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私が生活雑貨デザイナーになったわけ

はじめてnoteと言うものを書いてみる。

私が服飾デザイナーになったのは、母と叔父の影響が大きい。

母は縫製の内職をやっており、家に工業用のミシン、工業用のアイロンがあった。
小さい頃、ミシンの音、アイロンの蒸気の音が常にしていた。
私のもっぱらの遊び道具はおもちゃではなく、針と糸、そして綺麗なプリント布だった。
保育園のころ流行ったモンチッチ。
モンチッチの服を保育園で母に教わりながら作って遊んでいたのを思い出す。

九州に住む叔父は画家であった。
九州からふらっと我が家にやって来ては、絵を描いて帰っていった。
私も真似をして叔父と一緒に絵を描いていたのを思い出す。

小さい頃から、絵も服飾も私の短なものとなっていた。

小学校高学年になると、友人の影響で自作マンガを作って交換する遊びが流行った。その影響もあり、マンガ家になりたいと密かに夢を見始める。
中学校は勉強せず、マンガばかりを描いていた。
高校には普通科に通ったが、進路を決める頃になると、
母から”絵は上手い人はいくらでもいる。技術も身につけないと生活できない”
と言われ、なんだか腑に落ちて、服飾の専門学校へ行くことにした。
デザイン課に通えば、絵も描けるし服飾の技術も身につくしいいだろうと
3年間通った。

この服飾の専門学校が…かなり辛かった。

学校は大学と違い、単位制ではないため、1時間目に間に合わないと遅刻となり、進級にも影響が出る。
というのも、学校では学校の課題があり、家では別の課題があり、
課題をこなすのに徹夜になることも多く、寝過ごすと遅刻....。
体力的に辛い専門学校生活だった。

また周りは、絵が上手い人が多く、感性も素晴らしい人たちばかり。
刺激も受けたが、自分の実力を思い知らされた。
また、専門学校ではパリコレなどの世界で有名なブランドが素晴らしいと教えられる。
ヤマモトヨウジ.…ケンゾー…コムデギャルソン…..
日本人の世界で活躍する素晴らしい人たち。
その人たちに続けとばかりに、課題も変わったデザインのものが評価される。普段着ることの出来ない服が評価される。そう言ったものが賞を取る。

しかし.…
私の中で一つ疑問が生まれる。
それは、みじかなものなのか?
みんなが手に取ってくれるのだろうか。
そうだ!
私は、日本中の誰もが”かわいい!!”と喜んでもらえるような
物作りをしよう!!

そこから、服飾という概念を払拭し、
誰もがみじかに使うもの、可愛いと言ってもらえる、
生活雑貨のデザイナーを目指すこととなる。

#デザイナーになったわけ
#生活雑貨デザイナー

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