうめき声をあげた。
「ひどいわね」
ハディージャは、ラフマーンの腕の傷を見て顔をしかめた。
「血は止まってるけど、縫わなきゃダメみたい」
「できるか?」
「うん」
ハディージャは、針と糸を出した。そして、傷口を消毒しようと、酒の入った壺を持ち上げた。
「待った。一口飲ませてくれ」
「ええ、どうぞ。気付けの一杯」
「ありがとう」
ラフマーンは酒の壺を受け取って、一口飲んだ。
「つ、強い酒だな」
「アラックよ。こっちの方じゃ度が強いみたい」
アラビアだけでなく、ベルベル族のいる北アフリカやエジプトなどでも作られていた、伝統的な蒸留酒だ。
「アラックか……久しぶりだ。これは、なかなかうまい」
「全部飲まないでよ」
「ああ」
ラフマーンはハディージャに壺を返した。彼女が傷口に酒を掛けると、しみるような痛みが襲った。
「つっ……」
「がまんしてね」
ハディージャは、酒で洗った傷口を新しい布で拭くと、手が震え出さないように気をつけながら、傷を縫った。
「アッバースと戦ったのね」
「致し方なくね」
ラフマーンは痛みに耐えながら答えた。
「いったい何人と?」
「三十人はいたと思う」
「そんなに? すごいわね。三十人も倒しちゃうなんて」
「まさか。そんなに相手にできるわけがない。突破するのがやっとだった」
「でも、何人かは倒したんでしょ?」
「五人目からは数えてない」
「五人でもたいしたものよ。ざまあみろよね」
ハディージャは、傷を縫い終わった。
「できた。これでいいわ」
ラフマーンはホッと息を吐いた。その額からは、さすがに脂汗がにじんでいた。
ハディージャは、手際よく傷口に薬草を当てて布で巻いた。
「きみは医者になる才能があるな」
「冗談。占い師になるのがやっとよ。あ、服の代わりにこれ使って」
ハディージャは、洗い立ての白いシーツを出した。
「汚れてた服は、あとで洗っておくわ」
「なにもかもすまない」
ラフマーンは、シーツを身体に巻いた。
「すまないついでと言ってはなんだが、酒をもう少しもらえないか」
「ええ」
ハディージャは、ラフマーンの傷を消毒した酒を、こんどは安物の陶器の器に注いだ。
「はい。あんまり飲みすぎないでね。傷に響くから――ああ、いけない。食べるものがなんにもないわ。失敗した。買ってくればよかった。ちょっと待ってて、いまなにか買ってくるよ。たしかメゼを売ってるお店が、まだやってた」
ハディージャは、あわてて戸口に向かった。メゼとは、酒とともに食べる食事のことだ。現代の西洋風に言えば、オードブルに近い。
「ハディージャ」
ラフマーンが呼び止めた。
「なに?」
「ぼくのことを気にしてるなら、心配は無用だ」
「でも、お酒飲むのに、なにかあったほうがいいでしょ?」
「いらないよ。座ってくれ」
「でも……」
「本当に気にしなくていいから」
「そう……」
ハディージャは、ラフマーンから、少し離れて座った。
まいったな。どうしよう。間が持たないよ……
ハディージャは、急に心臓の鼓動が速くなるのを感じて、視線をさまよわせた。
「あ、あたしも少し飲もうかな」
「注ごうか?」
ラフマーンが酒の入った壺に手を伸ばした。
「え、いいよ! 自分で注ぐ」
ハディージャは、あわてて壺を取ると、自分で器に注いだ。
「なあ……ハディージャ」
「な、なに?」
「きみは占い師だと言ったね」
「う、うん」
「ぼくの未来も見てはくれないか?」
「あなたの? じょ、冗談でしょ!」
「どうして?」
「だって……ダメだよ。荷が重すぎる。あたしには見れない」
「そうか。残念だな。ウマイヤ朝が再興されるのがいつか知りたかったんだが」
ラフマーンは、そういって笑った。
「それ、本気なの?」
ハディージャは、驚いた顔で聞き返した。
「もちろんだ。むかし、ウマイヤ朝が滅びると予言した占い師がいた。それは不幸にして当たったわけだが、その占い師は、こうも予言した。ウマイヤ家の生き残りが、必ずやウマイヤ朝を再興するだろうとね。ぼくは、自分がその生き残りだと信じている」
「そう……」
ハディージャは、そういわれて、自分自身、興味が抑えきれなくなるのを感じた。この人なら、本当にできるかもしれない。そう思ったのだ。
「ちょっとだけ見てみようか」
「お、うれしいね。よろしくお願いします、ハディージャ先生」
「やめてよ」
ハディージャは、苦笑しながら、腰に結んだ革袋から、小さな水晶球を出した。
「やはり水晶を使うのか」
「まあね。これは扉みたいなものさ。水晶自体に力があるわけじゃない」
「ふうん。そう言うものかい」
「ええ」
ハディージャは、水晶を両手で包み込むように持つと、その透明な球をのぞき込んだ。
「なんだろう……暗いよ。なにも見えない」
「死ぬのか?」
「違う。いいえ、人はいつか死ぬ。あなただって例外じゃない。でも、それはいますぐじゃない。それだけはわかる。それ以上は……あたしには見えない。なにか、霧のようなものに覆われてるだけ。こんなことははじめてだよ」
ハディージャは、ふっと息をついた。
「ごめん。あたしじゃ力不足だ」
「いいんだ。今夜死なないとわかっただけでも」
「安心しないで。占いで見た未来は、たくさんある枝道の一つにすぎない。自分の行いで、どうとでも変わっちゃうんだ」
「そういうものなのか」
「うん。人生は自分で切り開くものだって。母からの受け売りだけど」
「自分でか」
ラフマーンは、ごろんと床に横になった。
「いまはまだ、夢に届かない。人生を切り開く仕事は明日から始めるとしよう。少し疲れたよ」
「だったら、布団で寝て。布団と呼べるほどのものじゃないけど」
「家主の床を汚すわけにはいかない」
「バカ言わないでよ。怪我人なんだから」
「気にするな。夜半になったら起こしてくれ」
「夜半?」
「そうだ。朝日が昇らぬうちに失礼する」
「ちょ、ちょっと。それはいいけど、ホントに布団で寝てってば」
だが、ラフマーンはすでに寝息をたて始めていた。
「もう~。しょうがないなあ」
ハディージャは、自分の寝床から毛布をとってラフマーンにかけた。
あら……
ハディージャは、ラフマーンの寝顔を見て、クスッと笑った。
「やっぱり王子さまね。寝顔がかわいい」
もしも、ウマイヤ朝が続いていれば、ラフマーンはなに不自由ない生活を送っていけただろう。この寝顔のように、安らかな人生を約束されていたはずだ。
ハディージャはそう思って彼の顔をのぞき込んだ。胸が熱くなる。
本物の王子さまなのに……いまは逃亡者。国中がこの人を狙っている。まわりには敵しかいない。
「ラフマーンさま……」
ハディージャは、小声でラフマーンの名を呼んだ。
「あなたは、どこからでも見えるのでしょうね。輝きが強すぎるから。せめて今夜だけは安らかにお休みになって」
ハディージャは、ラフマーンを見つめているうちに、トクントクンと、胸が高鳴るのを感じた。そして吸いよせられるように、ラフマーンのほほに、軽く唇を当てた。
きゃーっ! 王子さまにキスしちゃった!
