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【最北住込エッセイ②】地元を厭んで旅人になった


「どうして、ここで働いてるの?」

 稚内のゲストハウス、モシリパ(「モシリ」は土地や世界、「パ」は端という意味のアイヌ語を合わせた造語だ。つまりは端の土地という意)のダイニングで、ぼくがお客さまに一番よく尋ねられる質問である。
 こういう雑談に興じるのは、21時までのフロント業務が終わってシャワーを浴びてから、ダイニングでぼくがゆっくり酒を飲みながら、夕飯をつまんでいる時である。
 お客さまが「あれ、さっきのスタッフさん?」と目を丸くしながら聞いてくるので、ぼくは素直に「実は、住み込みのスタッフなんです」と返す。
(また、休みの日だとしても「もう滞在長いんですか?」とお客さまに聞かれると、素直に「スタッフです」と答えている。そんなに小慣れて見えんのかな)

 一応、漫画には経緯を書いているのだが、実はもう少し妙な事情がある。

 モシリパとの縁は、ぼくが札幌出身でありながらもその自覚がかなり薄いことや、47都道府県を制覇する旅行フリークになった理由にも繋がってくるので、綴っておきたい。

 時は、今から40年程前に遡る。和歌山県の紀伊半島の町。そこに生まれ育つ、17歳の男がいた。
 後に、ぼくの父親になる男である。
 父の実家は何度も行ったことがあるが、木造建築一棟の辺り一面、田園しかない。柴犬が畦道を駆け回り、蝉が劈くように鳴き、日が沈むと蛙の大合唱が響き渡る。絵に描いたような田舎だ。映画『となりのトトロ』や『サマーウォーズ』、ゲーム『ぼくのなつやすみ』を彷彿とさせる。フィクションで描かれそうな日本の原風景そのものの地だ。
 幼いぼくが孫として、祖父母家へ夏休みに遊びに行く分には大変魅力的な場所だったが、ここで生まれ育った父が、もっと外の世界を見たくなったのは十二分に理解できる。父は17歳、高校生の夏休みに和歌山を飛び出した。

 父が向かった先は、北海道だった。(どうして人は北を目指すのだろうか)
 時代は昭和。今はなき周遊券やヒッチハイクを駆使して、若者たちがユースホステルを回っていた時代である。携帯電話などない時代、それでも人は鉄道の掲示板に伝言を書いて、集い、騒ぎ、別れ、一期一会の旅を繰り返していた。

 そこで父は辿り着く——、最北端の稚内へと。

 今は、ゲストハウスのモシリパとして経営しているが、実はこの建物は、元々ユースホステルのモシリパだった。安価で若者たちを泊める、モラトリアムの極みの文化。今でも桃岩荘ユースホステルなどで残る、令和ではちと時代錯誤の宿泊形態である。
 そんな時代の最北端に辿り着いた高校生の父は、ユースホステルモシリパの雰囲気に好印象を抱いた。和歌山を出て、関西の大学へ進学した時、父はモシリパのオーナーに手紙を出した。

「モシリパで、ヘルパーとして働かせてくれませんか?」

 ヘルパーとは、ユースホステル特有の用語で、バイトやスタッフ以下、ほぼボランティアみたいなものである。雇用は極めて安価だし、激務だ。だが、旅行において最も費用の掛かる宿泊費が浮く。北海道での長期滞在を狙って、父はヘルパーに応募し、モシリパに無事採用された。(経緯が親子で同じすぎるな)
 今でもモシリパに残るかつてのアルバムには父の写真ががっつり残っている。(父も子に見られるのは気恥ずかしいだろうし、ぼくもはっちゃけていた父親の姿はあまり見たくないところである)
 父は就職と共に関東に出て、神奈川県の川崎市で母と出会う。東京出身の母も、ヘルパーはやっていなかったにせよ、周遊券とヒッチハイクを携えて、北海道中を練り歩いていた旅行フリークだった。旅行仲間の伝手で二人は出会い、結婚した。
 そして、ぼくが生まれた。川崎の小さなアパートで赤ん坊を抱えながら二人は思ったのだ。

