見出し画像

【最北住込エッセイ③】文学館巡りは故人との旅だった

 ぼくは、自分で選んだ結果、どこまで行けるのかを知りたくて旅をしている。そして、今現在、稚内のゲストハウスモシリパで働いている。(前回記事参照↓)

 観光とかレジャーやアウトドアというより、どちらかというと、手段に重きを置いた旅行を繰り返している気がする。だから、別に目的など何もなく旅をしたっていいと思っているが、やはり、ぼくにもいくつかのお目当てやこだわりはある。

 だが、あまりそのこだわりについて滔々と話したことはないかもしれない。
 自分の旅行歴を他人に伝えるために、開口一番「日本一周して、47都道府県制覇しました!」というのはキャッチーで強いので、よくやる手段だ。しかしまあ、両親とその旅行仲間たち、モシリパオーナー夫婦、そして稚内に集う強靭な旅行フリークの話を聞くと、日本一周や47都道府県制覇など序の口だと感じる。各地の離島滞在や制覇、登山家、ロードやカブ乗り、ライダー、かつても今も情勢的に厳しい武漢や樺太にいた人や、世界一周などもざらにいるわけで、日本一周や47都道府県制覇程度では、そこまで誇れない世界である。(そもそもそういうマウント取りや完璧主義者は旅人には向いていない)

 人と比較したって仕方がないのである。自分なりのわがままとこだわりを突き通すのが旅だ。
 色んなところに行った旅人ほど謙虚で、自分の旅行歴をひけらかしたりしない(と思っている)。聞かれたらさらっと答えるとか、日常の会話の端々に教養として漂っている(のが格好良いし、憧れる)。

 自分もそうありたい。

 って言い切ると、ここでエッセイ終わっちゃうんで、今回はそのこだわりをひけらかせてくれ!! ひけらかすっていうと自慢っぽいので、備考録的に書いておく程度にしたい。

 20歳で一人旅を始めてから、約10年間。これまで何を指針にして旅をしてきたか、自分のために整理しておきたいと思う。
 今後のぼくの旅のために。

 さて、ぼくは、去年の夏から秋に掛けて、車で日本一周をしたのだけれど、ぶっちゃけ、日本一周は結果論であり、ついでだった。
 ぼくは、ただ、日本各地の文学館を訪れたかっただけである。

 因果は、20歳よりさらに前、高校二年生、17歳の頃に遡る。
 旅なんか全然好きじゃなかった頃、というかそもそも、この世の全てのことが全然好きじゃなかった高校生の頃、ぼくは高校の図書館に足繁く通っていた。高校自体のことは嫌いだったけど、昔から読書や図書館は好きだったから、その蔵書の豊かさに縋って、様々な本を読み漁っていた。
 そこで特に夢中で読んでいたのは、萩原朔太郎や室生犀星、中原中也らの全集だった。明治大正の文豪、しかも詩人である。なんかこう言うと、真面目で崇高で大層な感じに聞こえるが、別に国語の授業とか、読書好きを拗らせて興味を抱いたわけではない。
 当時、インターネットの個人サイトに上がっていた『ゆるっと、文豪!』という漫画の影響である。

(この作品、かつて書籍化の話もあったのだが、いつの間にか掻き消えてしまった。その上、個人サイトまで閉鎖されてしまった。本当に悔しいし、ずっと悲しい。今公開されてる、この芥川と太宰の話を啜るしかない。つらい。ギャース先生、ずっと待っております)
 当時は、文豪イケメン化ブームの黎明期だった。今や、文豪〜の名を冠する漫画やソシャゲは溢れている(し、寧ろ見た上で嫌いまである)が、この、ゆる文を読んだ時、率直に思ったのだ。

