ランジャタイのおかげでお笑いが好きになった【M-1 2023感想もあり】
THE SECOND 2024の興奮冷めやらぬので、ザセカの感想記したいな!!! と思ったのですが、そもそもここで、お笑いの何が好きかって話をほとんどしていないので、過去(って言っても去年のM-1直後の12月末)別の場所で書いていた文章をまとめ直してみます。
(過去書いた記事↓は、大枠で音楽記事だと思っているので……)
12月段階と既に心持ち違うんで、半年後の自分とは若干解釈違いなのですが、ハマりたての熱量はすごく感じるので、そういうものをなんとなく掬っていただければ幸いです。
自分がお笑いをちゃんと見始めたのは、M-1 2023のたった1ヶ月前の、11月中旬からだった。
普段の棲家にはテレビがないので、最近の芸人など全く知らず(2022のM-1王者が、ウエストランドってことすらうろ覚え)、漫才やコントも、本当に有名なものをチラッと知ってる(アンジャッシュやサンドウィッチマン、ミルクボーイ)くらいの関心の低さ。
大学時代からテレビがないことに慣れきっているおり、もうこの10年程はテレビ抜きの生活をしていた。
そもそも昔から、どちらかといえば、テレビより断然インターネットっ子だった。ゴールデンタイムのバラエティもそんなに熱を込めて見てはいなくて、「昨日のはねトび見た?」に「(テレビは一応居間でついていたからそんなに熱中してはいないけど)見たよ」と愛想笑いをして、級友の会話を受け流していた記憶がある。
それが、たった1ヶ月と少しお笑いを見ただけで、テレビに齧り付いている。
M-1は敗者復活戦から本戦、そしてレミノ反省会やストゼロ打ち上げまで、12時間以上ぶっ通しで見続けた。
「真空ジェシカお願い決勝二本目行ってくれ、マジで!! あとモグライダーはともしげ失敗してそのまま成功しろ!!!」
と、祈ったり、
「二本目はやっぱこのまま令和ロマンが勝つんか!? え、競ってるのヤーレンズ!? ヤレロマ地上波!?!? さや香、からあげ的なネタでの勝負、嘘だろ!!?!?!?」
と、テレビの前で叫んだりしていた。
おそらく、昨年11月以前の自分とお笑いの話をしても、全く会話にならないだろう。結局、年明けにチケットを取って、初めて生でお笑いライブを見に行いってしまった(5月段階で計5回、月1ペースである)。今でも、テレビやラジオ、そしてウェブ番組やYouTubeを見漁ったり、時には配信ライブやエッセイを買ったりもしている。
日常が侵されている。そのくらいには、お笑いに夢中になっている。
お笑いに夢中になった全ての始まりは、ランジャタイという漫才コンビのせいだ。
そもそもランジャタイを知った経緯も、中々に遠回りだった。
またまた音楽の話になってしまうのだが、自分は、Mr.Childrenの大ファンで(そこからのbank bandも勿論大好きなので)昨年7月、彼らが主催する念願のap bank fesに全日参加していた(以前まとめたレポがあるので、詳しく知りたい方はそちらで)。
その野外フェスに、MOROHAというラッパーが参加していた。
そもそもの参加がミスチルとbank band目当てなので、まずそこで、MOROHAを初めて知った。彼らはラッパーなのだが、世間一般に知られるラップとはかなり違っていた。
まるで、喋るエッセイだ、と思った。
『ネクター』という曲に、ぐりっと心の柔らかいところを抉られ呆然としてたら、近くのカップルに「ちょっとアツすぎて無理だわw冷めたw」と嘲笑されていた。ムカつきつつも、きっとこれは戦う人の曲だから、戦わない奴には刺さらないかもなと思った。