「このまま関東で子育てしたくないね」
「地方中枢都市がいいな。博多か、仙台か、札幌かな」
「北海道好きだし、札幌にしよう!」

 というわけで、ぼくは、齢一歳にして札幌に来たのだ。だから、ぼくの出身は厳密に言うと、神奈川県川崎市生まれの、北海道札幌市育ちなのである。親戚も知り合いも一人もいない、札幌という新天地に、ぼくら家族は引っ越した。
 和歌山出身の父と、東京出身の母だ。家の中に北海道の文化はない。もちろん、北海道の親戚など一人もいなくて、親戚の代わりにぼくを可愛がってくれたのが、両親の旅行仲間たちだった。もちろん、みんな本州出身。道内旅行のついでに札幌に寄って、飲み交わしては旅立っていく。お陰で、幼い頃から知らない大人が突然家に来る状況には慣れていた。人見知りとかあまりしたことがない。素性の知らない大人と話すことに、昔から抵抗はなかった。(この経験が現在のゲストハウス勤務に生きるとは思わなかったけど)
 そして、旅行フリークの両親である。札幌を拠点にしたなら、そりゃあドライブに行きまくる。後部座席に乗せられて、これまた北海道中を連れ回された。その中にはもちろん稚内も含まれていて、ユースホステルモシリパに何回も行った。毎回、和室の部屋に泊まったのを覚えている。(今はここを毎日掃除しているから不思議だ)

 その縁もあって、モシリパのことは昔から知っていた。こうやって順序立てて説明してみると、そもそもぼくが札幌で育ったのも、モシリパが遠因なのかもしれない。父が高校生の時に北海道を目指して、ユースホステルのモシリパでヘルパーとして働いていなければ、両親は移住先として札幌を選ばなかったかもしれない。
 ぼくも、知っている建物と街だったから、求人メールを送りやすかったという理由は大いにある。宿泊業もゲストハウス勤務も未経験だったけど、稚内なら働けるかもしれないと思った。
 そして、ぼくは縁とタイミングに恵まれて、父と同じように「モシリパ」で働いているのである。

 さて、このような筋道立った経緯があるから、「どうして、ここで働いているの?」と聞いてくださったお客さまには、この辺りの話を掻い摘んで話すわけだ。
「というわけで、父の影響です」と笑って言えば、「蛙の子は蛙だね」とか「血筋だね」と、もちろん納得してもらえる。そこから津々浦々楽しい旅行トークに移行できるというわけだ。

 ……おっと、綺麗な物語に騙されてはならないぜ。

 これはあくまで、両親——特に、父親の話でしかない。ここまでの話の中に、ぼくの意思は殆どなかった。
 人の話は、そこに本人の意思が含まれているかどうか、ちゃんと確かめながら聞いた方がいい。特に、聞こえの良い滑らかなトークをしたりしている時は、聞かれたくない話が、実はあったりするんだから。

 ぼくは、旅行なんか別に好きじゃなかった。

 旅行って自分の意思がないと、点から点へのワープでしかない。旅行など、移動を楽しむことが大半だと言われるが、本当にその通りだと思う。
 幼いぼくにとって、後部座席に詰め込まれて、長時間の移動をさせられるのは、どちらかというと苦痛な部分が大きかった。極めて効率の悪い、どこでもドアでしかなかった。後部座席に乗っているだけで、いちご狩りができたり、ウニ丼が食えたりするのは、まあ嬉しかったけど、それもあくまで与えられるものを得ていただけで、極めて受動的な体験だったと思う。

 高校生になって、地元から少し離れた学校に進学すると、同級生は、札幌市内の別の区、または市外出身の人間がほとんどになった。彼らと何気なく話した時、札幌出身だからと言って、みんながみんな、こんなには北海道を旅していないことに初めて気が付いた。
 その瞬間、ぼんやりとした疎外感を覚えた。
 旅行は非日常で、生活が日常だ。札幌で暮らしていれば生活には困らず、市外に出る必要はない。事実、修学旅行以外、北海道の外に一度も出たことない人間も少なくなかった。みんなの将来の進路は、道外に出ることを一切の選択肢に入れていないものばかりだった。その時、ぼくは当然のように思っていた。

