これからの性の話をしよう ー『荒ぶる季節の乙女どもよ。』
2019年文部科学省推薦アニメに(俺の中で)内定しているアニメ、『荒ぶる季節の乙女どもよ。』があと残り1話を残すのみになった。
高校の文芸部に所属する小野寺和紗たち女子5人。
「死ぬ前にしたいこと」という話題で沸いたある日、
部員の一人が投じたある一言……。
その瞬間から、彼女たちは"性"に振り回され始める。
(公式サイトより引用)
少なくとも10話までは、個人的には21世紀の青春アニメのなかでは前回の『よりもい』に匹敵するとさえ言っていい脚本の良さで、部屋で「岡田麿里!!!!!!なんだこれは!?なんだこれは!?うわあああああああ!!!!!!加速しろ!!このまま走り抜け!!!」などと絶叫していた。(11話の話は最後にします)
『よりもい』の話は上の記事でしたんで、今回の記事は、これまでの『荒乙』を総括するととともに、12話のまとめ方を予想したりしていきたいと思う。
アニメのジェンダー・ロールを揺さぶる
アニメにおいて男女が性的なものとして現れる時、特にコメディの文脈で女性は見られる身体/見られていると知る身体となることが多い。今期だと例えば『手品先輩』、近年で最たるものは『なんでここに先生が!?』だろう。
何故こんなものを放送していいと思ったのか、なにもわからない
男性が出てこないアニメではこの身体は成り立たないのかと言うとそうでもなく、視聴者にだけ見られる身体というものが存在する。今期だと『ソウナンですか?』がそうだろう(視聴者に見られている事を意識している身体というのはメタ物語の枠組みを導入しなければならないので数が限られる)。
あまり適切ではない例
そもそも見る特権というのは歴史的に男性に帰属しているが(ストリップショー、ポールダンサーとは何であったか)、荒乙は第1話でその構図の明確な逆転を見せつけた。
男子高校生の貴重な自慰シーン
主人公である女子高生の小野寺和紗が幼馴染である典元泉の部屋へ赴き、そこで彼の秘密を覗いてしまうわけだが、引かれた導線も丁寧で良かった。音楽を大音量で流してカモフラージュをし、ドアを半開きにして警戒を怠らず、AV(のちに電車痴漢モノと判明するが)を鑑賞する泉。しかし自分が没入してしまえばこれらは全て自分への罠に変わってしまう。端末にイヤホンジャックがなかったのかな~~~?
アニメでよく、女性キャラの着替え中の様子を覗いてしまうというお決まりの流れがあるが、前提になっているのは見られる身体が外部への注意を欠いていること、油断だ。このシーンではそのシチュエーションが丁寧に裏書きされている。結果、和紗は性というものに初めて実感を以て目覚めることになる。
超絶美女、元劇団員、好きな本は『眼球譚』という完全無欠の女子高生
明らかに下劣な方面の本を朗読している「純潔」を掲げた文芸部で「死ぬまでにしたい事」に「セックスです。」と堂々述べる才媛・菅原新奈。この瞬間、この物語が核心についてコメディに逃げるのではなく、真っ直ぐに思春期の恋と性を描くことがはっきりした。この時点で俺のボルテージはMAX。
恋愛嫌悪(どの口でそう言う?)の部長が徐々に堕ちていくの最高
その後も、ルッキズムの不安や、男女の他者理解への隔たり(女の子だって(エッチなことを)考えるよ、と泉に言う新菜……)など、男女を取り巻くゴタゴタがちりばめられ、物語はふつうの恋愛モノの底流に性のエネルギーを湛えながら進んでいく。その意味で8話は普通の恋愛モノならば最終回に近い内容だったが、性がほとんど置き去りにされていたためにこのアニメでは中盤に持ってくる事ができるのだった。
男子キャラが去勢されているのも面白い。泉も天城くんも、「大事にしたいから」という理由で彼女への性的接触を自ら拒んでいく。貞淑な恋愛に萌えてしまう部長はよろしいが、期待を秘めていた和紗とのすれ違いはなかなかにヒリリとさせられる。
「これっぽっちも性的興味が無い」と好きな男に言われた女の顔です
「女は感情で突っ走るから」という最高(最悪)の台詞を引っ提げて、露骨に伏線が張られていた須藤百々子への乱雑なアプローチをかけていく杉本悟くんは去勢されてないですが、彼に触れられた穢れを新菜に清めて欲しいという流れをつくった時点で、キューピットとも言えます。
作劇の都合でただただ最悪の男になってしまった。かわいそう。
”欲”を露骨に出した人間の願望が決して叶わないシステムになっており、作品世界の残酷さがひしひしと伝わってくる。
ともあれ、このアニメは男性主人公世界に要請されるジェンダー・ロールを脱しようという姿勢が明確に打ち出されており、それでいて関係をただ逆転したのではない所が丁寧だな、と感じます。
権力と恋愛
文学少女が国語教師を押し倒そうとする最高のシーン