そこから、まずMOROHAのことが好きになって(MOROHAを飲み込むのに、まず数ヶ月掛かった)、数ヶ月経ったある日、YouTubeでMOROHAの動画を探していた時だった。関連動画のところに「2代目MOROHA選手権、開幕! MOROHAのギターに合わせて芸人が即興ラップ!」という動画が引っ掛かった。
そこでMOROHAと即興ラップをしていた芸人が、ランジャタイの国崎和也だった。
もっと後で知ることだが、この企画は「ランジャタイのがんばれ地上波!」という冠番組(現在既に打ち切られている。悲しい。TELASAで見られる)のものだったのだが、その時は勿論そんなことなど全く知らないので、その即興ラップに、クスクスと笑わせてもらった。
ランジャタイの国崎、とかいう人は、良い顔でラップを歌いながらも、全力で芸人というものを体現していた。MOROHAの熱さを踏襲しつつ、ちゃんとトークでオチをつけて笑わせる。そして、国崎自身の主義主張も通す。極めてロジカルだが、人情味溢れる芸人だなと心底感心していた。
あまりにも面白くて綺麗なラップだったので、ふと、ランジャタイのコンビでのネタがどのようなものなのか、すごく気になった。
こんなにも起承転結が美しい即興ラップができるなら、ネタもきっと緻密に練られたクレバーなものなんだろう!!!! と、正直、物凄く期待した。YouTubeでランジャタイと検索すると、漫才がたくさん出てくる。
ランジャタイって漫才師なのかあ、と思いながら、何気なく動画を再生した。
衝撃。
あの衝撃は今でも忘れられない。漫才を見て、こんなにも衝撃を受けたのは初めてだった。自分が初めて見たのは、『宇宙の真理』のネタだった。
面白いとかつまらないとかの前に、とにかくただ、衝撃だった。自分の知っている「漫才」とはかけ離れていたからだ。
国崎の作るネタは、いつだって言語表現の限界を感じるが、無理矢理にでも要約すると、
「宇宙の真理がわかったので説明するが、地球と太陽の間にメロン入れちゃったり、地球と太陽持ってケンケンパしたりするかと思ったら、やっぱりわからなかった」
である。
何? オチ、どこいった?
他のネタも見たが、このネタだけがおかしいのではなく、全てのネタがこんな感じだったから余計困惑した。「ウッチャンナンチャン」だけを初めから終わりまで繰り返し続けるとか、「ランジャタイです!」という自己紹介をずっっっとやり直し続けるとか。
おかしいか、しつこいかの二択。
(今では、自分の好きなランジャタイのネタは『人生の教訓』『チャンペイチョンペチャイ』『高校最後のサッカー試合、同点でPK戦へ。そのラストキッカーに選ばれた。決めたらヒーローだ』『田中マー君日本でまた野球をしてくれて本当にありがとう』などがあると胸張をって言えるのだが、あの瞬間は衝撃と混乱がひたすらに強かった)
一番の疑問は、「なんで、ちゃんとできるのに、こんなんやってんの?」だった。
漫才って、芸人の顔というかスキルというか、芸風というかキャラというか持ちネタというか必殺技というか……その全てなのではないのか。世界に対しての「自分はこのような面白いことができます!」という自己紹介なわけだ。画家でいう絵柄、作家でいう作風。
それなのに、どうしてこんなにもわけのわからないネタで自分を売っているのか。MOROHAのラップから知ってしまったから、もうわかっている。国崎には、ちゃんとしたお笑いの基礎とスキルとセンスがあるのに。あえて、やっていないのか? じゃあなんで?