ハディージャは、顔を真っ赤にして、ラフマーンの汚れた服を持って立ち上がった。
「うふふ。役得役得。さあ、洗濯しておいてあげよう。でも、落ちるかなあ。こんなに血がついてて」
ハディージャは、ラフマーンの服を持って外に出た。
そのとき。突然、腕をつかまれた。
「きゃっ!」
大男だった。
「ナルジャ。この女か」
ハディージャの腕をつかんだ大男が言った。
「そう! こいつだよ!」
答えた女は、さっきハディージャが、オバサンと呼んだ女だった。
「痛い! 離してよ!」
ハディージャは、大男から逃れようともがいた。
すると、大男はハディージャの顔をバチンと殴った。
「静かにしろ、女。もっと痛い目をみてえか?」
ハディージャは、屈辱に唇をかみながらうつむいた。
「よしよし。わかったようだな。で、女。おまえ、オレのシャバで商売をしてたんだって?」
「してないよ」
「ウソおっしゃい!」
女が叫んだ。
「ウソじゃないわ。商売をしようとしたら、あんたに追い出されたんだ。一ディーナールだって稼いじゃいない」
「だが稼ごうとはしたわけだ」
と、大男。
「となると、シャバ代をもらわねえといけねえなあ」
「稼いでないんだから出しようがない。稼ぎの二割が相場でしょうに」
「うるせえよ。オレに無断で商売をしようとした罰金だ」
「わかったわよ。払えばいいんでしょ、払えば」
「よしよし。十五ディーナールで手を打とう」
「十五ディーナール! バカ言ってんじゃないよ。一月かかったって、そんなに稼げるもんか!」
「だったら、べつの方法で払ってもらってもいいんだぜ」
「べつの方法? な、なによそれ」
「おいおい。わかってるだろうに。ベルベル族の女は、商品価値が高いからな。アッバースの連中に売ればいい値がつく」
「じょ、冗談じゃない! だれがアッバースの奴隷なんかになるもんですか!」
「ったく、困った女だな。金はねえ、奴隷にはなりたくねえ。そんな道理が通じると思ってんのかよ」
「いやだ、離して! アッバースに売られるぐらいなら、死んだ方がマシよ!」
「うるせえって言ってんだよ!」
大男は、本気でハディージャを殴った。
「うっ……」
「おっといけねえ。あんまり殴ると商品価値が下がっちまうな。さあ、来るんだ」
大男は、ニヤリと笑って、ハディージャの腕を引っ張った。
「やめて、離して!」
「静かにしろと言ってるだろ!」
そのとき。
「静かにするのはおまえのほうだ」
戸口にラフマーンが立っていた。
ハディージャは、戸口を見て、ラフマーンの名を叫びそうになった。その言葉を懸命に飲み込む。ラフマーンは、頭からすっぽりシーツを被り、顔はベールで隠していた。
「な、なんだてめえ」
大男は、ラフマーンをにらんだ。
「この女の男か?」
ラフマーンは、大男に答えず、手に持っていた金貨を一枚、親指で大男の方に弾き飛ばした。
「おっと!」
大男は、金色に光るそれを空中でキャッチした。
「うおっ。金貨じゃねえか!」
「十五ディーナールに足りるだろう。女を離せ」
ラフマーンは、低いくぐもった声で言った。
「待てよ」
大男は、不敵に笑った。この女、どうやらどこかの金持ちをたらし込んだらしい。こいつはむしり取ってやらにゃあ。大男の顔にはそう書いてあった。
「おい、あんた」
と大男。
「オレの出張料金が足りねえなぁ。まあ、今日のところは、出血大サービスで、金貨十枚で話をつけようじゃないか」
「典型的だな」
ラフマーンは苦笑した。
「まったく、小悪党の典型だよ。でかい身体に小さな脳みそでは、悪事を働くのもこの程度が精一杯と言うところか」
「その一言で、金貨二十枚に跳ね上がっ――」
大男は、そこまで言って言葉を切った。いつの間にか、自分の喉元に剣先があった。ラフマーンが剣を抜いたのだ。その動きがあまりにも早く、無駄のない動きだったので、大男はまったく気がつかなかったのだ。
「けだものめ」
ラフマーンは、剣先をチクリと大男の喉元に当てて言った。
「このまま剣を突き刺せば、アッラーもさぞお喜びになるだろう。地獄の業火に焼かれるがいい」
「ま、ま、待てよ。おい、冗談だって、十五ディーナールでいい。ほら、女を返す」
大男は、ハディージャを離した。
ハディージャは、あわててラフマーンの背中に隠れた。
「行け」
とラフマーン。
「金貨はくれてやる」
「わかった。わかったよ」
大男は、じりじりとあとずさって剣先から逃れると、あたふたと大通りに出ていった。大男を連れてきた女は、ちらりとラフマーンを見てから、大男を追っていった。
ハディージャは、ホッと息をついた。
「ごめん。あたしのせいで」
「謝るのはぼくの方だ」
ラフマーンは、厳しい声で言うと、納屋の中に戻った。
「ホントにごめんよ。怒ってる?」
「ああ。怒っている。自分自身の思慮のなさに」
「え?」
ハディージャは、ラフマーンの言っている意味がわからなかった。
ラフマーンは、頭にターバンを巻き始めた。
「ハディージャ。ここを出るんだ。いますぐ」
「ど、どうして?」
「あの女。ぼくのことに気づいた。すぐアッバースに密告するだろう。小一時間もしないで、ここは取り囲まれる」
「う、うそ……」
「間違いない」
ラフマーンがそういうのだから間違いない。とハディージャは思った。でなければ、この人はとっくの昔にアッバースに捕らわれていただろうと。ハディージャは、本当の意味でことの重大さに気がついた。
「ああ……なんてこと……あたし、とんでもないことしちゃった」
「違う。悪いのはぼくだ。きみはラフマーンをかくまった罪に問われる。重罪だ」
「あ、あたし、あたし……」
そうだ。あたしも危ないんだ……
ハディージャは、ごくりとつばを飲んだ。
「過去は変えられない。いまさら悔やんでも無意味だ。お互い、生き延びることだけ考えよう」
ラフマーンは革袋に入ってる金貨を確認した。五十ディーナール入っていた。それを革袋ごとハディージャに渡した。
「ほら。持っていくといい。当座はこれで暮らせるだろう」
ハディージャは、涙が出そうになった。
「どうして? あたしが悪いのに……なんであなたは、そんなに優しいのよ」
「人生は自分で切り開くものなのだろう?」
ラフマーンは、ハディージャにほほ笑んだ。
「で、でも、あなただってお金は必要でしょう」
「金なんてどうとでもなる。ハディージャ。ぼくの服を」
「汚れているよ」
「そんなことに、かまってられない」
「う、うん」
ハディージャは、抱きしめていたラフマーンの服を返した。
「さあ、早く。きみも逃げる準備をするんだ。街を出るまではぼくが護衛しよう」
「うん」
ハディージャは、あわてて身の回りのものを袋に詰め込んだ。
4
「こっちよ」
納屋を出たハディージャは、大通りとは逆の方へ向かった。
「街を出るには遠回りだけど、スークを通らない方がいいわ」
「賛成だ」
ラフマーンは、ハディージャのあとに続いた。
「きみの方が土地勘がある。任せるよ」
「うん。あ、あの……」
「なんだ?」
ハディージャは、喉元まで、一緒に連れていってと出かかり、その言葉を飲み込んだ。自分がラフマーンについていっても、足手まといになるだけだ。
「ううん。なんでもないの」
ハディージャは、首を振った。
そのとき。後ろの方から、男たちの声が聞こえてきた。
「来たぞ」
と、ラフマーン。
早くもハディージャのいた納屋が取り囲まれたらしかった。やはりラフマーンの直感は正しかったのだ。
ハディージャは走った。もう自分の命などどうでもよかった。ラフマーンを逃がさなければ。それだけが頭にあった。
だがハディージャの願いは、アッラーに届かなかった。民家の密集地を抜けたところで、さっきの大男と、その仲間たちが待ち伏せをしていたのだ。
「やっぱり、こっちを通りやがったか」
大男がニヤリと笑った。
「そ、そんな!」
ハディージャは、自分の判断の甘さを呪った。
「ラ、ラフマーン……ごめんなさい」
「気にするな」
ラフマーンは、落ち着いた声で言った。
「相手が一枚上手だった。それだけのことだ」
「でも……」
「ハディージャ。悲観するのは、死んでからにしてくれ。ぼくらはまだ死なない」
ラフマーンは剣を抜いた。
相手は七人。しかも、剣の訓練も受けていないチンピラばかりだ。
「おまえ」
ラフマーンは大男に言った。
「あのまま家に帰っていれば、死に急ぐこともなかったろうに」
「ふん」
大男は、口元をゆがませた。
「いつまで、そんな威勢のいいことを言っていられるかな?」
「それは、こちらのセリフだ」
ラフマーンは、もはや必要がないと言わんばかりに、顔を隠していたベールと、ターバンさえ脱ぎ捨てた。ブロンドの髪が、夜の闇でさえ輝いて見えた。
「野郎ども、やっちまえ!」
それが合図だったかのように、大男が叫んだ。
つぎの瞬間。一人の男が首から血しぶきをあげた。ラフマーンが風のように飛び出し、一番近場の男から片づけたのだ。
「うっ、うわあ!」
男たちは、突然の出来事に驚きの声を上げた。まだ剣を抜いてさえいなかった。そして、剣に手をかけようとしたとき、自分の腹からも、血が吹き出しているのを知った。