恋愛というのは、あるときは反権力の象徴的行為として(白蓮事件など参照)、またあるときは体制に順応した商品的行動として現れるわけで、要は権力との関係を切り離せないのですが、管理社会の雛型たる学校での恋愛には当然権力の影が付いて回るんですねー。
チャットから発展してややこしい関係にある、文学少女の本郷ひと葉と、国語教師で文芸部顧問(にさせられた)の山岸知明ことミロ先生。弱みを握るひと葉は先生を通じて文芸部への利益を引きだしていくわけですが、一方いつしか芽生えた先生への恋(及び性的欲求)はいつも挫折。教員としての、大人としてのミロ先生のあしらい方は軽やかであり、ひと葉は悔しがると同時に、そういう馬鹿にするような感じで上からくるミロ先生にますます魅かれていく。
女子高生と先生がラブホにいるシーンで号泣するとは思わなかったね……
ようやく先生を追い詰め、ラブホに入る事ができたひと葉だったが、必死の行動もむなしく、思いを遂げる事は無かった。ここまであまりにもひたむきで真っ直ぐな行動が逆に滑稽に映っていたひと葉だが、ここからの慟哭は笑えてもバカにすることは無理だと思う。この瞬間、初めてミロ先生は大人と子供という力の非対称的な関係から降りて、純粋な男と女としての立場から彼女を拒絶するのだ。だがこの間にも、先生と生徒という権力関係は隠然と身体に作用していただろう(ミロ先生……)。
ギャルが『星の王子さま』を純粋な煌めきを目に浮かべながら見る様子です
もっとも奔放に恋愛を謳歌していた十条園絵さんは、妊娠をきっかけに退学させられた上、妊娠の事実を学校中に周知させられてしまう。酷い学校だが、「見ているぞ」という権力は、11話でより露骨に、男女交際を禁止するという形で作用し始める。
(元)完全無欠の女子高生 vs 当世最凶のロリコン
作中最凶のキャラクターである演出家・三枝久。ただのロリコン(おたく)が2話であっさりと撃退されるのに対し、筋金入りのロリコンである三枝は、(少なくとも11話までは)自分の戒律に厳格で、少女性崇拝から、少女性を奪ってしまうことになる少女への性的接触を頑なに拒む(足に顔をすりすりしてた気がする?あれは礼拝の一種なので……)。新菜に誘惑され、試される倫理、よみがえる性的衝動……
とまあすげえ粗雑にまとめてみましたが、権力的なものがいかに登場人物たちの恋路に影響を与えているのか、気にしながら見るのは面白いと思います。
11話までの総括と、最終話予想
冒頭でも述べたが、10話までは今世紀のテレビアニメシリーズの中でも指折りの傑作だと俺は思っていた。多くのアニメで男女の描き方に強力な規範が作用している事は明白であり、男女関係を逆転させてもポルノ的視線を視聴者から引き出そうとする構造は強固だった。脱出するには、性の問題を隠蔽するか、性的領域が登場人物の間で意識されないような物語世界を構築するしかなかった(同性キャラクターしか出さない、反-性的デフォルメなど)。『荒乙』はこの問題に対して初めてストレート剛速球を投擲したアニメだと思う。とはいえこんな問題はアニメの外に出れば数十年、下手をすれば百年以上も前から語られていた話で、根本的な新規性があったわけではない。だがアニメは比較的新しいメディアだし、作劇の領域としてはまだまだ手つかずの場所があることを教えてくれた。
だが俺は、11話を見て不安な気持ちになっている。
やってしまった……
恋・性・権力。この関係が捩れる時、”革命”という選択肢が作劇に現れる事はまあありうる。しかし、上の図を見て欲しいが、和紗と百々子の真剣な表情に対して、ミロ先生はコミカルな沈黙を強いられている。やむにやまれぬ事情でラブホ街にいたのを発見されて退学処分になろうとしている部長こと曾根崎り香を助け出そうと、この革命が成されているが、このアニメは今まで性に真剣に取り組んでいたのではなかったか。こんなところでミロ先生はギャグの表象を見せていいのか。ひと葉の滑稽さが文芸部全体に行きわたったという話かもしれないが、最終話でどうカタをつけるのか、不安である。はっきり言って”革命”(もっといえば”学生運動”)という表象は完全に時代遅れで、もっとうまいやり方があったのではないかと思わずにはいられない。
今作品で一番気合いの入った泣き顔です
百々子の百合展開は、バレバレとはいえ極めて慎重な手つきでなされていたので文句という文句は無いが、欲を言えば、性嫌悪のキャラクターを一人くらい文芸部に残しておいてもよかったのではないか。百々子の自覚によって主人公たち全員が恋愛関係に叩きこまれ、前回の記事で取り上げた青春ファシズムの体制にとりこまれてしまった。とはいえこれは要求し過ぎというものだろう。
さて、あと数分で最終話だが、どうなるだろうか。正直全てを綺麗にまとめ上げられるとは俺は思っていないが、主人公カップルである和紗と泉が性から逃げずに終われたら最高だと思っている(ベットシーンまでやったら11話のことは忘れよう。そしたらまごうことなき傑作だ)。いまはただ祈り、この物語の行く末を見守る事にしたい。