「文豪って、あまりにも社会不適合者すぎるじゃん!!」

 ゆる文も漫画なので、もちろん大袈裟な脚色はされていた。だが、丁寧に参考文献を載せながら、「漫画として敢えて脚色しています」と、はっきりと明言する作者の誠実さに好感を抱いた。作者は心底、文豪の駄目で愚かな人間性が好きなのだなと、深い愛着を感じられた。だからこそ、それまで文豪という存在に対して斜に構えていたぼくも、夢中になって読むことができた。
 ゆる文のおかげで、今まで教科書で読み流していた、芥川龍之介、太宰治、宮沢賢治、森鷗外などの著名な文豪の他、萩原朔太郎や室生犀星、中原中也、三好達治、立原道造、堀辰雄、高村光太郎、村山槐多、佐藤春夫、谷崎潤一郎などなど、比較的マイナーな文豪の、へんてこでイカれたエピソードを知るきっかけになった。
 そして、高校の図書館には、彼らの全集が揃っていたのである。全集の良いところは、作家の小説や詩や随筆作品はもちろんのこと、書簡(手紙)も丁寧に収録されているところだ。一般書店では、まずお目にかかれない高価な本ばかりだった。特に萩原朔太郎の全集が面白くて、犀星との最悪の初対面からの書簡や、『芥川龍之介の死』などを、興味深く読み込んでいた。

 全集を読んでいく過程で、萩原朔太郎の出身が、群馬県の前橋市であることを知った。そこには、萩原朔太郎記念館や前橋文学館というものがあるらしい。文豪の展示がある、いわゆる文学館というものは、文豪の生家跡地に建てられることが多い。朔太郎も例に漏れず、本人の出身地である前橋市に建てられていた。

 群馬かあ。なんだか、すげえ遠そうだなあ。

 17歳のぼくは、北海道の図書館で一人、朔太郎の全集を読みながら、そんなことを思った。朔太郎は、自らの詩や随筆の中で、地元の前橋を厭っていた。当時はぼくも北海道が好きじゃなかったから、その地元を厭う感情に共感した。朔太郎が嫌いな地元をいつか見てみたいな。前橋は、ぼくにとっての地元ではないから。
 だからと言って、高校生のぼくが北海道からすぐに出ることはなかった。たまに高校に行っても、教室ではずっと寝てばかりで、休み時間になると教室から逃げて、その大半の時間を図書館と美術室で過ごすような毎日。美術部に所属したのも三年の春からだった。その動機は、絵を描きたかったわけではなく、生徒会を二年の秋に引退してしまい、部室がなくなったので、教室からの逃避場所を確保したかっただけである。そろそろ便所飯も限界だった。
 一人、美術室で飯を食った後、図書館に行って、朔太郎の詩を読み漁る。そんな行為を繰り返していたが、周りに咎められることは一切なかった。みんなは、図書室で黙々と受験勉強をしていた。みんなが、ぼくに関心がないのは助かった。ぼくも、みんなに関心がなかったからだ。
 ぼくは、明治や大正の社会不適合者に共感する、平成の凡夫な社会不適合者だった。

 そのような極めて内向的な高校時代だったから、現役の大学受験は当然失敗した。この文学傾倒の後、高三の夏に美大受験を始める、という失敗版リアルブルーピリオドをかましているのだが、その美大受験の際に、一つだけ契機があった。
 受けた大学の一つに、金沢美術工芸大学があった。(実は、任天堂現フェローの宮本茂や、ハル研究所ディレクターの熊崎信也を輩出する、すげえ大学である)美大受験は実技があるため、基本的に、その大学で受験が行われる。遠方での受験だったこともあり、飛行機やホテルを取って、母と共に二人で冬の金沢に向かった。
 デザイン系の学部受験だったので、一次はデッサン、二次は平面構成だ。もちろん、一次のデッサンで落ちた。美大など、何浪もしてようやく受かる狭き門だ。デッサン歴半年以下の付け焼き刃で受かるような甘い世界ではない。記念受験のようなものだったから、割とショックは薄かった。
 落第により、二次を受けるために確保していた日程が、ぽっかりと空いてしまった。まだ滞在期間には余裕がある。もちろん、石川県も初めてだったし、金沢市も初めてだった。観光パンフレットをぺらぺらと適当に開いて、一つの建物が目に留まる。