ラフマーンは、二人の男を斬ったあと、くるりと向きを変え、やっと剣を抜いた男の腕を切り落とした。そして、剣を空中で左手に持ち替え、自分を後ろから切りつけようとする男の気配を頼りに切り崩した。
ラフマーンは想像を絶するほど強かった。もともと剣の才能に恵まれていただけでなく、物心つくころから、一流の剣士に剣技をたたき込まれてきたのだ。彼が十六になるころには、ラフマーンに剣を教えることのできる剣士はいなかった。
強くあれ。それが祖父ヒシャームがラフマーンに望んだことだった。ヒシャームは、自分の息子を、つまりラフマーンの父を甘やかして育ててしまった苦い経験があった。ラフマーンの父は、みなから、カリフの器ではないと見なされていた。実際、ラフマーンの父は、プレイボーイ以外の何者にもなれなかった。ヒシャームは息子をカリフにすることができず、彼の亡くなったあと、ウマイヤ家の中で内紛が起こったのだった。
「や、やべえ! 強すぎる!」
四人もの仲間をあっと言う間に倒されて、残った男たちは狂ったように剣を振り回した。ラフマーンにとっては、子供の遊びにつきあっているようなものだった。
だが、そこに油断があった。
「きゃーっ!」
ハディージャが、リーダー格の大男に捕らえられた。
「ハディージャ!」
ラフマーンは、視界の隅でハディージャの姿を捕らえていたが、すぐに助けるわけにはいかなかった。狂ったように剣を振り回す男たちが行く手を阻む。
まったくバカに刃物を持たせるとタチが悪い。ラフマーンは、地面をけって、男たちの顔に砂をかけた。
「うっぷ! 卑怯だぞ!」
殺し合いに卑怯もくそもない。ラフマーンは名より実を取らねばならないのだ。砂で目をつぶした男の首を切り、べつの男は胴に飛び込んで腹に剣を突きたてた。
六人を倒し、ラフマーンはハディージャを捕らえた男に向き直った。
「そこまでだラフマーン!」
大男は、ハディージャの首筋に短剣を当てて叫んだ。
「女が死ぬぞ!」
「まったく……」
ラフマーンは、肩をすくめて見せた。
「おまえたち悪党のやることは創造性がないな」
「なんとでも言いやがれ。剣を捨てろ」
「断る」
「なんだと? 女が死ぬぞ」
ラフマーンは、剣を大男に向けた。
「名を聞いておこう」
「なんだと?」
「おまえの名だ」
「ム、ムハンマドだ」
大男は、思わず答えた。
「ムハンマド」
ラフマーンは低い声で言った。
「ハディージャが死んだとき、おまえの命もない。痛みも感じずに死ねると思うなよ。おまえはとくに念入りに殺してやる。その薄汚い目玉をくり抜かれる痛みを想像するがいい」
ラフマーンは、一歩ムハンマドに近づいた。
「ひっ……」
ムハンマドは、ラフマーンのあまりの眼光の鋭さに足が震えた。
「さあ、どうする。ハディージャを離せば命だけは助けてやる」
そのとき。ハディージャが、さらに追い打ちをかけた。
「ラフマーン。あたしはいいから、こいつを殺して。生まれてきたことを後悔するほどむごい死を与えて」
「バカ野郎、黙れ!」
ムハンマドは、ハディージャに叫んだ。
「バカはどっちよ!」
ハディージャも負けずに叫んだ。
「あんたたち、アッバースと関係ないじゃない! なんで彼を狙うのよ!」
「ヤツにどんだけの賞金がかかってると思ってるんだ。ラフマーンの首を持っていきゃあ、一生遊んで暮らせる金が手に入るんだ」
「そんな理由で……」
ハディージャの声が震えた。
「おまえのことをアッラーは絶対にお許しにならない。呪われて死ぬがいい!」
「もういい、ハディージャ」
ラフマーンが言った。これ以上、時間を引き延ばすのはマズイ。騒ぎが大きくなっている。アッバースの兵士たちのもとにも、すでに自分の居場所が伝わっているだろう。
「さあムハンマド。地獄の業火に焼かれるか、明日も生きて朝日を拝むか。どちらかに決めろ」
そのとき。幸運はムハンマドに訪れた。
「こっちだ! いたぞ! ラフマーンだ!」
アッバースの兵士たちが、スークの方から集まってきたのだ。
「逃げて!」
ハディージャは、喉が焼き切れるほどの声で叫んだ。
「逃げて、ラフマーン!」
ラフマーンは、ちらりと後ろをふり返った。まだ退路があった。いまなら逃げきれる。
だが……
ラフマーンは逃げなかった。数カ月前。ユーフラテスの河畔の街に潜んでいた彼は、アッバースの急襲にあった。そのとき、彼を慕い、一緒についてきた女子供を、置き去り同然にして逃げたのだ。そうするしかなかった。だが……そのあまりにも苦い思いは、ラフマーンの心に楔のように打ち込まれていた。
もうだれも死なせたくない……
ラフマーンは、アッバースの兵士たちに取り囲まれた。
「うへへへ。形成逆転だな、王子さまよぉ」
ムハンマドの態度が、急にでかくなった。
「女をかばって死ぬとはバカなやつだ。うははははは!」
「やめろ」
と、アッバースの兵士の中から、ひときわ立派な鎧を着た、壮年の男が出てきた。
「ラフマーン殿は、ウマイヤ家の公子だぞ。礼儀をわきまえろ」
「へ?」
ムハンマドは、その兵士に首をかしげた。
「でもよぉ、こいつは、あんたらの敵だろ」
「そうだ。ラフマーン殿ほど敵として立派な方はいない。礼儀を示さねば、アッバースの名折れだ」
「けっ。どうでもいいや。オレは金さえもらえればそれでいい」
「ゲスめ」
アッバースの兵士はムハンマドを見下げると、ラフマーンに向き直った。
「ラフマーン殿。わが名は、イブラヒーム。アッバースの協力者が無礼を働いたこと。お許し願いたい」
「そう思うなら、女を離せ」
「よかろう」
イブラヒームは、ムハンマドを冷たい目で見ながら言った。
「女を離せ」
「勝手にしやがれ」
ムハンマドは、ハディージャを離した。
「ラフマーン!」
ハディージャは、ラフマーンに駆け寄り、彼の腕を抱いた。
「あんたバカよ! なんで、逃げなかったのよ!」
「ぼくは……」
ラフマーンは、眉間にしわを寄せ、苦渋に満ちた顔で言った。
「一族をすべて殺された。父も母も妹も。一緒に逃げた弟は目の前で殺された。もうたくさんだ。だれも失いたくない」
「でもでも……あんたが死んじゃったら、だれがウマイヤ朝を再興するのさ」
「死にはしないさ、今夜はな。ハディージャ。二度とぼくから離れるなよ。少々荒っぽくいくぞ」
「まさか、突破するつもり?」
「そのまさかだ」
ハディージャは、ラフマーンの瞳を見つめた。彼の瞳から輝きは消えていなかった。死ぬ気じゃない。この人は、まだ諦めてはいないんだ。
「はい」
ハディージャは、その瞳に吸い込まれるように答えた。
「あなたを信じます」
「最後のお話はお済みか」
イブラヒームが言った。
「貴殿に恨みはないが、その首を頂戴いたす」
「ご期待には添いかねる」
ラフマーンは、剣先をイブラヒームに向けると、ハディージャをかばうように背中に回した。
「わが道に立ちふさがるなら、おまえたちこそ、その命はないと思え」
そのとき。一陣の風が吹き、ラフマーンの黄金の巻き毛が風に舞った。その姿は、まるでライオンのようだった。
百獣の王。
ハディージャは、ゾクッと鳥肌がたった。敵をにらむラフマーンの精悍な顔は、まさに王者のそれだった。恐ろしいほど美しい。
そう感じたのは、ハディージャだけではなかった。いや、ハディージャ以上に、アッバースの兵士たちの方がラフマーンに畏敬の念を感じたようだった。それが証拠に、彼らは額から冷や汗を出して、二、三歩、あとずさった。
だが、その中の、まだ分別を知らぬ若い兵士が、仲間を押し退けて前に躍り出ると、ラフマーンに斬りかかった。
ラフマーンは、軽い身のこなしで兵士の一撃をよけると同時に、剣を兵士の脇腹に突きたてていた。
兵士は、あまりにも一瞬のことで、自分が斬られたことがわからず、剣を構え直そうとしたが、つぎの瞬間、げほっと、口から鮮血を吐いて倒れた。
「なぜ」
と、ラフマーンは、苦い顔で若い兵士の遺骸を見つめているイブラヒームに言った。
「ウマイヤ家がイスラムの王者になったか。その理由がわかるか?」
イブラヒームは、なにも答えなかった。
ラフマーンは続けた。
「それは、わが一族が、だれよりも強く勇猛であったからだ。その末裔たるわたしと剣を交えるおまえたちは幸運だ。わが名をその胸に刻んで死ぬがいい」
「おまえたち下がれ」
イブラヒームが言った。一人前に進み出る。一騎討ちの誘いなのは明らかだった。
アラビア人の戦法は、スフーフという長い横の隊列を作って敵と対峙し、敵味方双方から名乗り出た勇士たちが、両陣の中間で一騎討ちの勝負をするのが伝統だった。
だが、その伝統的だが意味のない戦法を、近代的な戦法へと変えたのは、ウマイヤ朝のカリフ、マルワーン二世だった。ラフマーンの祖父、ヒシャームの叔父だ。ラフマーンが、ウマイヤ家を、だれよりも強く勇猛であったと言ったのは、誇張でも脅しでもなく、歴史的事実なのだ。ウマイヤ家はだれよりも戦争に長けていたのだから。
「これだから年寄りは困る」
ラフマーンは苦笑すると、躊躇なく、腰に差していた短剣をイブラヒームの額にめがけて投げた。
「あっ」
と、兵士たちの間から声があがったとき。イブラヒームは額に短剣が突き刺さった姿で、彫刻が崩れるように絶命した。
「隊長!」
兵士の間に動揺が走った瞬間。
いまだ!
