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#8 スクラップ&ビルドのつまずき①

 学校の働き方改革が叫ばれています。スクラップ&ビルドの必要性もくり返し叫ばれてはいますが、実際に学校の活動にメスを入れようとしたものの様々な「しがらみ」に囚われて結局やめられなかったという話をよく耳にします。
今月はD教諭が直面した行事の見直しについてのつまずきのストーリーをもとに、学校活動のスクラップ&ビルドについて考えて見たいと思います。

事例 停滞しているのに変えられない

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S中学校は都市部から離れた人口2万人に満たない町にある1学年2クラス、全校生徒130名程度の学校である。50年以上の歴史をもち、学校の活動への地域からの協力も活発だ。
赴任した年の夏休みのことである。部活動を引退した3年生の多くが毎日のように登校する現状を目にして疑問に感じた。活動の様子を見たり、在籍が長い同僚に聞いたりすると、それは10年ほど前から始めた体育大会のチームごと(縦割り)の表現種目「紅白対抗ダンス」(3年生が曲の選定や振り付け、隊形移動等を考えて下級生に教え、出来栄えを観客の投票で競う種目)を創作するためだということがわかった。
しかし、登校してきた生徒の把握や安全確認をしなければならない担当者が学校を空けているなど、教員の関わりがほとんどなく、生徒に丸投げの取り組みだったのでおかしいと思うようになった。同僚からは「数年前まで、カラーごとの衣装を教員が用意したりしていたけれど、昨年度からそれを無くした。衣装を無くすのも生徒や保護者からのクレームもあり大変だった。」という話を聞いた。
夏休みが終わり体育大会の練習が始まると、表現種目の練習は生徒に丸投げ状態で、指示の出し方も曖昧であったため、演技をかたちにするのに時間がかかり、結果対抗種目の練習時間や昼休みも削って練習が行われることとなった。中心となる3年生はこの種目の「生徒の主体的な取組」や「異学年交流」というねらいを意識しないまま、「これまでもやってきて楽しかったから、自分たちもやる」程度の思いで行っていることが大きな問題だと感じた。体育大会当日の披露は何とかかたちにはなっていたが、その完成度は私の目には高いとは言えないものであった。生徒たちに感想を聞くと、自分たち好きなように表現できたので楽しかったしまたやりたい、という安直な満足感をいだいているにことにも教育活動の一環としての体育大会という観点から疑問を感じた。私は、体育大会の反省アンケートに次のことを記述し、同じことを教育課程編成会議でも発言した。
①   夏休み中に創作することを前提としなければならない表現種目をやるのはおかしいのではないか。表現種目の創作に、保健体育の時間等を活用できないのか。
②   「主体性」≒「丸投げ」は違うのではないか。教員のかかわりが必要ではないか。他の種目でも「主体性」や「異学年交流」を実現できるのではないか。
③   何のために行う表現種目なのか、生徒にも理解させるのが教員ではないか。
④   表現種目をやるのであれば、練習時間を考えて他の種目をカットする必要があるのではないか。
同様の考えを持つ同僚も数名いたため、事前に話題にすることを伝えてあり、私以外にも意見をする人がいたが、発言力があり在籍の長いベテラン教員は以下のような意見
①   生徒や地域の方が、この表現種目を楽しみにしているから簡単にやめることはできない。
②   「主体性」や「異学年交流」を具現化するにはこの表現種目がいい。
③   これまでもこのやり方でやってきたし、夏休み中の活動の安全面は担当者がつけばよい。
結局議論は決着を見ないまま終わることとなり、結果的には私たちの考えの多くは反故にされてしまい、翌年もカラー表現種目は実施することとなった。校長の保護者に対する配慮もあったのかもしれない。
何のためにやる種目なのかというねらいを理解せず(理解させず)に、伝統という名の下で現在も続いている種目。生徒や保護者は、種目の実施を既得権であるかのように主張し、学校(教員)はそれを変えようとする際に生じる摩擦を恐れ、結果的に教員の多くに課題が認識されていても継続していく…秋の体育大会の時期になると、あの時のことを思い出す。                  (中学校教諭 30代男性)
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<次回に続く>
*このマガジンは2019年度に教育公論社の雑誌『週間教育資料』で取り上げられた連載記事を一部修正し、出版社の許可を得て掲載するものです。(著作権は教育公論社にあります)

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