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ミシュラン獲得の日本料理の名店から独立した「赤坂 島袋」島袋洋平大将の物語

沖縄発、赤坂で輝く「赤坂 島袋」――島袋洋平大将の物語

東京・赤坂の日本料理店「赤坂 島袋」。その名を冠する島袋洋平大将は、沖縄県国頭村の自然豊かな環境で育ち、料理への情熱を胸に歩み続けてきました。今回は島袋大将のこれまでの道のりと、独立に至るまでのエピソードを伺いました。


料理の道へのきっかけは「料理の鉄人」

「島袋洋平です。沖縄県の最北端、国頭村出身です。」と笑顔で話す島袋大将。幼い頃から料理に親しみ、小学校1年生の時に観た『料理の鉄人』が大きなきっかけになったそうです。「かっこいい料理人になりたいと思い、それから料理に夢中でした。」3人兄弟の末っ子だった彼は、お母さんのそばで料理を手伝うことが日常だったと言います。

高校卒業後は福岡の料理専門学校へ進学。学生時代には幅広いジャンルの料理を学びましたが、講師として来校していた有名な日本料理人との出会いが、彼を日本料理の道へと導きました。「どうせやるなら東京で挑戦しろ、と言われて。その言葉に心を動かされました。」


乃木坂の名店での修業時代

専門学校卒業後、東京・乃木坂にあった有名な日本料理店で修業を始めた島袋大将。朝7時から深夜0時過ぎまでの厳しい労働環境の中、「部活のように楽しかった」と語ります。「魚をおろす練習を毎日繰り返し、できるようになるまで努力しました。」自ら進んで仕事を覚えようとする姿勢が、先輩たちからの信頼を得るきっかけになったそうです。

しかし、5年が経ち、環境の変化や自分の成長を考えたとき、「次のステップに進むべきだ」と感じ、転職を決意。日本料理の基礎をさらに深く学ぶため、東京・パークホテル内の「花山椒」に移ります。そこでは、「料理の本質」を学び、より一層技術を磨きましたが、「お客様の顔が見えないホテルの環境は、自分には合わなかった」と話します。


独立への決意と「赤坂 島袋」の誕生

いくつかの店舗で料理長を経験し、自由が丘では自分の色を出す楽しさを実感しましたが、コロナ禍による店舗閉鎖という困難に直面します。仕事ができない2ヶ月間は「本当に苦しかった」と振り返ります。それでもポジティブな姿勢を崩さず、再び挑戦の場を求めました。

2025年9月、「赤坂 島袋」をオープン。現在は篠原氏のもとで築いた経験を活かし、多くのお客様に支持されています。「最初のお客様のほとんどは銀座しのはら時代のお客様。感謝しかありません。」と話しつつ、「これからは自分のファンを増やしていくことが目標です。」と抱負を語ります。


ポジティブな姿勢で進むこれから

「修業時代、400個のおせちを作り上げた時は本当に達成感がありました。」と、辛い経験も前向きに振り返る島袋大将。コロナ禍で働けなかった2ヶ月間を「最も辛かった時期」としながらも、今は「自分の店を持てたことが幸せ」と笑顔で話します。

「お客様が笑顔で帰れる店を作りたい。それが料理人としての一番の喜びです。」と語る島袋大将。「赤坂 島袋」は、彼の人柄と料理への情熱を感じられる特別な場所として、多くの人々を魅了していくことでしょう。

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