ラフマーンは、ハディージャを抱え、アッバースの兵士の円陣の中に飛び込んだ。兵士を立て続けに五人切る。
円陣がほころび、道が開いた。ラフマーンは、その機を逃さなかった。円陣の隙間に滑り込むように入り、兵士を三人切り崩して、外へと飛び出した。
アッバースの兵士たちは、大混乱に陥った。だが、すぐに態勢を立て直し、ラフマーンを追った。
「ダメ、あたし走れない!」
ハディージャが叫んだ。
「諦めるな!」
ラフマーンは、ハディージャの手を離さなかった。
そう叫んでみたものの、状況は悪かった。このままでは追いつかれる。アッバースの兵士の数は、二十人はいるだろう。
さすがに無理か……
ラフマーンがそう思ったとき。
「殿下!」
路地裏から、バドルが飛び出してきた。
「やっぱり、こんなこったろうと思ったぜ!」
「バドル! 街外れの泉で待っていろと命令したはずだぞ!」
「そりゃこっちのセリフですよ!」
バドルは、ラフマーンに並んで走りながら叫んだ。
「街の連中が騒いでるんで、気になって来てみたら、やっぱり殿下が原因だ! ここはオレが食い止めます。殿下は逃げてください!」
「どうして、ぼくのまわりには、お節介な連中が多いのか!」
「なんか言いましたか!?」
「お節介だと言ったんだ! だが、半分はおまえにくれてやる!」
ラフマーンは、立ち止まり、追ってくるアッバースの兵士たちに向き直った。
「殿下。逃げちゃくれないんですね」
バドルは、諦めたかのように苦笑した。
「当たり前だ。おまえよりぼくの方が強いことを忘れるな」
「はいはい。もう諦めましたよ。半分は殿下に任せます」
「よし」
ラフマーンは、ニヤリと笑った。
「行くぞ、バドル! ついてこい!」
ラフマーンは、アッバースの兵士たちに向かって走った。
バドルも、後れをとるまいと、雄叫びをあげながらラフマーンを追った。
「うおおおおーっ!」
5
サーリムは、街外れの泉で、ラフマーンたちを待っていた。
「遅いな……このままじゃ凍え死んでしまうよ」
彼は、ラフマーンの妹の開放奴隷だった。開放奴隷とは、奴隷として売られては来たが、一般市民と同じ待遇を与えられた者たちのことだ。将軍になるのさえ夢ではない。だがサーリムは、戦いには不向きだった。主人を守るために、それなりに剣の技も磨いてはいたものの、剣士としては気が弱く、むしろ料理が得意な男だった。
「ううう。寒い」
サーリムが、自分を抱くように腕を組んだとき。
「いやあ、相変わらずお見事な腕前です」
バドルの陽気な声が聞こえてきた。
「まったく、殿下の剣技は、何度見ても惚れ惚れしますな」
「バドルこそ、大したものだったぞ。右から切りつけるヤツを、回転しながら左手で切り倒したのは見事だった。だれに教わった?」
「ははは!」
バドルは笑った。
「あんな無茶な戦法、だれにも教わったことはありません。ただ、殿下のマネをしてみただけですよ。お、サーリム。お待たせ!」
「バドル! 殿下!」
サーリムは、ラフマーンたちに駆け寄った。
「あれ? この女は?」
サーリムは、ハディージャを見とがめた。
「ハディージャだ」
と、ラフマーン。
「ぼくの命の恩人だよ」
「まさか!」
ハディージャが、驚いた声を出した。
「あたしの命を救ってくれたのはラフマーンじゃないの!」
「こら」
と、バドル。
「また殿下を呼び捨てにしやがった」
「あ、ごめん……」
「バドル。怒るなよ。それより、おまえたちもこれからは敬語を使うな」
「なんでですか?」
「街で敬語を使われたら、ぼくの正体がバレるだろうに」
「そうでなくてもバレますよ。オレは断じて、ため口なんか利きませんからね。断じてです。そんな命令は、絶対に聞けません」
「頑固だなあ」
ラフマーンは苦笑した。
「まあいい。サーリム。そういうわけで、今日からハディージャも、ぼくらに同行することになった。仲良くやってくれ」
「よろしくね、サーリム」
ハディージャは、サーリムにウィンクした。
「はあ?」
サーリムは、首をかしげた。
「そういうわけって、どういうわけなんですか? わたしは、サッパリわけがわかりませんよ」
「ははは」
ラフマーンは笑った。
「あとで、ゆっくり話してあげるよ。ぼくらのちょっとした冒険をね」
「そうよ。ラフマーンってば、むちゃくちゃカッコよかったんだから!」
「あ、また呼び捨てにしやがった!」
「ふんだ。ラフマーンがいいって言ったもの」
「だからっておまえな」
「こらこら」
ラフマーンがバドルとハディージャの間に入った。
「仲良くしなきゃダメだろ。もうハディージャは仲間なんだから」
「そうだよ!」
ハディージャは、ラフマーンの左腕に抱きついた。右腕は怪我をしているから。
「もう二度と離れないからね。覚悟してよね、ラフマーン」
「はいはい。こちらこそよろしく。ハディージャ先生」
ラフマーンは陽気に笑った。
「ったくもう。先が思いやられるぜ」
バドルは、苦笑を浮かべたのだった。
ラフマーンたちに訪れた、ひとときの安堵。
だが……
これは、長く辛い旅路の、始まりにすぎなかった。
おわり。
あとがき
ラフマーン一行の、一夜の物語。いかがでしたでしょうか。
ここでお断りです。バドルとサーリムは実在の人物ですが、ハディージャをはじめ、その他の人物は、すべて筆者の創造です。もちろん、この一夜の物語すべてが、創作物であり記録に残っている実話ではありません。歴史フィクションとしてお読みいただければ幸いです。
ただし。千夜一夜風にはじめた序文に書いたラフマーンの逃避行、そして本文中にも登場したウマイヤ朝のカリフの名前、さらにウマイヤ朝のカリフが、近代的な戦法を編み出したくだりなどは、すべて史実に基づいています。つまり、この物語に記された歴史の大きな流れは、けっして創作ではありません。
そもそも、ウマイヤ朝は、まだ謎に包まれた王朝です。なぜなら序文に書いた通り、ウマイヤ家に対するアッバース家の弾圧はすさまじく、ウマイヤの遺跡は、ほぼすべてアッバースによって破壊されてしまったからなのです。
残念ながら、現代においても中東の情勢は安定せず、ウマイヤ朝の姿を知るための発掘作業は進んでおりません。
とくに、ウマイヤ家の故郷であるシリアには、有力な遺跡が埋まっている可能性が指摘されていますが、あの国はいまだ考古学を研究するに安全な国とはいえません。
まだまだ謎の多い王国。後ウマイヤ朝。いまわかっていることだけで恐縮ですが、せっかくなので歴史としての「クライシュ族の鷹」も語ってみたいと思います。そちらは以下の文章に譲りますね。
歴史としての「クライシュ族の鷹」
さて小説ふうに書きました「クライシュ族の鷹」いかがだったでしょうか。
いま読んでいただいた物語でラフマーンについて興味を持たれたとしたら望外の喜び。もしそういう方がいらしたら、ぜひぜひこれから語る歴史としての「クライシュ族の鷹」もご一読いただければと存じます。
えっ、歴史なんて好きじゃないよ!
そう思われたあなた。大丈夫。ぼくをを信じて。noteに掲載している「神話」をいくつがお読みになった方なら、コミカルに(でもできるだけ正確に)文章を綴るのがぼくのポリシーです。今回もがんばってみよう。
さきの物語で語ったアブドル・ラフマーンは紀元756年に後ウマイヤ朝を興した実在の人物です。
いきなり後ウマイヤ朝なんて言われても、なによそれ、どこの国? ってな感じだと思うから、ちょっとラフマーンが登場する前の歴史についても、書いておこう。
現代では、イランがある場所には、紀元前三世紀ごろ、パルティアっていう王国が成立したんだ。このパルティア王国は五百年近く繁栄したけど、紀元224年に、ササン朝ペルシアによって滅ぼされちゃった。ササン朝って言うのね、アナーヒタという水と豊穣の神様を祭った神殿の守役だった、ササン族がパルティアを滅ぼしたもんだから、そう呼ばれてるんだよ。このころは、もちろんイスラム教はなくて、まだ多神教の時代だよ。
え? じゃあ、ペルシアってのは、どうしてついた名前なのかって? するどい質問ですな。ごめん、じつはよく知らないんだけど、イラン南西部の古代地名パールス(パールサとも呼ぶ)に由来するらしいよ。アラブ風になまると、ファールスになる。
じつは、ペルシアって、ササン朝の前にも、アカイメネス朝とかあってね、まあ、この辺は細かい話になっちゃうから割愛するけど、ペルシアは、ササン朝に時代に一番繁栄したんだ。14世紀の地理学者で、イブン・アル・バルヒーってオッサンが書いた『ファールス・ナーマ』って本に、「古代ペルシアの帝王たちの時代には、この地域は政治の中心であり、東はオクソス川から、西はユーフラテス川にいたる間の諸国は、ペルシア人の国と呼ばれた。そこにある都市はすべてペルシア人の都市であり、全世界が、彼らに租税と貢ぎ物を納めていた」って書いてる。つまり、ペルシアは世界の中心だったんだね。
ところで、ササン族は、神殿の守役だったって書いたよね。早い話、神官だったわけだ。だからなのか、ササン王朝は、けっこう厳格というか気難しいというか、一般市民が王様に会うなんてとんでもない話で、ササン王朝の王様は、たいがい、王宮の奥の奥の、またさらに奥の部屋にいて、側近でさえも、直接顔をみることは許されず、薄いベール越しに、謁見したっていうんだから、なんとも神々しいよね。実際、ササン王朝の王様は、半分本気で、自分たちのことを神様だと思ってたフシがある。
さて、ペルシアの話を、もっとしたいんだけど、一気に400年ぐらい時間を進めちゃおう。紀元612。この年、みなさんもよくご存じのマホメットが、天使から「神の教えを人々に伝えなさい」と言われちゃった。いよいよイスラム教の誕生だ。
ここで、ぜひ、言っておきたいことがるんだけど、マホメットはペルシア人じゃないんだよ。彼はアラブ人。アラビア半島ってあるじゃない。あそこはね、じつはペルシアの支配地域じゃなかったんだ。マホメットはアラビア半島生まれさ。といっても、あそこも広いから、もっと正確に言うと、メッカで生まれたんだ。当時のアラビアも基本的には多神教で、メッカは宗教の中心地でもあったんだよ。いろんな神様が祭られてたらしい。
ところが、当時のアラビアには、すでにキリスト教が布教活動で入ってきて、ユダヤ教も、ユダヤ人の入植で入ってきていた。まあ、いろんなのが混ざってたわけだ。そんな中、マホメットが、ユダヤ・キリスト教系列の一神教を広めて、それがイスラム教と呼ばれるようになっていくわけなんだけど、今回は、イスラム教の話が主体じゃないから、ここもザックリ割愛しちゃう。だけど、どんどん力をつけたアラブ軍は、イラク、イラン、エジプトなんかを征服していって、ついに、ローマとの戦いで疲弊していたササン朝ペルシアも滅ぼしちゃうのは、覚えておいて損はないかもよ。
ああ、そうだ。イスラム教の話が主体じゃないと言ったけど、一つだけ覚えといて。イスラム教団のトップのことを「カリフ」って言うんだ。ここで間違えちゃいけないのは、マホメットはカリフじゃないってこと。カリフって言葉は、後継とか代行者って意味。マホメットは真の預言者だからね。モーゼやキリストと同じ立場なんだ。でも、教団には後継者が必要なんで、マホメット以降にカリフという制度を作ったんだよ。古来、アラビアは自由な気風だから、族長も世襲ってことは稀だったんだ。そのときに、最も能力の高い人が選挙とか話し合いで選ばれるんだよ。だからマホメットも、自分の子供を後継者にしなかった。そもそも後継者を決めずに昇天なされた。ところが、このカリフが、やがて、王様と同じように世襲制になるので(形ばかりの選挙制度は残ったけど)、「カリフ=王様」と思っても、あながち間違いじゃない。
さあ、話がちょいと前後しちゃったけど、いよいよウマイヤ家と、アッバース家にご登場願おう。ちょいと(いや、だいぶ)事情は複雑なんだけど、最初はこのご両家とも、マホメットと一緒に戦った人たちだった。
さっき、マホメットは後継者を指名せずにこの世を去ったと書いたけど、そのせいで、大騒動が持ち上がるのは想像に難くないよね。つまり、マホメット亡き後、アラブ人特有の部族間の争いが再燃して、早くもイスラム教団は、崩壊の危機に直面したんだ。分裂だね。
そんな緊張の中、初代カリフを決める会議が行われたんだ。メッカの名門だった、ウマイヤ家からカリフを出そうって勢力と、アッバース家の出で、マホメットの義理の息子、アリー(マホメットの娘を嫁さんにもらった)をカリフにしようって勢力がぶつかった。
このどちらにも問題があったから、話はさらにややこしい。
まず、ウマイヤ家の問題。彼らは名門で勢力もあったんだけど、じつは、イスラムに帰順するのがずいぶん遅かったんだよ。というか、最初はマホメットを迫害すらしてた。ところが、イスラム教団の勢力が押さえきれなくなると、コロリと態度を変えて、イスラムに帰順したって経緯がある。だから、初代カリフを出すには、いささかふさわしくないと思われてもしょうがない。
その点、アリーは、マホメットの奥さんの次に(そう! 最初のイスラム信者は、マホメットの最初の奥さんだったハディージャさん)信者になったとも言われている人で、マホメットの信任も厚かった。血統って意味では、問題ないし、勇猛果敢で誠実なんだけど、こっちも問題があった。マホメットが晩年に妻として迎え、目に入れても痛くないほど寵愛した、アイーシャに恨まれてたんだよね。余談だけど、マホメットとアイーシャは、父と娘どころが、祖父と孫娘ぐらいに年が離れていた。
まあ、年の差はともかく、アイーシャは、本当に特別マホメットに愛されてたから、彼の死後も、教団の中で特別な存在だったんだ。けっこう発言力があった。彼女の意にそぐわない人物が、初代カリフになるのは、いささか難しい。
さあ、どうする。事態は、ウマイヤ家とアッバース家の争いの様相を呈してきた。こりゃ、どっちが初代カリフになっても、流血の事態は免れないぞ!