 そこには、室生犀星記念館、とあった。
 金沢市は、朔太郎の親友である、犀星の出身地だった。

 行ってみたいと母に強請って、室生犀星記念館へと向かった。記念館自体の展示よりも、その建物の裏手で見た、濁流する犀川のことを強く覚えている。
 彼の本名は室生照道だ。犀星というペンネームは、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対して自分は、犀川の西に生まれたから、という理由で付けたらしい。単なる対抗心だけではなく、犀星は心から犀川を愛していたことが、ペンネームや作品世界から感じられた。親友の朔太郎は前橋を嫌っていたが、犀星は金沢を愛しているんだと思った。

 連日降り続いたの雨雪のせいで荒れ狂う犀川を見つめながら、犀星が一番愛していた犀川の姿はこれじゃないのかもしれないし、こういう犀川も含めて愛していたのかもなとか、色々と考えを巡らせていた。犀星の詩や小説が特段好きだったわけではない。だが、北海道の図書館で全集は読めても、金沢に来ないとこの犀川は見られなかったんだな、と思った。

 受験失敗からの成り行きではあったが、ぼくは、室生犀星記念館という、いわゆる文学館というものに、初めて自ら望んで訪れることとなった。

 その後、同じ金沢市にある泉鏡花記念館にも寄ったし、一浪の後、上京してすぐに田端文士村記念館(現在、芥川龍之介単独の文学館は存在しておらず、ここが実質芥川についての展示が最も多い文学館となっている)に行ったし、前回の記事、20歳初めての一人旅でも、和歌山県新宮市の佐藤春夫記念館を一つの目的として掲げていた。
 そして、大学一年の冬、新潟県の越後湯沢駅で現地集合現地解散というイカれた合宿講義があったので、その帰りに群馬県の前橋市に寄り、朔太郎の出身地にも行くことが叶った。(当時は改装工事中で、朔太郎の生家には入れなかったが)
 どれも、ゆる文を通して知った文豪であったが、大学時代になると、もはや漫画の影響は薄れていた。様々な文豪の人間性とその故郷を訪れることそのものに魅入られていた。文豪の聖地巡礼である。

 宮沢賢治の生まれ故郷である、岩手県花巻市。花巻の駅から三十分程歩いたところに、賢治がイギリス海岸と名付けた、北上川の岸がある。ここは、かの有名な童話『銀河鉄道の夜』に出てくる、ザネリとカムパネルラが落ちた川のモチーフという一説があるが、ぼくはその穏やかな水面を眼前にして、『イギリス海岸』という随筆のことを思い出していた。

いくら昨日までよく泳げる人でも、今日のからだ加減では、いつ水の中で動けないやうになるかわからないといふのです。何気なく笑って、その人と談してはゐましたが、私はひとりで烈しく烈しく私の軽率を責めました。実は私はその日までもし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐただけでした。

宮沢賢治『イギリス海岸』

 見上げた自己犠牲精神である。ぼくは、賢治のこういう自罰的なところがとても愚かだと感じている。死ぬことの向こう側なんて一緒について行けないよ、と賢治を一人嘲笑していた。こんな対話は、わざわざ花巻まで来て、実際に賢治が泳いだ川まで来たから、成し得たことだ。

 北海道ニセコ町にある、有島武郎の文学館、有島記念館にも行った。有島武郎の出身は東京の文京区だ。何故遠い北海道の地に文学館があるのかというと、元々この地にあった農場が、有島武郎の父の所有地だったからである。だから、地名は有島となっている。だが、有島武郎は、小作人から税を搾り取る資本の仕組みが嫌で、父親の死後、この農地を無償解放してしまう。だから、この地は、有島武郎に多大な恩があり、有島武郎の文学館が建つ経緯となったのだ。
 ぼくは羊蹄山を真っ直ぐと見据えられるこの地に立つと、私小説『生れ出づる悩み』のことを思い出す。