さらに、国崎の挙動の末恐ろしいところが、「何をやっているかはわかる」というところだ。
「カマキリとヘビとモグラに襲われて、地面からユーミンが出てくる」
「バーベルを曲げて丸めてサングラスにする」
「喋るカツ丼がバイトの面接についてきたので、そのカツ丼を顔に塗る」
前後関係が一切ない無茶苦茶な展開なのに、何をやっているかが眼前に浮かび上がるようにわかる。国崎の形態模写と声帯模写の技術の高さによって、実際には決してありえない景色が、ありありと体現されている。
そういえば、と思い出す。テレビを含めて、漫才やコントなどの生身のお笑いにはあまり縁のない人生だったが、ギャグ漫画、特に『ボボボーボ・ボーボボ』が好きだった。
ぐるぐると考えた結果、至る。
ランジャタイって、実写化ボーボボっぽいかも。
脈絡のないボケの連続。そんなボーボボみたいなギャグ漫画の世界を国崎は一人何役もやって、再現することができているのかもしれない。(事実、国崎は子どもの頃に、漫⭐︎画太郎やボーボボなどを含めた様々なギャグ漫画を読んでいたらしい)
だが、そのように至った結果、尚更異質に感じたことがあった。
あのボーボボですら「何やってんの!?」と叫ぶ、ツッコミ役ビュティがいるのに、動き回る国崎和也の隣にひっそりと佇む、男。伊藤幸司。
伊藤って、ツッコんで、ないかもしれない……。
主に「アァ!」「イヤァ!」と声を上げているばかりだが、たまに何か言ったと思ったら、「牛丼に矢を刺してぶん回して放り投げたい」と言う国崎に対して「じゃあ牛丼屋行けよ」とか、ちょっとズレたことを言う。伊藤は基本、国崎の行動を止めない。伊藤は国崎の世界に入ったり出たりすることはあっても、国崎を根本的に正したり、否定したりすることはないのである。
ボケが非常識なら、ツッコミは大抵、常識を演じる。非常識なボケと世間との違和をあえてツッコんで笑いを取るのが、漫才の基本形だ。と、定義するならば、伊藤の立場はどうみてもツッコミではない。(事実、伊藤は「僕はツッコミをしません。したくないんです」とも言っている)
静観。
伊藤の立場は色々な人に色々と評されていたけれど、その表現が一番適していると感じた。
見届けている。国崎が始めた世界を見つめて、付き合って、止めない。国崎が終わらせるのを待ち続ける。伊藤に主導権はない。伊藤もおそらく、あえてツッコミをしていない。
国崎はなんで、正しいことをしない?
伊藤はなんで、正さない?
そもそも芸人とは、間違ったことをわざと言う職業だ。でも、芸人の間違い方には、ある程度枠みたいなものがある。世間からズレた芸人という枠を、ランジャタイはさらにズラしているのだから、そりゃあ意味不明に見えるに決まっている。
だが、お互い「あえて」ズラしているようである。それならば、必ず意図があるはずだった。
そんなランジャタイ二人の意図が、なんとなく見えたのが、ロケでの姿からだった。
この動画は、富山ローカル番組「ランジャタイによると」である。国崎が富山出身であるため、地元富山の魅力を伝えるために、色々な観光地を巡る! という至ってよくあるコンセプトのロケ番組……なのだが。
勿論、国崎は常時ふざけまくる。食レポなのに食べない。店紹介なのに入らない。どうでもいいものに注目する。同じボケを繰り返す。そして、伊藤も国崎を止めないし、むしろ追随していくことが多い。
「ランジャタイによると」は特に顕著だが、他番組のロケでも、基本二人のスタンスは変わらない。どこでも、こんな感じ。どんな大御所の前でも、ボケ続けるし、やっちゃいけないことをやり続ける。ずっと。
そんなランジャタイの二人へと、声が飛ぶ。
「ちゃんとして!!」
同行しているアナウンサーから。
カメラ手前のプロデューサーから。
ワイプの中、ランジャタイに直接声の届かない芸人から。
それだけで、面白くなっているからすごい。
誰もが「ちゃんとして」を本気で言うだけで「ツッコミ」になっている。