と、思われたとき、オマルって人が、マホメットの友人だった、アブー・バクルを初代カリフにしようと、あっちこっち説得して回って、なんとか事態を収拾した。ところが、アブーさんは、カリフになって二年で死んじゃったもんだから、オマルさんが、二代目カリフになった。そのオマルさん、十年間頑張ったんだけど、こんな群雄割拠の時代だから、けっきょく、刺客に殺されちゃった。そのあと、いよいよアリーの出番かと思いきや、微妙なところで、ウマイヤ家にカリフの座をさらわれて、ウマイヤ家のオスマーンが三代目カリフになった。ところがオスマーンさんってば、このとき齢七十歳。すでにジイさま。
そんでも、カリフとして有能だったら問題なかったけど、重要な拠点の太守をジャンジャン罷免して、ウマイヤ家の人たちをその後任に命じたもんだから、さあ大変。恨みを買いまくって、けっきょく惨殺されちゃった。
ここで、ついにというか、やっとというか、初代カリフのときから、カリフの代替わりのたびに有力候補とされてきた、アリーが、四代目カリフになった。
これで一件落着? とんでもない! アリーはたぶん、安心して眠れる夜はなかったんじゃないかな。オスマーンを殺されたウマイヤ家は、その仇として、アリーを殺すことにしたんだ。そしてアイーシャの存在。この人は、もともとアリーを恨んでいたから、彼がカリフでいることが我慢ならない。(ちなみに、なんで恨んでたかというと、アリーに貞操を疑われたことがあるんだよ)
そんなこんなで、アリーは、ウマイヤ家と、アイーシャを担ぐ勢力と戦わなきゃいけなかった。まず手を着けたのはアイーシャの方。こっちはなんとか、アイーシャを捕らえて、そのあと、彼女を丁重に扱うことで、なんとか納まったけど、問題はウマイヤ家だ。こっちとは、数万の軍勢をぶつけ合う、まさしく戦争状態。
このとき、ウマイヤ家を率いていたのは、ムアーウィヤっていう覚えにくい名前の男なんだけど、彼は徳川家康タイプなんだ。アリーは勇猛果敢だけど、ちょいと単純なタイプ。
と、こう書けば、どちらが勝ったかわかるよね。そう。ウマイヤ家の勝利だよ。それも徳川家康っぽく、なんとも遠回りなやり方。
アリーの軍は、ムアーウィヤの計略で、まず、ハト派とタカ派に分裂させられた。それで、アリーは、ウマイヤ家と停戦することにしたんだ。これで怒ったのがタカ派だ。カリフともあろうものが、アッラーの決裁を仰がず、和議なんて、人間の勝手な判断で重大な問題を決着させたのはけしからんってわけ。
アッラーの決裁ってのは、早い話、戦い抜くってことだよ。どんなに劣勢でも、正しければアッラーの加護で、戦いに勝つはずだ。というのが、イスラムの考えだからね。
と、そんなわけで、ウマイヤ家は、アリーの軍隊が、自滅していくのをただ見てるだけでよかった。アリーはけっきょく、反旗を翻したタカ派の刺客に暗殺されちゃった。ウマイヤ家にしてみれば、笑いが止まらなかったろうね。
ウマイヤ家の、ムアーウィヤは、アリーが存命中から、自分こそがカリフであると主張していたんだけど、一応、このアリー暗殺事件をもって、ウマイヤ朝が正式に成立したとする学者が多い。時に紀元661年。マホメットの死後、29年後のことだよ。
そもそも、このご両家は、水と油なんだよ。ウマイヤ家は、シリア人で、生粋のアラブ人。気性は激しいけど、砂漠と酒と詩を愛する、陽気な人たちだ。ところが、アッバース家の支配地域はペルシアに近く、文化的にはペルシア人の影響を受けていた。ササン朝ペルシアのところで、彼らは、厳格っていうか気難しいっていうか、ちょいと、神掛かっていたと書いたよね。アッバース家も、そういう気風を持っていたんだよね。これじゃあ、馬が合うはずがない。
さてさて。なんで、本題のアブドル・ラフマーンの前に、ウマイヤ家とアッバース家の対立をこんなに長く書いたかというと、じつは、この怨念ともいえるような事件が、百年後に登場するラフマーンの人生を大きく変えちゃったからなんだ。
ウマイヤ王朝が成立してしばらく、カリフはまだ昔ながらの族長風だったんだけど、五代目のカリフのときになって、ようやくアラビア語を公用語と定め、それまで使われていた、ギリシア語やペルシア語を禁止した。さらに、お隣のビザンツ帝国の通貨を使ってたんだけど、こいつも廃止して、イスラム風の通貨を発行した。やっと「国」としての形ができたってところかな。いや、実際は「帝国」だけどね。エジプトからインドぐらいまで支配しちゃったんだから、ウマイヤ家もたいしたもんだ。七代カリフのスライマーンのころには、ピレネー山脈を超えて、フランスまで侵入して、十代カリフ、ヒシャームのときには、ロアール川まで進行したんだってさ。このヒシャームのころが、ウマイヤ王朝の最盛期だね。
ところで、ウマイヤ家といえば、酒と詩と女を愛する砂漠の民って書いたよね。いや、実際には学者肌の人もいたけど、総じて、そういう気風の家なんだ。ウマイヤ家のカリフは、一人二人をのぞいて、ほとんどが、コーランを読むより、現世の快楽を楽しむ方が好きだったわけよ。こんな人たちが治めるんだから、ウマイヤ王国は、マホメットが存命していたころより、華やかで、陽気な国だった。カリフ自身、王宮に閉じこもってなんかいなくて、街へ繰り出しては、民衆と直接交わったりすることも多かったし、そうでなくても、ハージブ(侍従)という役職の役人に願い出れば、一般市民も、カリフに直接会うことが許された。このあとのアッバース王朝だと、カリフは王宮の奥にひっこみ、半神半人みたいになって、アッラーが現世に示した陰なんて呼ばれるようになる。
そうそう。ウマイヤ家のカリフは、都会を嫌って、砂漠に別荘を建てることも多かったんだよ。シリア砂漠から当時の離宮が発掘されたりしてる。じつは、ウマイヤ王朝のことは、このあと興ったアッバース朝に隠れて、よくわかってないことも多いんだ。まだまだ、砂漠から遺跡が発見される可能性がある。未来の考古学者諸君、がんばってくれたまえ。
そんなこんなで、百年が過ぎた。ウマイヤ家は、ムアーウィヤのあと二人ほど、有能なカリフを出してるけど、徐々に衰退していく。
そのころ、百年も前に都を追われたアッバース家の方はというと、じつは、ヨルダンの南部にある、ファイマ村ってところで、ひっそりと、ウマイヤ家を打ち破る機をうかがっていたんだ。執念深い人たちだよ。
そして、そのときは来た。
ところで、話の腰を折るようで悪いけど、シーア派って知ってる? ニュースでよく聞くから名前は知ってるよね。イスラム教の一派なんだけど、じつはシーア派は、アリー党とも言って、もともとは、このアッバース家の人たちのことなんだ。(もっと正確に言うと、アリー党とアッバース家は分かれるんだけど、まあ、細かい話は割愛)
ごめん、話を戻そう。ときは来た。
ウマイヤ家は、あんまりイスラム的な人たちじゃないから、アッバース家以外にも、彼らを疎ましく思っていた勢力があった。いやまあ、そうじゃなくても他国を侵略して作った帝国だし、アラブ人は部族意識が高いから、他部族の支配を好まない(支配されるのを好む民族がいたら、会ってみたいもんだけど)。とはいえ、イラクの人たちとしては、シリア人であるウマイヤ家に支配されてるのが、とくに我慢ならなかったんだ。アッバース家は、そんなウマイヤの反抗勢力と手を組んで、衰退してきたウマイヤ朝を打倒することに成功する。時に紀元750年のこと。
さあて、ここからが、いよいよ本題だ。キーボードを打つ手も熱くなってきたぞ。みんな、ちゃんとついてきてる? おもしろいのは、ここからだからね!
