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ちょうど1年前に

こんにちは、寺嫁お京です。

『自分語り』
は、脳の報酬系という回路(快楽中枢)が活発になり快感を覚える、とのことで、この度皆様の興味があるなしに関わらず厚かましく『自分語り』をさせていただきたく存じます。

6月15日で看護師業を退職してから1年経ちました。
お寺の仕事に専念するためでもなく、
看護師業頑張ったから勇退でもなく、
昨年の1月に育児休暇明けから職場復帰して
3ヶ月間で急激に心のバランスを崩し、あれよあれよという間に2ヶ月間の休職後、退職したことが経緯です。
1年経った今健康的な心を取り戻し、振り返ってみようと思ったのでお付き合いいただけると私が快感を覚えます。

休職のきっかけ

休職のきっかけは、同じ職場の医師による“無視”という嫌がらせだった。
その医師は、私が育休の間に非常勤できた医師だった。その医師が私を標的に無視を始めた理由が分からず
「もしかしたら私が何かしたのかもしれない…」
との思いから、自分なりに探って改善しようと試みてはみたものの不毛な行為。
無視という行為は、周りの看護師たちも巻き込み(当人たちは自覚してはいない様子)、私を避けての業務や談話などが目の前で繰り広げられた。
このことは誰にも言えず

「気にすることない」
「お給料さえもらえればそれでいい」
「患者さんに集中しなきゃ」
「子どものためにも行かなきゃ」


と、暗示をかけ耐えようとしていたが、それとは裏腹に心の傷は深まり、健康な心はどんどんすり減っていた。

外に出たくなくなり仕事から家に帰ると涙が止まらず、可愛い盛りの娘が私のそばで可愛さ全開なのにも関わらず、声が耳に入らない。
私だけが入れる密閉防音完備された私サイズのドームの中にいるようだった。そのドームの中で、ひとり不甲斐ない自分を責め続けた。

突然泣き出す私を見兼ねた夫から「何があったか話して」の言葉に、うまく構文出来ずに伝えたあれやこれやを夫は全面受容してくれた。
「休んでいいんだよ」
という一言で“休む”という選択肢があることにとてつもなく安堵した。
それから看護師もお寺の仕事もお休みすることになった。

心療内科の先生との出会い

「どうせ行っても同じことだ…。」と思いながらも休職するには診断書が必要であるため、鉛のように重くなった気持ちと身体で心療内科を予約し通院開始。
会って話したこともないのにちょっとでも先生を疑った自分にグーパンしたほど、私はとても良い先生に巡り会えた。

歳のころ50歳代だろうと思われる女性医師。
背が高く大らかな動き、自然なグレーのショートヘアで美しく整髪されている。
ことの流れを伝えている間、先生は時折ノートに書きとめること以外は、私を見てくれ、まとまりのない話にずっと「うんうん、うんうん」と頷き、悲しい顔をしてくれ、「うんうん、キツかったね」と言葉をかけてくれた。
私の所属していた病院が精神科であり、無視を仕切っていた医師が精神科の医師だと知ると

「なんてことを…。
その先生は、クソち◯ち◯野郎ね。先生と呼べないわ。クソち◯ち◯野郎よ。」

と真顔で言ってくれたことには、いささか拍子抜けした。
当時はクスリとも笑える状態になかったが、今なら間違いなく吹き出してた名言をぶっ放してくれた先生に、張りに張っていた肩を“大丈夫だよ”と撫でられた気がした。

診察では私が生まれ育ってきた家族構成や私から見た家族それぞれの性格、これまでの人生遍歴から、私の中に潜む思考の癖を探ってくれた。

産後や色々なタイミングが重なり、嫌がらせをきっかけにバランスを崩していた心。
一つひとつの悲しい出来事はあくまできっかけであり、週5看護師、週2お寺、帰宅後家事洗濯子育てというオーバーワークによりストレス耐性が低下し、社会生活を送る上でのベースがグラグラになっていた。
誰かに相談するなり辞めるなり時短勤務にするなりパートにするなりクソち◯ち◯野郎と言って適当にあしらうなり、それを解決する術を持っていたはずの自分の力が発動できない状態になっていた。その上に、クソち◯ち◯野郎の行動を真に受け振り回される思考になっていたことが因だったのだ。

しかし、その思考も私自身が作ったものではなく、生活環境や親子関係の中で形成されたものでで、代々受け継がれてしまっているだけで誰のせいでもない、誰も悪くない、というものだった。

先生は、しきりに
「あなたが主役の人生よ」
「人生は色々あるけど、素晴らしいのよ。って姿を娘さんにも伝えましょう」
「自分で解決できる力を持ってる。それが戻るまでお手伝いするから」
と私に伝えた。

もちろん先生の言葉の意味は健康を取り戻してから理解し始めるのだが、それに気づいてからは「この選択は自分のため?」「期待に応えようとしてない?」「楽しめてる?」と問いかけるようになった。