ツッコミって文脈が必要だと思っている。バラエティなどでよく言われるイジリなど、芸人同士だからギリギリ成り立っているのであって、我々の日常生活でそういう文脈を無視して、ツッコミを雑にやったら、ただのイジメになる可能性の方が高い。
「ランジャタイちゃんとしなよ!」と手を引く誰か。
「ランジャタイだから仕方がないね」とそのボケに乗る誰か。
外野の彼らが、自然と正しい「ツッコミ」側に誘われていると気づいた時、二度目の衝撃が走ったのである。
ランジャタイ、という存在がボケである。だから、伊藤はツッコまないんだ。
国崎の笑いが目指すところって、ランジャタイのコンビの枠を広く超えた、遠いところにある。コンビ間だけで完成するんじゃなくて、もっと、外すら巻き込もうとしているのかもしれない、と。
前述した「ランジャタイによると」が特に顕著だが、回を重ねるごとにスタッフ側が、ランジャタイのボケに迎合していく。
ツッコミの柴田アナは「もうランジャタイなんてこりごりだよ〜(トホホ)」の姿勢を崩さないのだが、むしろカメラマンや編集は、ランジャタイのボケをそのまま受け入れて、番組そのものの幅を広げている印象を受ける。
ランジャタイのボケを優先するから、ロケの十八番や常識は崩れ続けているのだが、崩れたままで安定してしまっている。ランジャタイはボケ続け、スタッフもボケ初めて、でも、柴田アナだけはツッコんで。
呼ばれた番組のテーマに応えて、面白くするのが芸人のセオリー。
ロケに行けば、もうあるお店や食べ物をレポートしつつ、面白くするのが芸人のセオリー。
冠番組持ったら、ゲストを呼んでMCとして上手くトークを引き出して面白くするのが、芸人のセオリー。
それらの面白さは、あくまで枠の中にある。
ならば、ランジャタイはその枠からあえてはみ出し、囚われないことを選んでいるのではないだろうか?
人の番組に行ってもあえてそのテーマをやらないというボケ。
ロケに行っても、食べないし行かないというボケ。
冠番組持ったら、ゲスト側に企画を寄せていくというスタンス。
そんなテレビ番組、今まで自分は、全然見たことがなかった。
事実、ランジャタイは無茶苦茶をして迷惑を掛けてはいるが、国崎の中にそのような「はみ出すことでみんなを巻き込む」という芯があると考えれば納得できてしまった。一見、意味不明に見えるのは、おそらく国崎の目指す笑いのレイヤーが、他人より一枚、外側にあるからかもしれない。
誰の前でも無茶苦茶するランジャタイを見ていると、国崎にとって、芸人と素人の境界が極めて薄いように感じられる。
そもそも「ランジャタイのがんばれ地上波!」で、MOROHAとラップをやっていたのもそうだ。アーティストであるMOROHAは、ただのゲストというわけではなく、ガッツリお笑いに参加している。でも、ちゃんとMOROHAはMOROHAのままであって、変に芸人ぶっているわけではない。ありのままのMOROHAだ。でも、ツッコミにもボケにもなれている。ランジャタイの冠番組の中で。
また、ランジャタイは、変な芸人(いわゆる地下芸人)のことが大好きで、その辺りとたくさんテレビの中で関わろうとするのも、あまり他の芸人には見られないことだった。地下芸人の走り出しであるらしい、2020年M-1優勝のマヂカルラブリーより、顕著にズブズブに地下に潜り込んで、地上波のスポットライトを照らしているように思う。おかげさまでランジャタイを追う過程で、色々な芸人のことを自然と覚えてしまった。
地下芸人を変に持ち上げようとするのではなく、面白くない芸人は面白くないまま出しているし、クズはクズのまま、「こいつはクズです」と伝えている。でも、それだけで、外野は自然とボケやツッコミへと変化している。
「俺と関われば、みんな笑えるよん」
本当に国崎がそういうことをやりたいと思っているのなら、それって、すごく究極の人間讃歌ではないか?
