《日本初期写真史》に見る「19世紀のカラー写真」の魅力
緊急事態宣言が出るということで、また逃したら大変とあわてて2021年最初の観覧となる「瀬戸正人 記憶の地図」と
に行ってきました。しかし、美術館に関しては今回は大丈夫そうですね。
(とはいえ、館内はロビーのソファもなくビリビリした空気。入り口を入るとフェイスシールドをした大勢の “門番” たちがすぐさま迫ってきて、恐怖そのものでした…)
今年も、たくさんの記録を、記憶を、わたしもおさめていくのだろうな。
今回は、この「日本初期写真史」展で、おもしろいことを知ることができたので、書いてみたいと思います。
淡い夢のような「19世紀のカラー写真」
本展は写真の誕生から豊富な資料と説明と展示されている、かなり学びの要素が大きい展示です。でも、写真の技術は化学そのもの。わたしはどうも学習意欲が湧かず… 第一章はさらりと見てしまいます。
その代わり、ヴィジュアル要素がふんだんに出てくる第二章からはじっくりと拝見いたしました。
第二章からは、日本の写真文化のはじめのはじめにいた写真家たちの紹介と明治の日本を写真で見ることができるセクションなのですが、真っ先に目に入ったのは、隅に展示された、ガラスの小瓶に入った絵具。よくよく見ると、Water Color O.saka と書いてあります。説明書が離れたところにあったため最初は発見できず(写真展示に、水彩絵の具?)という疑問を頭の片隅におきながら進みます。
ところで、カラー写真自体は、白黒写真と同じく19世紀には生まれていましたが、簡単に(とはいってももちろん現代の比ではありませんが)撮って残せるようになったのは戦後しばらくしてから。
それなのに、19世紀後半の日本の風景の写真に、「カラー写真」のようなものを見ることができのです。
元町通り、と書いてありますね。(Dinner Party もかなり気になりますが)
これらは、白黒写真に「手彩色」で仕上げられたもの。
イラストと写真の間のようなものから完全にカラー写真レベルものまで、クオリティにはばらつきがありますが、どれもなんだか心温かな、ふわっとした不思議な気分にさせてくれます。
ベネチアの風景画と横浜写真の共通点
これらが、いわゆる「横浜写真」というもので、主に横浜の写真館で生産されていたのでそう呼ばれます。
その多くは外国人がおみやげとして買っていったのだそうです。
これは18世紀のベネチアの風景画とそっくりだと思いませんか。
この時代、イギリスやフランスからイタリアに学びに(旅行しに)来ることが流行っていました。あと1世紀くらい待たないと写真の技術は出てきませんから、見知らぬ土地を訪れたその記念や風景を伝えるお土産として、ベネチアの風景画がたくさん売られていました。今ではスマホでばんばん撮るだけのこと、さらにシェアもその場でできてしまいますが、少し前のポストカードのような役割を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。
お土産の絵でも写真でも、人は見たものをなにかフィジカルなかたちに頼って記憶に残しておきたいし、人にも伝えたい生き物なのですよね。その衝動はどの時代も変わらない。なんだか尊くすら感じました。
ところで、「横浜写真」とはいうものの、この「白黒写真に手彩色」という技法は東京の風景写真にも多く見られ、こちらはこちらで本にまとめてあります。
先ほどの絵具は、そのために使われたものだったのです。
彩色は日本画の絵師がおこなっており、クオリティの差はスタジオが起用していた絵師の技量に拠っていたというので、納得です。安価なスタジオ、品質を求めるスタジオ等いろいろあったのでしょう。
ところで一瞬、写真に水彩でどうやって色が乗るんだろうと思いましたが、当然ながら写真の技術が違うこの頃の印刷紙が今と同じなわけはなく、「鶏卵紙」と呼ばれるものが使われていました。
その名のとおり印刷のために卵白が使われた紙ですが、それにしてもルネッサンス期のテンペラ画といい、卵は食べ物でありながらずいぶんとアート界に貢献しています。
欲求は続く
美術館の階段からは夕日がきれいに見えました。
かたちに残しておきたい衝動は、ここでも抑えられませんでした。