仏さまと僧侶とわたし。
仏さまとは?
色もなく 形もましまさぬ
ものらしい。
その色もなく形もないものを
形にし色をつけ言葉にし
私たち俗世の人間に伝えることが僧侶である夫のお仕事。
先日、
『親鸞聖人降誕会850年立教開宗800年の記念法要』
が県内のコンサートホールで行われた。
舞台前方に阿弥陀如来、親鸞聖人の御影像、蓮如聖人の御絵像。それを讃えるお荘厳。
参詣者は門信徒、俗世の人間がおおよそ2000人。
その間には仏さまの世界と俗世の世界を繋ぐ僧侶の方々。
その構造が目に見えて分かる。
会場に満ちる読経の声、それとともに行われる儀式。
それらを通して仏さまへ感謝を伝え、
それらを通して仏さまの有り様が私たちに伝えられる。
不思議なことに仏さまの存在を否定できない。
普遍的な繋がり、連鎖からこの世に生まれた私はこれまでの地球や宇宙の成り立ちまで遡っても、何かがどこかが欠ければ生まれることはできなかった。
夫と出遇い、仏教と出遇い、世の見え方も身に起こる出来事の捉え方も変わった。
これまで“怖い”とさえ思っていた宗教に教えられる感謝の念は色濃く、おかげさまで我が生は確実に豊かになっている。
親鸞聖人の降誕、浄土真宗の開宗により
「遠く宿縁を慶べ」
その言葉が細胞に満ちた。
法要後半は、二胡奏者である姜暁艶(ジャン ショウイェン)さんの記念行事が行われた。
夫は雅楽の篳篥奏者として、ステージ上でともに奏でさせていただいた。
この演奏の共演に向けて、夫は法務や行事スタッフ業の合間をぬって篳篥の練習に時間を割いていた。
楽員との合同練習の時はことさら帰宅時間が遅かった。帰宅後は、アドレナリンが出まくっており多弁で、お風呂場からは毎夜唱歌(その旋律を歌うこと)が聞こえた。
夫は、周囲からは何でも完璧にこなすタイプに見えるらしい。
妻の私は宣言する。
違う、と。
完璧により近づけるためにむしろ脂汗をかきながら突き詰めるタイプだ。
演出の一環で色衣で出てほしいとの依頼があったようだが、彼らは黒衣での出演を貫いたようだ。
真意のほどは分からないし、あくまで私見だが、だからこそ良かった気がする。
もし色衣ならば、そこに境界線が出来、日常にある目に見えぬ仏の姿は伝わらなかったのではないかと。
ある先生のご法話での言葉が思い出される。
僧侶とて俗世の人。その方々のひたむきなただただいつもの衣体で精一杯に勤める姿があってこそ伝わってきた。
この法要で本山よりはるばる海を渡ってきたものもあるという。
どれほどの人が動き、どれほどの人が心を突き動かされたか。
96歳の祖母も足腰が痛む中参詣しました。
混雑を避けるために一足お先に会場をあとにしようとしたら、スタッフ(僧侶)さんがタクシー乗り場まで案内してくださり、祖母の脱いだ布袍を丁寧にたたんで渡してくださったそうで、大変感謝しておりました。お名前を聞かなかったことを後悔していました。
どなたか存じ上げませんが、本当にありがとうございました。
法要に携わられた方々、ありがとうございました。そして、大変お疲れ様でございました。