勿論、彼は、根っからの芸人だ。ここまでの話は、一にわかファンの勝手な推測である。本当にこのようなことを思っていたことだとしても、そんな人間讃歌だよなんてマジなこと、国崎は絶対に言わない。そんなのはボケにならないから。
でも、相方の伊藤が、
「国崎君は国崎君のやりたいお笑いを見せようとしているから」
と言って、隣で17年間静観していることが、全てを証明しているような気がする。
正直、もっと突き詰めて、国崎和也個人について考えると、国崎は、芸人と素人どころか、人と犬猫や無機物の垣根すら薄くて、二次元(漫画)と三次元の次元すら飛び越えていて、究極的には自分で自分を面白がりたいだけなのかもしれない。
国崎がボケるだけで、みんなを自然にツッコミにするっていうのも、あくまで「ツッコミ」なんてのは、漫才の役割の中だけの話でしかないし。
……笑いって、広いな。
ここで、冒頭、M-1 2023の話に戻る。
令和ロマン、優勝本当におめでとう。それこそ、自分が令和ロマンのことを知ったのは「ランジャタイのがんばれ地上波!」の伏線回収王からだった。
M-1という大会は、漫才賞レースの金字塔である。結成15年以内(立ち上げ時は、結成10年以内だった)の二人以上の芸人なら、プロアマチュア問わず、誰でも参加できる漫才師の大会だ。(本屋大賞を受賞した『成瀬は天下を取りに行く』の題材にもM-1が取り上げられていた)
だが、誰でも参加できるのは、あくまで予選である。一回戦、二回戦、三回戦、準々決勝、準決勝を戦い、決勝に残るのは僅か9組だけ。そこに準決勝からの敗者復活戦で勝ち上がった1組を加えて、計10組が戦う。チャンピオンには、今年一番面白い漫才師の称号が与えられて、優勝賞金1000万が獲得できる。
賞金とか名誉よりも、最早、今はそのブランド性に価値や重きが置かれているように思う。今、テレビで売れている芸人の多くは、M-1で結果を残した人ばかりだ。
そして、マジで信じられないことに、ランジャタイは、結成14年目、M-1 2021(優勝は錦鯉)に、あのまんまの漫才の形で決勝進出している。
ネタは『風猫』だった。
内容は「風が強い日に外に出たら猫が飛んできて耳から入り、国崎を操縦して最後には将棋ロボになる」という、まさにランジャタイ全開のネタだった。
自分はランジャタイの漫才の型が大体わかってから、M-1 2021を見たのだが、本当に完璧な『風猫』だった。間も叫びも静観もムーンウォークも完璧。ランジャタイはいつも通り、むしろキレの増した漫才をゴールデンタイムの舞台で披露したのである。
勿論、審査員は大困惑。ランジャタイは見事に敗退して、結果は最下位だった。
ランジャタイは決勝進出の数年前から、敗者復活戦には参戦していたので、M-1ファンの中では「やばい奴らがいる!」と既に頭角を現していた。そのようなランジャタイの芸風を元々知る人たちにとっては、ランジャタイ”なんか”が決勝に出たら、こうなることはわかりきっていていたことでもある。最早、ちょっと怖いもの見たさというか。
国崎が、それをわかっていないわけがない。
勿論、勝つ気がないわけではないし、全力でやったけれど、M-1で勝つためにランジャタイの何かを変えることは絶対にしなかった。
いつも通り、ネタ以外の平場でもボケまくっていた。名前を呼ばれても立ち上がらない。廊下でまっすぐ進まない。ネタ終わりによくわかんないことを言う。敗退の際に、オール巨人の自作パネルを持ってきてボケる。
M-1って、漫才師みんなの念願の夢舞台だよ。いや、そんなにボケるか?