アッバース家のウマイヤ家に対する恨みはすさまじかった。ウマイヤ家の人たちが、正式な場で着る衣装は白で、彼らの掲げる旗も白かったんだけど、アッバース家は黒衣を好み、旗も黒かった。本当に、ここまで正反対なのかよってぐらいに、性格が異なるご両家だけど、アッバース王朝が、暗くどんよりと、陰湿な雰囲気を感じさせるのは、王朝を奪回してすぐに始めた、ウマイヤ家に対する徹底した虐殺が、そもそもの原因だと思う。
本当に、彼らの恨みはすさまじく、ウマイヤ王家に関わる人間は、一人残らず、女も子供も老人も関係なく、この世から抹殺された。最初の戦乱から逃げ延びた者も、草の根を分けるように、執拗に執拗に探し出され、そして殺された。それどころか、ウマイヤ王家の墓も暴かれ、歴代カリフの骸骨を掘り起こし、それを焼いて灰にした。特にひどかったのが十代カリフのヒシャーム。すでにその遺体は腐ってたんだけど、そんな遺体を十字架に張り付けて焼いた後、風に吹きさらした。さらに、ヒシャームの孫で、なかなか剣の腕がたつ男がいたんだけど、彼は片足と片腕を切り落とされて、息絶えるまで、シリアの街を引き回されたそうだ。
もっとひどい話もある。ウマイヤ一族は、某所に立てこもったんだけど(場所は定かじゃない)、アッバース王朝の初代カリフ、アブール・アッバースは、そんな彼らを殺せるだけ殺したあと、地下に隠れている人たちに、「もう、恨みは晴らしたから、生き残りとは和解したい」と言って、地下から出てこさせた。八十人ぐらい生き残ってたそうだけど、そのあと、和解の宴会を開いて、酒をふるまった。お、いいとこあるじゃん。武士の情けってやつかな。
とんでもない!
アッバースは、宴もたけなわってところで、この八十人を惨殺しちゃったんだよ! そんでもって、屍体の上に革の敷物をかけて、その上に座って、宴会を続けたそうだ。まだ息のある者が、うめき声をあげたそうだけど、その声が聞こえなくなるまで、みんなで、酒盛りを続けたんだってさ。すさまじいね。(この大虐殺をやったのは、アッバースの叔父さんだったという説もある)
ところが……
そんなアッバース家の血で血を洗う復讐劇を生き残った男がいた。そう。彼の名こそ、アブドル・ラフマーン!
ああ、やっと出てきたよ、アブドル・ラフマーン。十代カリフだったヒシャームの孫だから、本物の王子様(カリフの孫だから、公子と呼ぶべきだけど)。しかも、このとき二十歳になったばかりの若さで、髪はブロンドの巻き毛。かなりハンサム。加えて背も高かった。ホントに王子様って感じ。まあ、彼は伝説になっちゃってるから、容姿の真偽のほどはともかく、抜群に頭がよく、決断力に富み、不屈の精神の持ち主だったのは間違いない。歴史がそれを証明している。
なんたって、この亡国の王子は、たった一人で、国を再興しちゃったんだから!
アッバース家による、ウマイヤ家の虐殺が始まったころ、ラフマーンは、遊牧民たちの間に紛れて身を隠した。で、例の生き残りとは和睦したいという誘いを疑い、十三歳になる弟と二人で、宴会には出席しなかった。そのあとユーフラテス川の岸に近い寒村に身を潜めたんだけど、ここにも追手が迫ってくる。やはり、弟と二人で村をなんとか逃げ出し、別の村に入ったんだけど、ここでも密告されて見つかっちゃう。もう、ハリウッド映画さながらの逃亡劇で、なんとか近くの樹園まで逃げたんだけど、ついに包囲されてしまった。
万策つきたラフマーンは、ユーフラテス川を泳いで、対岸に逃れるしかなかったんだけど、世界でも有数の大河だからね。どんだけ川幅があるか考えてごらんよ。もしかしたら、数百メートルはあったかもしれない。しかも、敵は岸に立って、「戻ってこい。命だけは助けてやる」なんて叫んでるんだ。まったく、映画だね。
もちろん、ラフマーンは、敵のそんな言葉を信じるわけはなかった。ところが、弟の方は、川幅にひるんで、引き返しちゃったんだよ! ラフマーンが、やっとの思いで対岸に泳ぎ着き振り返ると、弟がいないことに気づいた。
「おい! 大丈夫か! どこにいる!」
もちろん、弟は、敵に捕まっていた。しかもだよ、敵はラフマーンが、対岸に着くのを待って、こちらを見たときに、彼の弟を殺したんだ。ラフマーンの目には、首をかき斬られる弟の血しぶきが見えた。彼の心中がどんなものだったか想像してほしい。
一族を惨殺され、一緒に逃げのびた弟も、目の前で殺された。ついにラフマーンは、たった一人になってしまった。普通だったら、神経が張り裂けて、気が狂っちゃいそうな体験だ。それでもラフマーンは逃げた。じつは、「ウマイヤ王朝は崩れさるが、一族のだれかが、どこかの地で、王朝を再興するであろう」という預言があって、ラフマーンは、それは、自分のことに違いないと、固く信じていたんだ。その信念が、彼の正気を保たせ、長く苦しい逃避行を続けさせた。
ラフマーンが、パレスチナまで逃げ延びたとき、ささやかな希望が見えてきた。なんと、忠僕だったバドルと、妹の解放奴隷だったサーリムにめぐり合ったんだ。ちなみに、解放奴隷って言うのは、市民としての人権を与えられた奴隷のこと。がんばれば、将軍にだってなれる。彼らは、屋敷から金貨や宝石を持ち出して、ラフマーンを慕って追いかけてきたんだよ。涙の再会。
ところが、パレスチナも安全じゃない。ここもアッバース家の支配地域だ。しかも、ウマイヤ王家の王子が生き残ってるというのが、彼らの支配地域全域に知れ渡っている。一刻の猶予もない。逃げなければ。まだアッバース家の手が届いていない場所は、エジプトの西しかなく、ラフマーンと二人の従者は、北アフリカまで逃れた。
ここで、なんとか運命を切り開こうと五年間もさまよい歩いた。ところが、努力はなかなか実らず、五年間も苦労をともにしたサーリムは、さすがに不遇の主人に愛想を尽かして、シリアに戻ってしまった。残ったのはバドルのみ。まあ、あとで考えると、この五年という時間は、無駄ではなかったというか、必要な時間だったんだけどね。
それはそうと、アフリカがダメなら、もう残った地は、海を渡ったところ、イスパニアしかない。いまで言うところの、スペインだね。じゃあ、さっさと海を渡ればいいじゃん。なんて思ったら大間違い。イスパニアは、とっくの昔にアッバース王朝の領地だよ。いや、正確には、ウマイヤ王朝が征服したんだけど、その支配地域を、アッバース家に、そっくり取られちゃってるからね。つまり、いまは敵地なわけだ。
それでもラフマーンは、意を決して、バドルに密書をもたせ、イスパニアに渡らせた。イスパニアには、ウマイヤ王家に縁のある人たちが五百人ほど住んでいて、彼らを頼ることにしたんだ。これに失敗したら、もう後はない。
すると……
十二人の男たちが、金貨を五百枚用意して、一隻の船を仕立て、ラフマーンを迎えにきたんだよ!