「東京に行きたいなあ」
 当時、はっきりと自覚していなかったけれど、それすら欺瞞で、きっとぼくの本音はこうだった。
「北海道から出たいなあ」

 これは、札幌ではなく、旅人の血だ。
 本当の道民は北海道から出たがらないのだから、ぼくのルーツは札幌ではないと思う。そして、北海道の歴史を知れば知るほど、ぼくが本当の道民だと定義する人々の先祖も、あくまで明治時代からの開拓民にすぎず、縄文、続縄文、オホーツク文化を経たアイヌだけがこの地の人だと言えるんじゃないかとも思う。今広く蔓延っている、北海道という名称すら、松浦武四郎が付けた名なのだし。

 浪人を経て19歳で上京した時、はっきりと「北海道を捨てた」という罪悪感を抱いたことを、今でも手に取るように覚えている。父の選んだ北海道を最初から最後まで愛し続けられなかったことは申し訳ないが、そこを責めるような父でもないのもわかっている。ただ、父に比べて、ぼくは随分、消極的な理由で北海道を出た。結果的に就職で札幌には戻っているのだけど、戻ったというより、もう一度選び直したという意識が強い。
 地元に戻ったのではなく、札幌を選んだ。
 もう一度、選べるようになったのは、上京した四年間、親元を離れた際に、日本全国色んなところを自分の意思で旅したからだと思う。

 初めての一人旅は、20歳の時、和歌山県の新宮市だった。(父が北海道を選んだように、ぼくも和歌山を選んだのは何とも数奇である)夏休み、父の実家に行って東京に帰るのに、ただ特急と新幹線を乗り継ぐだけじゃあ面白くないと思った。
 すると、熊野から新宿までの深夜バスを見つけたので、じゃあ、そこまで好きに観光してみようと、リュックを背負って、独り身で自由に歩いてみることにした。

 佐藤春夫の文学館を訪れたら、すぐ隣にあったのが、熊野速玉神社という世界遺産だった。世界遺産ということに喜んで、ついでに軽い気持ちで近くの神倉神社に登ってみたら、目的地のゴトビキ岩が急勾配の石段の上にあって、下手に引き返せなくて半泣きで登って降りた。おかげで全身汗だくになって、このままじゃ深夜バスに乗れないと困って、何とか番頭さんのいるような銭湯を必死に見つけて入った。そして、風呂上がりの真っ暗なバス停、本当にこんなひとけのないところにバスは来るのかと立ち尽くして、泣きかけた。そして、ちゃんと無事にバスが来て、ちゃんと帰ることができた。新宿までの深夜バスに揺られながら、この旅を全部一人でやり遂げた、という達成感をぼくは静かに噛み締めていた。

 初めてにしては過酷な旅だった。きっと、この経験で旅の魅力に取り憑かれてしまったのだろう。
 でも、ぼくはずっと、自分が選びさえしたら、どこまででも行ける、ということを確かめたがっているのだと思う。

 もちろん上手くいかないこともあるし、快適なわけでもない。全部自分で決める旅っているのは、不便なことの方が断然多い。観光バスツアーとか、誰かの運転する車の後部座席に乗っている方が、楽で便利で安全だろう。
 でも、全部が全部、自分の責任で動くことをいつだって望んでいる。思春期、自分の努力じゃどうにもならない理不尽にずっと苦しみ続けていた。北海道という土地と自分をどうにか断ち切りたくて仕方がなかった。

 だからこそ、一人旅は気楽だった。自分のおかげで上手く行ったり、自分のせいで台無しになることは、ぼくにとって、すごく嬉しいことだったからだ。
 責任を引き受けないと、好きなことはできないけれど、裏返すと、責任を引き受ければ、好きなことができる。
 責任が欲しいから、旅をしている。責任があるから、自由でいられる。

 だからぼくは旅をしているし、ここで働いているのだろう。

⦅追記⦆
 この記事を父に読ませたら、何点か相違があったので修正しました。これって、やっぱ人の意思を勝手に物語にして書くなっていうオチ!?(2024年8月16日修正)

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