勿論、優勝しなくてもM-1からブレイクしたという芸人もたくさんいる。みんなボケるのは当たり前だ。芸人だから。でも、国崎のそれらのボケは、爪痕を残してやろう! という、ギラギラしたものではなく、多少名が売れた今現在と、何にも変わっていない。当時、ランジャタイはほとんどテレビに出てなかった(結果的にはM-1きっかけで増えた)けど、今の地上波でのスタンスと何も変わらない。
そんな国崎の姿勢は、M-1とかM-1じゃないとか、舞台とか平場とかなど、全然関係ない。気負わない何かだ。
あのM-1で無茶苦茶できるのは、本当にすごい。他の芸人とは抱く感受と貫く姿勢が、一人だけ明らかに異質である。時には、根本的な破滅願望を感じる瞬間さえある。
でも、国崎は、錦鯉のM-1優勝を、舞台裏で、モグライダーと真空ジェシカと本気で喜ぶような笑顔も見せていて、まともな感性や人の心、常識はちゃんとあるのである。「M-1で優勝したら人は喜ぶ」ということは理解している。それなのに、自分のボケについてだけ、あまりにも倫理観がなく、狂っていて、全力すぎる。
そして相方の伊藤は、国崎と違ってかなりM-1に憧れと熱い気持ちがあり、「絶対優勝したい!」と思っているのだが、それこそ、他の人に「もうちょっとツッコめば?」とか「国崎を止めれば?」と言われても、
「変えません。このままで勝たないと意味がないので」
と即答しているのもすごい。伊藤は国崎をこのままにして本気で勝ちたいのである。M-1すら、ランジャタイに寄せる気だったのである。傲慢の極み。
「こっちのスタンスは変えないから大会の方が変われ!」って、なんて、もう、すごい。西洋美術史で例えると、かつて宗教画ばかりのサロンに、マネが『草上の昼寝』で女性の裸を提出して、バチクソに叩かれたアレだ。または、晩年ピカソの続けたキュビスム。
でも、そんな型破りがM-1でも許されるかもしれなかった。ランジャタイが最下位だったから歴史は狂わなかった。ランジャタイが優勝してたら、2021年から世界は狂い始めていただろうよ。マネの絵は印象派に繋がり、美術界を変えたからな。ピカソも然り。
ランジャタイの需要って、この無茶苦茶さこそにあるのかもしれない。国崎は、自分の人生全部台無しにすることによって、みんなを巻き込んで笑かしたいのである。自虐ではなく、一緒に馬鹿になろ!! っていう。愛。
ランジャタイはM-1に愛されたかった。M-1を変えてですら。
でも、それって、「ちゃんとしたM-1の舞台」があったからこそ、異質になれたランジャタイ、ということでもある。ちゃんとしたM-1があるからこそ、ランジャタイはそこからはみ出て、そのはみ出たことすら受け入れられることを望んでいた。
ランジャタイは既に結成15年を超えてしまったので、もうM-1に出場することは叶わないが、じわじわと地上波の常識を覆し続けているところがあるので、このまま世界を狂わせ続けて、どうか世界に愛されてってほしいと思う。今年のTHE SECONDも最高だった(これについては別記事で語りたい)。
そして、M-1で無茶苦茶したランジャタイがいた一方で、その「ちゃんとしたM-1の舞台」を変えることなく、そのまま愛して分析して尊重して優勝したのが、令和ロマンである。
M-1 2023で、令和ロマンは10組中トップバッター出順のまま3位の点数で決戦に進み、最後4vs3の僅差でヤーレンズに勝利したのである。3位はさや香。
ネタ製作者兼ボケのくるまは、飄々として肝がすわっているし、どこか優勝も他人事みたいなドライさがある。愛嬌が一つもない(永野談)し、なんか冷たいなと感じた人もいるかもしれない。
逆だ。
というか、くるまは”M-1”が大好きなのである。愛している。
M-1に向けて、歴代すべてのM-1を分析し、一本目二本目のネタのバランスをシミュレーションし、漫才コントかしゃべくりかを選び、ネタも四本持ってったらしい。
大体の漫才師は、予選で使ったネタをそのまま決勝でもやる。ウケる保証があるから。でも、やっぱり舞台が違うと、客のキャパも審査員も違うし、どこでも同じくウケるとは限らない。
だからこそ、令和ロマンはそこに縋らなかった。どこまでも、なまものであるM-1を愛して、その揺らぎすら徹底的に分析して、M-1を枠ごと愛した。
それこそランジャタイが、己のスタイルを貫いてM-1の枠を広げようとしたなら、令和ロマンはM-1の枠の中で最大に盛り上げた。