「ラフマーン殿下!」
男たちが、ラフマーンに駆け寄った。
「よ、よくぞご無事で…… ご苦労をなさったのでしょうなあ」
もともと、お坊ちゃん顔じゃなかったラフマーンだけど、五年という苦行の歳月が、さらに彼の顔を精悍なものにしていたのだ。
「そなたたちこそ、危険を冒してまで、よく来てくれた礼を言うぞ」
「なんの。殿下の身を思えば、これしきの危険、なんてことはありません。それはそうと殿下、機は熟してまいりましたぞ」
「というと?」
「アッバースの支配が始まり、すでに五年。諸部族の不満も高まって来ております。しかし、きのうまでは、彼らをまとめあげることのできる人物がおりませんでした」
ラフマーンの瞳が輝いた。
「今日はいるということか?」
「はい」
男たちは、ラフマーンの前に膝をつき、うやうやしく頭を垂れた。
「いま、われらの目の前に」
「うむ……」
ラフマーンは、男たちにうなずいた。
「わたしは、この日のために、生き延びてきた。再び、ウマイヤ王朝を再興するためにだ。諸君の命をわたしに預けてくれ。必ずや、アッバースを打ち破ると約束しよう」
「殿下!」
男たちは、顔を上げた。
「そのお言葉を待ち望んでおりましたぞ!」
「わたしもだ」
ラフマーンは、感激を胸に秘めて、忠僕のバドルを見た。バドルは、むせび泣いていた。
「バドル。よくやってくれた。お前のおかげだ」
「あ、ありがとうございます…… 殿下…… オレは、オレは…… うれしくて、涙が止まりません」
「泣くな。これからが大変だぞ」
「はい、殿下!」
バドルは、涙を拭いて、大きくうなずいた。
こうして、ついに、ついに、ウマイヤ王家再興の足掛かりができた。五年間もの間、海を渡ることができず、北アフリカの地でさまよっていたが、しかし、この五年という歳月は無駄ではなかったのだ。
このとき、イスパニアを統治していたのは、ユースフ・アル・フィフリーという男だった。政庁はコルドバに置かれていた。五年経ったいまも、ラフマーンは有名人で、早い話、賞金首だったわけだ。ラフマーンの行動は、筒抜けってほどではなかったろうが、バレてないわけでもなかった。ユースフが、素直にイスパニアに入れてくれるとは思えない。っていうか、念には念を入れなきゃ。ここでヘタ打って捕まっちゃったら、殺された一族に顔向けできない。
ラフマーンは機を待った。そのうち、北方のサラゴーサ地方で反乱が起こり、ユースフが、その鎮圧に向かった。
いまだ! イスパニアに渡るにはいましかない。ユースフが軍を引き連れて出かけているいましか。
時に、紀元755年4月14日。ついに、ラフマーンは海を渡り、イスパニアの地に足を下ろした。そこは、アルムネーカルという港だったという。
ユースフは、反乱鎮圧に向かった地で、ラフマーンが海を渡った情報に接するやいなや、すぐさま、イスパニアに取って返した。しかし、すでにラフマーンは、ウマイヤ家に縁の者をはじめ、アッバース王朝に不満を持つ部族と通じ合い、軍の組織に着手していた。
こ、こりゃえらいこっちゃ。ユースフは青くなった。イスパニアは、アッバース王朝の端っこで、その上には、キリスト教の王国がどーんと、のしかかっている。まだ、キリスト教徒たちの反抗は、それほど激しくはなかったけど、ここでラフマーンにまで反乱を起こされたら大変だ。内戦なんかしてる場合じゃないのだ。
ユースフは考えた。ラフマーンとは、いったん和睦して、時間を稼ごうと。うまく立ち回れば、国内の不満分子も押さえられるかもしれない。
そこでユースフは、昔の権力者がお得意の手を使うことにした。自分の娘をラフマーンに与え、身内にしちゃおうって作戦だ。
考えるまでもなく、こんな作戦が成功するわけないんだけど、ラフマーンは、ユースフの誘いに乗って、コルドバに出かけ、彼と面会している。
「これはこれは殿下。ようこそおいでくださいました」
ユースフは、揉み手をしながら、ラフマーンを迎えた。
「ユースフ殿」
と、ラフマーン。
「貴殿に、殿下と呼ばれる筋合いはない」
「ははは。そうですな。まあ、どうぞお座りください。酒でも飲みながら話しましょうぞ」
「いや、けっこう」
「まさか、毒を盛るとでも?」
「そうではない。ただ、五年も流浪していると、用心深くもなる」
「話は聞き及んでおります。壮絶な人生を送ってこられましたな。どうでしょう。この辺でそろそろ、落ち着かれては」
「御使者の話では、貴殿の娘を、わたしの妻にとの提案でしたね」
「そうです。ともにフランク人たちと戦いましょうぞ」
「ふむ…… まあ、検討させていただきたい」
こんな感じで、ラフマーンも、ちょいと色気を見せたりした。ラフマーンの方も時間が必要だったんだ。イスパニアに渡ってきのうの今日で、ユースフの軍と戦うのは、いくらなんでも無理。
そんな駆け引きを続けながら、一年が経過した。
756年3月。とうとう、ラフマーンがのろしを上げた。まず彼は、セビリアを占領。これを知ったユースフも、ラフマーンとの全面対決を決意。大軍を組織して、コルドバを出ると、ガタルキビル川の北岸を大挙して進軍した。これが映画だったら、重々しい音楽の中、アッバース家の黒い旗を掲げた軍隊が整然と進軍していく姿がスクリーンに映し出されることだろう。ラフマーン絶体絶命!
じゃないんだよ。ユースフが、大軍を組織するのは、ラフマーンの計画どおりなのさ。ユースフなんて、小役人(でもないんだが)とは、器が違う。ラフマーンの本当の目的は、セビリアじゃないんだよ!
「殿下! ユースフがコルドバを出ました!」
「よし!」
ラフマーンは、剣をとって立ち上がった。
「全軍に伝令! コルドバにいくぞ!」
「ははーっ!」
という具合で、ラフマーンの軍は、ユースフが進軍して来ると、すぐさま川の南側を急行して、太守が不在になったコルドバを襲った。泡を食ったユースフは、大軍をUターンさせて、コルドバに戻ったんだけど、完ぺき補給路を断たれた格好になっちゃった。
「むむむっ! ラフマーンめ! 計られたわ!」
と、気づいたってもう遅い。士気の高いラフマーン軍は、ユースフの軍を打ち破った。こうしてついにコルドバは、ラフマーンの手に落ちた。
戦いに決着がつき戦場が落ち着くと、ラフマーンは、コルドバに入った。バドルをはじめ、彼に忠節を誓った戦士たちがあとに続く。
ラフマーンは、コルドバの礼拝堂に足を踏み入れると、祭壇に立ち、部下やコルドバの名士たちを前に声を張り上げた。
「諸君!」
彼の声で、ざわついていた礼拝堂の中に静寂が流れた。
「今日ここに、宣言する! わたしこそが、アル・アンダルスの王であると!」
「おおーっ!」
バドルたち、忠節の戦士が、雄叫びを上げた。
当時、この地方一帯は、アラブ風には、アル・アンダルスと呼ばれていた。いまでは、アンダルシア地方と呼ばれているよね。ラフマーンは、アンダルシア一帯の王になることを宣言したんだ。そう。彼は、カリフ(代理人)という言葉は使っていない。アミール(王)という言葉を使ったんだ。こうして、公子だったラフマーンは、長くつらい苦行の果てに、正真正銘の「陛下」になった。二十六歳の春のことだった。
いよいよラフマーンの国づくりが始まった。ところがどっこい、いままでの苦行以上に、イスパニアを治めるのは大変な仕事だった。ラフマーンは、ウマイヤ家だからシリア人の血を引いているわけなんだけど、これに不満を持つアラブ族や、アフリカのベルベル族なんかが、つぎからつぎへと反乱を起こしたんだ。キリスト教徒の反抗が、まだ強くなかったのが不幸中の幸いってところだけど、アラブ族とベルベル族は、奔放な性格で、専制君主の言いなりになんかならない。彼らを統制していくのは不可能かと思われた。
それでも、ラフマーンは果敢に挑戦した。アラブ族もベルベル族も、自由奔放な性格であるがゆえに、団結力に欠けていたんだ。ラフマーンは、そこをうまく突いて、最終的には、彼らを押さえ込むことに成功したんだ。もちろん、細かい機略と、勇猛な彼らの前でも、堂々と渡り合える度胸があったからこそなんだけど、それにしても、たいしたもんだ。詳しくは書かないけど、すごくすごく苦労したんだよ。
そのころ。アッバース王朝にも変化があった。能力のないカリフでも誕生してたら、それはそれで、ラフマーンの活躍がおもしろかったかもしれないけど、歴史の偶然は、その逆を実現させた。なんと、のちにアッバース王朝で、最高の英主と呼ばれることになる、アル・マンスールというカリフが誕生していたんだ。そう。歴史は、ラフマーンの好敵手を用意したんだよ。なんという皮肉な運命だろうか。ラフマーンに安息の日はない。
アル・マンスールは、カリフになると、さっそくイスパニアの奪回に乗り出した。しかも、ラフマーンが、アラブ族の反乱に苦しみ、二年の歳月をかけて戦っても、まだ決着がつかないでいるときを狙ったんだ。
マンスールは、アル・アラーという男に、多額の軍資金と、綿密な計画を与えて、ラフマーンを倒せと命令した。さらに、ラフマーンを排除した暁には、イスパニアの太守の座を約束して、彼の士気を高めた。
アル・アラーは、軍を組織してイスパニアに進軍した。しかも、彼らがポルトガルの南部まで達するころ、アッバース家の黒い旗を見た、ラフマーンに不満を持つ者たちが集まり、いよいよ、ラフマーン包囲網は、強固になっていった。
ラフマーン最大の危機!
そう。まさにこのときは、最大の危機だった。最初に戦ったユースフの軍は、なんだかんだ言っても、まあ、地方都市を守る、比較的小規模な軍隊だったし、そのあとの反乱も、各部族との小競り合いという感じだ。ところがこのときは、アッバース王朝の正規軍との、全面対決だよ。アッバース家にとっては、威信をかけた戦争。ラフマーンにとっては、生きるか死ぬかの瀬戸際だ!