 私はガラス窓をこずいて外面に降り積んだ雪を落としながら、吹きたまったまっ白な雪の中をこいで行く君を見送った。君の黒い姿は——やはり頭巾をかぶらないままで、頭をむき出しにして雪になぶらせた——君の黒い姿は、白い地面に腰まで埋まって、あるいは濃く、あるいは薄く、縞になって横降りに降りしきる雪の中を、ただ一人だんだん遠ざかって、とうとうかすんで見えなくなってしまった。
 そして君に取り残された事務所は、君の来る前のような単調なさびしさと降りつむ雪とに閉じこめられてしまった。

有島武郎『生れ出づる悩み』

 この小説は、有島武郎が自身を主人公として、岩内町出身の画家である木田金次郎を「君」と呼びかけながら書いた物語だ。車をかっ飛ばせば、ニセコから岩内までは、たった小一時間程で着く。 岩内の漁港を見ながら、木田金次郎にも強く思いを馳せた。

 あとは、山口県湯田温泉の中原中也記念館とか、福岡県柳川市の北原白秋生家・記念館とか、愛知県半田市の新美南吉記念館とか、大学生と社会人の八年間で、行ける限りの文学館をふらふらと回っていたら、いつの間にか、大体の都道府県を制覇していたのである。
 あと、どうしても行きたかったのは、青森県五所川原市の太宰治記念館の斜陽館とか、山口県仙崎の金子みすゞ記念館とか、愛媛県道後温泉の松山市立子規記念博物館などだった。それらが車を使わないと行きづらい場所だったので、じゃあ車持ってって、ついでに行ったことない県も全部行くか、というのが、ぼくの日本一周の動機である。だから、制覇は全部結果論だ。

 旅において、他人との交流を特に欲していなかった。むしろ孤独である方が都合良かった。ぼくが旅によって対話したかったのは、生きた人間ではなく、完成された故人だった。文豪が遺した作品と、その人間性を育んだ故郷の地をただひたすらに、鑑賞したかった。

 そういう孤独な旅が、ずっと心地良かった。ぼくの心境は、10年間ずっと、北海道のいち高校の図書室で全集を開いていた頃から変わっていなかった。地元を厭った朔太郎や、生徒を守るためなら川に飛び込んで死んでもいいと本気で思った賢治や、父に反抗して農場を解放した有島武郎——。彼らを知っていくたびに、自身の幼さと愚かさを思い知った。
 ぼくは、ずっと生きる意味を見出せなかったし、死にたかった。だから、文学に依存して、文豪の狂った生き様と死に様に惹かれた。おかげで首の皮一枚繋がった。文学は、ぼくを救わなかったが、孤独のまま生かして、日本各地へと解き放った。

 それだけだった。だから本当に、47都道府県の制覇も日本一周も、自分のためでしかない。死にたい自分が、必死に生きるためだった。
 文学館を回るのが趣味ですと言い切るには、ちょっと理由が切実すぎた。特に賢治と有島武郎に関しては、好きとか嫌いの域をとっくに超えてしまっている。もはや同志みたいなものだ。「賢治はちょっと自罰がすぎるよ」とか「心中した有島武郎は木田金次郎に一生の愛と呪いをかけやがったねえ」とか、ぼくはいくらでも彼らに語りかけるように愚痴をこぼすことができる。

 もちろん、彼らへの傲慢な語りなど、ぼくが一方的に解釈した一面に過ぎない。でも、彼らの文学館の側に佇む、岩手山や羊蹄山の姿はひどく美しかった。その山は、彼らが生きていた百年前とほとんど変わっていないのだろうし、今後しばらくも変わらないのだろう。ぼくは、彼らの愛した土地に赴き、自然を目に焼き付け続けた。そうやって、この10年間、故人と旅をしてきた。
 それがぼくの旅におけるわがままと、こだわりだった。

 だが、こうやって文学に依存して生かされてきたことをようやく自覚できたからなのか、どこかすっきりと区切りがついたような心地がしている。石川啄木記念館とか谷崎潤一郎記念館とか、まだまだ行きたい文学館はいくつかあるが、もう昔ほどの切実さはない。
 それよりも今、ゲストハウスで生きた人々と楽しく交流していることは僥倖だし、なんだか人間として正しい発達である気がしている。

 だからぼくは、ぼくのこれからの旅路に期待している。

いいなと思ったら応援しよう!