自分の属する令和ロマン”くん”ですら、M-1の中の一つの歯車として機能させようとしていた。くるまが目指していたのは、ただ一つ。
最高に面白いM-1にすること。それだけに徹底的な労力と愛と才能を注いだ、究極のM-1オタクである。
そこまでM-1を自己と切り離して愛せること、M-1を分析することがくるまの愛であること、そしてその分析における対応を完璧に決められることが、末恐ろしい。
くるまにとっては「優勝して嬉しい!」よりも「面白いM-1になってよかった!!」の嬉しさの方が強いんだろうと、事後インタビューを読むたびに感じる。
だが、ここまで分析しても勝てないことは大いにあっただろう。優勝は結果論とも言える。でも、きっと令和ロマンは、もし自分たちが優勝してなくても「良いM-1になってよかった!!!!!」って、心からはしゃいでいたと思う。
その客観視が令和ロマンの魅力だと、M-1で知れたことに大変興奮した。盟友ヤーレンズとの僅差も美しすぎた。
「ヤーレンズ!令和ロマン!ヤーレンズ!令和ロマン!ヤーレンズ……令和ロマン!令和ロマン!!!」の瞬間、テレビの前で叫んだ。最高のエンタメだった。
ありがとう令和ロマン。2023のM-1を面白くしてくれて。
令和ロマンも良かったが、2023年のさや香も中々に痺れた。2年連続3回目のM-1、決勝進出の実力コンビである。
1本目はトップ通過、そこからの2本目のネタ万を辞しての『見せ算』。
これがほんっっっっっとに刺さらなかった。さや香は正統派漫才師のイメージだった。実力があるのに『からあげ』のような変なネタも持ってるという印象だったので、あの1番の大一番で『見せ算』を始めた瞬間、唖然とした。
しかし、新山曰く「『見せ算』と『からあげ』はコロナ禍にダブルヒガシとコウテイという芸人仲間を笑かすために作り、この『見せ算』については一年前からこのネタを決戦二本目にやると決めて戦略を立てていた」と聞いて、ひっくり返った。
それも、美学。
『見せ算』みたいなネタがどかん!と爆発する年もあるから、何を信じるかなど不確かだ。確証などない。
でも、迎合するより、貫き通すことを選んださや香、熱い。
ネタに使った『見せ算』は有志のおかげでブラウザゲームにされてて笑った。それもお笑いのいいところだ。失敗がおいしくなるから。笑いになるから。
ランジャタイも令和ロマンもさや香も、笑いについて一貫した姿勢を崩さないのである。それがすごい。
ランジャタイ国崎が、
「自分が無茶苦茶にはみ出すことで、みんなを笑いに巻き込みたいぜ!」
と、いう信念に基づいてボケ続けていたとしたら、
令和ロマンくるまは、
「自分が完璧に俯瞰で振る舞うことにて、みんなが笑える最高の大会にしようぜ!」
という、対比としてあまりにも綺麗な形だ。
ランジャタイはM-1という枠を壊そうとしたし、令和ロマンはM-1という枠を愛した。
どれも生き様だ。
人の生き様と視点が見えるものが芸術なので、お笑いは芸術だよ。
お笑いは芸術だけど、M-1などの賞レースはスポーツのようなものである。M-1によって、翻弄され狂い、苦しむ漫才師がたくさんいる。画面に映っていない、もう何千倍、何万倍の苦しみがあるのだろう。
でも、M-1を通して「人間」が露呈するのが本当に面白い。こんな大舞台だからこそ、本当に己の信じるものが露呈する。
確かに勝ち負けがある。だけど、「どう勝つか?」の姿勢が大切なのだと思う。
フランクルの『夜と霧』の言葉を借りるが、「わたしたちが生きることから何を期待するかではなく、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ」というように、
芸人がM-1から何を期待するかではなく、M-1が芸人から何を期待しているかが問題なのだ。
ありがとうM-1。漫才と、お笑いと、人間の見方を広げてくれて。
色々小難しいことは考えてしまったのだが、ランジャタイが「最後は笑顔でサヨナラしよっ!!」「ナニィ!?」って叫ぶだけで、訳もわからず大爆笑している。
テレビではなく、劇場で生で見るお笑いも本当に面白かった。また、是非見に行きたい。劇場も賞レースも、本当に面白い。これからのランジャタイが見せてくれる景色が楽しみだし、まだまだ面白い芸人に出会えることも楽しみだ。
お笑いの未来は、明るい!