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映画「ノー・アザー・ランド」の感想

 2025年2月21日から日本で公開の映画「ノー・アザー・ランド」。パレスチナ人のバーセル・アドラーとイスラエル人のユヴァル・アブラハームの両監督が手掛けた本映画は、パレスチナ問題に関心を寄せてこなかった人こそ見てほしい一作品である。

「私は憎まない」や、「医学生ガザへ行く」などの優れたドキュメンタリー作品がある中でも、ひときわパレスチナの地での軋轢が、目の前に立ち現われてくることを実感した映画であった。
ドイツのベルリン映画祭での本作品の受賞をめぐる一件があったように、本作は賛否両論の声がある。しかし、この映画を見ることなしに2023年10月7日の出来事を語ることはあってはならないとも思うのである。
バーセル・アドラーは、映画監督である前に西岸を生きるひとりの青年だ。彼の声を無視して物語ることはあってはならない。


両監督はともに1996年生まれ。作中では、20代の青年の持つ情熱と葛藤の日々が映し出される。筆者も近しい歳の者として、親近感を感じる部分があった。
2人の男友達でのドライブ中に醸し出されるあの絶妙な距離感から、夜に二人語らい煙草を飲むあの哀愁も、パレスチナとは独立した同世代の若者としての共感を呼び起こす。

彼らの日常と、抵抗の日々を切り取った本作品。

2人を取り巻く西岸の景色――ヨルダン川西岸パレスチナ人居住区〈マサーフェル・ヤッタ〉の景色――は、誰かにとっての「故郷」として描かれる。父と母の代から住んできた土地だ。

それを、ブルドーザーが昨日までの家を瓦礫の山に変え、水道管を壊し、小学校をも灰燼に帰する。

子どもが母の後ろに隠れ、壊されていく生活を眺めている姿がある。

「違法建築物」としてパレスチナ人のライフラインを破壊するその情景に、法は適用する側の言い分により何とでも言えるのだという絶望感がつのった。

この映画は、当たり前だが政治的な主張をなしに語ることはできない。ただ、この映画を見る前から、断固としてパレスチナへの連帯を表明する人ほど、この映画を通じて、真摯にマサーフェル・ヤッタに向き合ってほしいとおもう。
映画の中で語られるマサーフェル・ヤッタでの出来事は、紛れもなく悲劇だ。武器を持たない人が、危険を及ぼすほどの蓋然性もない中で撃たれ、入植者は明確な敵意を向けて、パレスチナ人へ石を投げる。

暴力は人々の心に憎しみを植え付け、次なる暴力がまた、さらなる憎しみと破壊をよぶ。こうしてこれまで繰り返されてきた悪循環を直ちに終わらせるのは都合のよい話である。

印象に残ったシーンがある。バーセル・アドラーがユヴァル・アブラハームに向けて、二人だけの車内でユヴァルがハンドルを握っている時に放った一言だ。

「君は焦りすぎだ、これまで長い間続いてきた問題なんだから、そう焦っても何の解決にもならない。君はこの長い問題を、10日間で終わらせようとしてるのかい?
君を見ていると、それくらいの熱量を感じる。」

これこそが、そこで生きる青年の至言であるように思う。彼らにとっての「抵抗」はもはや「生活」の一部なのであるから。

そんな彼らの置かれている状況に対して、海の向こう側から、刹那的に、熱い声援を送ることは、そう難しいことではない。でも、彼らをずっと想い続けるのは、意外と難しいと思うのだ。ガザ地区での停戦合意から、日本でのガザの報道は少なくなった。ドナルド・トランプそしてイーロン・マスクを中心とした「戦後処理」が強調されれる昨今。しかし、パレスチナの明日は未だ不透明であり、作中で登場するような入植者やイスラエル軍による侵襲は終わる兆しが見えないだろう。

だからこそ、私は彼らと、彼らのような立場に置かれている世界中の人々を想い続けたいと思う。





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