夫と娘の全力サポート

本質を伝えてくれた良い先生との巡り合いもあったが、私が健康を取り戻せたのは、他でもない毎日一緒にいてくれた夫と娘のおかげだ。
夫に心のうちを打ち明けた時に少しでも私を責めるような言葉、私が責められたと感じる言葉があれば私は更にドームごと底に沈んだだろう。
夫は常に「どんな?大丈夫?」と心配してくれた。

夫は祖母と夫の両親にも状況を伝え、全ての連絡は夫を通して行われ、私が外からの刺激に触れないように取り計らってくれた。
娘が風邪を引いて保育園に行けない時は、月参りが終わればお寺で娘を見ながら仕事してくれた。家事洗濯も可能な限りしてくれた。とにかく、あの手この手で私が休める環境を作ってくれた。

その頃は易刺激性の状態だったため、ニュースを見ないようにしていたのだが、緊急速報が流れる度に
「京ちゃん大丈夫?!」
と夫から心配の電話があっていた。
結果、遮断していた情報を夫から聞かされるわけだが、それ以上に夫のその気持ちが温かくひとりじゃないと思えた。
娘は当時1歳半。母を求めてやまない時期に、当の母はドームに引きこもっている。1歳半の立派な人が何も感じないわけがない。
でも、安心してママと言わんばかりにじぃじばぁばの家や夫と保育園の先生にお友達と目いっぱい遊んでくれていた。それは彼女が家に帰ってきた時の笑顔から読みとれた。その笑顔から、彼女に関わってくれた大人たちの配慮も感じ得ることができた。

私は、家族という安全基地を与えられていた。

それから優先順位を考え、退職を決めた。

いつ終わるか分からない私の療養生活は、半年ほどで快方に向かっていった。

半年後

「お寺の仕事なら戻れるかもしれない…。あ、でも無理だったらすぐに休むよ。」と夫に話し
慣れた御門徒さんが来られる日を選んでお寺の仕事には復帰した。久しぶりに行ったお寺は清々しかった。
義理の祖母に
長い時間お休みをいただいたことのお詫びとお礼を伝えると
「あなたが戻ってきてくれて良かったわ」と声をかけてもらった。
義理の両親は「無理しないでね。私たちに出来ることがあったら言ってね。」と言ってくれた。

寺嫁お京の名でnoteを始めた

看護師は変わりがいる。
けれども、若坊守は変わりがいない。
だからお寺の生活で同じことを繰り返したくなかった。

「あなたが主役の人生よ」という言葉に
立ち返るなら、若坊守という立場を自分の責任でやっているのかどうかだった。
結婚してからの数年、看護師をメインで行いお寺のことにきちんと向き合ったのかを自問した。
答えはNO。
夫の職業のお手伝いという感覚で、自ら納得してしていたかと言われるとしていなかった。
変わりのいない立場を世代交代までやっていくには自ら楽しみ責任もって関わること。

そのためにはどうしたらいいか。

若坊守がやっていることを言語化し明確化するため“寺嫁お京”の名でnoteを始めた。(半分、承認欲求のためだがw)
noteを書いていると一度失った社会性を取り戻した気がして焦燥感が和らいだ。
なぜ?や知りたいことが浮き彫りになってきた。
他のお寺さんはどうしてるのかしらと、
同じくらいの坊守さんの繋がりが欲しくなってきた。
「お寺マダム」という同じ宗派の若坊守さんが運営しているオンラインサロンを見つけた。
勇気をだして入会すると同じような境遇の若手の坊守さんがいて分かち合えた。オープンマインドで話してくれる若坊守さんたちに励まされた。
スルスルと前向きな思考が戻ってきた。
自分の人生に坊守という立場を与えられた。
こんな分かりやすい立場他にないのではないか。
それから同じ名でインスタを始めた。
お茶道も始めた。さらに地元での坊守さんの繋がりが脈々とできてきた。
これまでは右耳から左耳に抜けていた夫の仏教の話も自ら聞くようになった。

仏教の教えを知るようになると、嫌がらせを受けたことも心のバランスを崩したことも今の私になるための縁だったと思えるようになってきた。

それから

当時の嫌がらせは思い出すとやはり辛かった気持ちが蘇ってしまう。けれど、それに執われることはなくなった。それと一緒に夫と娘の温かさを思い出し、辛い思い出も何ならクソち◯ち◯野郎でさえも包容してくれるのだ。

それが今の私の大きな支えとなっている。

私は確実に生かされてます。
縁があり家族、色んな人から力を貰えました。

生かされている時間、生かされている場所で
今はボンヤリとではあるけれど、同じ時を生きている人にお寺でホッと出来る時間を過ごしてほしく、家庭でも学校でも会社でも習い事でもない第三の居場所づくりができたらと思っています。
夫と娘からもらった“ひとりじゃない”時間を苦しみの中にいる誰かとともに。


最後までお読みくださり、ありがとうございます。

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