ラフマーンは、最も信頼している兵ばかりを集めて、セビリアのカルモーナという町に立てこもった。アル・アラーは、この町を取り囲むこと、二カ月に及んだ。
ラフマーンは、立てこもりながら機を待っていた。本当にラフマーンは、機を見るに敏な人だ。町を包囲しているアル・アラーの軍に、倦怠の色を嗅ぎ取ると、ラフマーンは、精鋭700人を選び、西門のそばに、どっと火を燃やし、剣を高らかに上げた。
「諸君!」
ラフマーンは、炎の照り返しを受けながら叫んだ。
「勝利か死あるのみだ! 剣の鞘を火に投じようではないか! 勝利を得られなくば、勇者として死ぬと誓ってくれ!」
鞘を捨てることで、己の心の中に潜む退路を絶て。ラフマーンは、そう宣言したのだった。まさに背水の陣。
「おおーっ!」
精鋭の兵たちは、一斉に、火の中に、剣の鞘を捨てた。ラフマーンのドラマチックな演出で、兵士たちの士気は異常に高まっていた。ラフマーンのカリスマ性あったればこそだ。この人のためなら死ねる。ラフマーンには、そう思わせる魅力があったんだね。
ラフマーンは、城門を開け、自らも兵士たちと敵陣に切り込んでいった。おそらく、彼の戦いの人生の中で、このときが、もっとも壮絶な戦いだったことだろう。なんと、700人の兵で、敵の兵7000人を倒したと記録されている。死闘の果てにラフマーンが得たものは、死ではなく、勝利だった。
ラフマーンは、敵将のアル・アラーをはじめ、主な将軍たちを捕らえると、全員の首をうたせた。その首を水で洗い清めて、それぞれの耳に、名前や身分を書いた札をつけると、塩と樟脳を入れた革袋に詰めた。残忍なようだが、今度の戦争には特別な意味がある。決してアッバースには屈しないという決意。そして、実際に負けはしないのだという証明でもあったんだ。
ラフマーンは、敵将の首が入った革袋と、マンスールが、アル・アラーに渡した任命書、そして、実際の戦闘を子細に記録した文書に、アッバース家の黒旗を、コルドバの巡礼者に託し、メッカまで運ばせた。ときを同じく、メッカに赴いていたマンスールは、部下たちの変わり果てた姿を見ると、天に向かって叫んだ。
「おおお、なんということだ! あのような悪魔と、わたしとの間に、海原をおきたもうたアッラーよ! 褒めたたえあれ!」
勝利を確信していたマンスールは、勝利どころか、あまりにひどい敗北に打ち震え、ラフマーンを討伐するのは、無理だと悟ったのだった。(じつは、この逸話には諸説があるんだけど、一番ドラマチックなのを、このエッセイでは採用した)
のちに、マンスールは、バグダードの宮殿で、侍臣たちに語っている。
「クライシュ族の鷹と呼ばれるのにふさわしい人物はだれであろうか」
マンスールは、侍臣たちに問いかけた。
クライシュ族というのは、アラブの部族名で、マホメットもクライシュ族の出身であり、ウマイヤ家も、アッバース家も、もとはクライシュ族なのだ。
侍臣たちは、てっきり、マンスールが、自分のことを言ってるんだと思って、おべんちゃらを並べ立てた。
「それは簡単でござりまする。多くの強敵を従え、たびたびの反乱を鎮め、四海を安定なさいました、あなたこそが、クライシュ族の鷹でござりましょう」
「いいや。そうではない」
マンスールは、首を横に振った。
侍臣たちは、主人の反応に戸惑いながら聞き返した。
「では、ウマイヤ家のムアーウィヤか、アブドル・マリクでございましょうか?」
この二人は、ともにウマイヤ王朝の名君と呼ばれた人たちだ。とくにムアーウィヤは、ウマイヤ王朝の祖でもある。
ところが。
「それも違う」
マンスールは、やはり首を横に振ると言った。
「クライシュ族の鷹と呼ぶべきは、あのアブドル・ラフマーンをおいてほかにはいない。ただひとり、アジアとアフリカをめぐり、軍兵もなしに、海の彼方の未知の国に渡る大胆さ。おのれの機略と、堅忍よりほかに頼るものがないのに、傲岸な敵をひるませ、反徒を退け、キリスト教徒の襲撃も打ち返し、国境を安らかにしたのだ。ただ一人の男が、大帝国を建設し、群雄割拠の国土を統一したのだ。ラフマーン以外に、これほどの大業を成し遂げた者を、わたしは知らない」
敵を称賛できるところが、マンスールの優れた資質を物語っている。まあ、好漢は好漢を知るってところなんだろうね。この逸話から、ラフマーンは「クライシュ族の鷹」と呼ばれているんだ。
宿敵マンスールにさえ称賛されるラフマーン。話は前後するけど、マンスールが、キリスト教徒の襲撃を打ち返し。なんて言ってるとおり、つぎなる敵は、キリスト教徒だったんだ。こんどの敵もすごいよ。たぶん、名前は知ってると思うけど、かの有名な、カール大帝なんだから。本当に、ラフマーンには、心休まる日がないね。
カール大帝。これだけ聞くと、神聖ローマ皇帝、カール五世と間違われそうだけど、ラフマーンと戦った、カールは一世のほう。混同を避けるために、カール一世は、シャルルマーニュと呼ぶことにしよう。略してシャルル。
まずもって、シャルルの父、ピピンがメロビング朝フランク王国を倒して、カロリング朝を興した。シャルルは二代目だね。ピピンは、アラブ族と戦って、メルボンヌをとったから、このときついに、イスパニアと国境を接しちゃったんだよ。シャルルの一族は、祖父の代からアラブ族と戦ってるもんだから、シャルルがラフマーンとぶつかるのは、宿命というか運命だったのだと思う。
ところが、最初シャルルはイスパニアに攻め入るのを躊躇した。だって、相手がラフマーンだもん。百戦を戦って、常に勝利してきた男だぜ。一度も負けたことがない。その評判は、ヨーロッパに轟いていたから、シャルルも、おいそれとは手が出せない。負けちゃったら、逆にかみつかれて、父が建国したカロリング王朝を失っちゃうかもしれない。
ここで、シャルルがとった手は、例によって婚姻。親戚になって、仲良くやっていこうぜと。ラフマーンも、このときは婚姻による停戦に賛成だったみたいだね。でも、残念ながら、この婚姻は成立せず、けっきょく戦争になるんだ。婚姻がうまくいかなかった理由はよく分からない。この件は、アラブ側の資料にしか残ってなくて、どうもあやふやなんだ。
それにしても、よくシャルルはラフマーンと戦う気になったもんだね。いやそれがね奥さん、じつは、ラフマーンに敵意を持ってるアラブの将軍たちが、シャルルに味方しちゃったからなんだよ。よし、これなら勝てる! と、シャルルは思ったんだろう。本人に会ったことないから、よくわからんけど。
さあ、戦争だ!
ところで、「ロランの歌」って知ってる? 中世フランス最古の武勲詩だよ。ロランというのは、シャルルの甥で、ブルターニュの辺境の方を領地にしていた伯爵で、とっても有名な騎士だよ。このロランも、ラフマーンとシャルルの戦争で死んじゃうんだ。そのとき、ロランがロンスヴォーの谷で、死力をふりしぼって吹いた角笛の響きが、いまも、詩となって語り継がれているわけなんだ。
脱線した。結論を書こう。いや、書かなくてもわかると思うけど、負けたのはもちろんシャルル。わが、ラフマーンくんは無敵さ。いや、じつはラフマーンはこのとき、戦ってすらいない。シャルル側に着くって約束したアラブの将軍が、約束を守らなかったんだ。アラブ人を簡単に信用しちゃいかんよ。もっと正確に書くと、その将軍の部下が、将軍の言うことをきかなかったんだよ。そのとき、シャルル側でも反乱が起こっちゃって、シャルルの軍は、約束を破ったアラブの将軍を連れて本国に戻らなきゃならなくなった。この帰り道、フランク軍はバスク人に襲われて全滅しちゃうんだ。じつは、そのバスク人部隊には、イスラム教徒もかなりいたと記されているから、うがった見方をすれば、ラフマーンの計略だったとも考えられる。あまり憶測は書きたくないけど、あのラフマーンが、シャルルの侵攻をただ指をくわえて見ていたとは考えられないから、大いにあり得る話だよ。
なんだか、戦争の話ばっかりだね。ラフマーンの人生は、戦争に明け暮れたわけだからしょうがないけど。でも、ふだんの彼の話もしておこう。
後ウマイヤ朝を興したころ、ウマイヤ家の血を引くものとして、彼もコルドバの市内を気軽に歩いて、民衆と接触するのが好きだったんだ。ウマイヤ家の象徴だった、白い服を好んで着ていたし、やっぱり明るく陽気な感じだ。ラフマーンが、一生懸命、コルドバを守り続けたから、この町はよく発展した。自ら宣言した、アンダルシアの王って称号も、あながち的外れじゃなくなってきたんだ。だって、コルドバは、西イスラム世界の一大中心地になりつつあったんだよ。世界有数の大建築の一つ、大モスクも、このコルドバにある。ラフマーンが、この地にあった、キリスト教会を買い取って、モスクに改造したあと、彼の子孫がさらに拡張していったモスクなんだ。
ラフマーンの住まいのことも書いておこう。やっぱり、ウマイヤ家の人らしく、都会の王宮より、離宮を好んだ。コルドバの郊外に離宮を造って、主にそこで暮らしてたんだ。ラフマーンは、ここをアル・ルサーファって呼んでいた。この名前は、彼の故郷である、パルミラの北東にある地名で、そこには、ウマイヤ家の夏の別荘があったんだ。ジイさんのヒシャームがこよなく愛した別荘であり、子供のころのラフマーンの思い出の場所でもあった。ラフマーンは、遠くシリアからナツメヤシの木を運んできて、ルサーファ宮の庭に植えた。彼は、この木に詩を書きつけたと言われている。
「わたしに似て、おまえも故郷から離れ、異境の土に生き、ふるさとを遠く想うか」
こんな感じの詩を書いたらしいよ。偉業を成し遂げ、アンダルシアの王者になっても、遠きふるさとのことが忘れられなかったんだね。ちょっとホロリとする話だ。
そんなラフマーンも、晩年は孤独だった。これだけの偉業を成し遂げるには、陽気で気さくな人じゃいられない。むしろその逆で、決して本意ではない決定も下さなきゃいけないことだってある。青春時代から、生死をともに戦ってきたバドルも、国が豊かになると増長して不正を働くようになってしまった。ラフマーンは、国を守るために、だれよりも信頼していた忠僕の財産をすべて取り上げて、国外追放した。悲しかったろうね。そして、諸部族の度重なる反乱。陰謀。策謀が渦巻く中で生きていくには、冷酷で執念深く、無慈悲な人という評価を受けなければならなかった。どこかの戦いで、片目を失っていたそうだから、顔つきも気難しくなっていたかも。
ラフマーンは、とうとう、宮殿にこもり、めったに外に出なくなってしまった。そして、788年9月30日。五十八歳のとき、王宮で息を引き取った。後ウマイヤ朝を興してから、三十二年後のことだった。最後まで、自分をカリフと称すことはなかった。カリフとは、イスラム教団全体の統治者であり、聖地である、メッカとメディナを支配していなければならなかったからだ。
彼の死後、後ウマイヤ朝は、250年にわたり繁栄した。じり貧になっていくアッバース王朝を尻目に、後ウマイヤ朝は栄華を極めた。建国から百年ほど経ったころ、後ウマイヤ朝の王の年収は、金100万ディーナールあったそうだけど、アッバース王朝の国庫には(年収じゃなくて、国庫だよ)、なんと、たった金80万ディーナール分の銀貨しかなかったそうだ。ただ、アッバース王朝は、息も絶え絶えながら、1258年まで続いた。後ウマイヤ朝は1031年に滅んでいる。
※名前の表記について
アブドル・ラフマーンという名前は、「アブド・アッラフマーン1世」とするべきかもしれません。しかしながら、ぼくはイスラム史を、故・前嶋信次氏の著書で学びました。ラフマーンという表記も、氏の著書に倣っています。