スタートダッシュ
今年1年の始まり、私達は何をするのが、正しいだろうか?今年は異例な年ということもあり、寝正月という風に正月の過ごし方を開拓することはよくあるのではないではないだろうか?私は毎年父親の実家に帰宅することで去年1年の振り返りや何をやってきたなどを話してすぐに地元に帰り、友達と遊ぶというものが、私の正月の過ごし方であった。それ以降は自由であり、何もする事がないと嘆き、ダラダラと一年の最初を過ごす事がこれからのエネルギーを貯める上で大切だと言わんばかりに、だらだらと過ごすのが私の中の正月であったのかも知れない。しかし、今年の正月は寝正月を過ごす人が、増加するのではないかという予想が立つほどのことがある。コロナウイルスである。私はそれほど気にかけるものではなく、気にしていることがコロナウイルスにかかっているという事ではないかという捉え方をしているのであるが、世間はまるで違く、どれだけ、人とのコミュニケーションを無くして歩き出せるかどうかが大切であり、それがコロナにならないようになる最善策という捉え方をほとんどの人はしているだろう。その為、私のような人が声を上げたところで袋のネズミになりかねないくらいの状態なのである。今、コロナウイルスが増加しているという風に疑問視して、恐怖に怯えている人がいるかも知れないが、当たり前の毎年起きているインフルエンザが今は流行のコロナウイルスに移り変わりを見せているに過ぎないのである。
世間は、その為に寝正月になる人が多いはずである。その為の過ごし方が、以前の私の正月の過ごし方よりも酷くなる可能性を秘めているのである。人と合わないということに耐えられる人間がどれだけいるだろうか?私は、人が嫌いだった。理由は、人とコミュニケーションをとることで人の嫌な部分を知ること感じることができてしまい、人の本質を受け取ってしまう為、私は人と会うという行為が、私の中のストレス以外何者でもなかったのである。その頃の私は、引きこもる事をしただろうか?しなかったのである。ストレスを抱える一方、人との会話の中で訪れるハーモニーに1人憧れていたのである。結果的に今は人と関わる仕事をいていてストレスというものを抱えたことはないのである。どんなに、家での暮らしを楽しむ人でも大切な人の存在は必要不可欠であり、生きる為に必要な要素なのである。その為に、人は人との会話を好む。自粛期間中、人に会うことができずにもどかしく、どうにかなってしまいそうという経験をしなかっただろうか?私は仕事上で人と会っていた為、そのように思うことはなかったが、ZOOMなどが一時期流行を見せたのはそれがきっかけのはずである。しかし、同時に沈みを見せたのも気づいたはずである。何でこんなにもスマホ一台で会議を成立することが可能なのに会うことが最善であるという風な結論を私達は見せたのであろうか?答えは、一つである。人は人との間の中に生まれる本物の感性を求めているのである。私は、コロナということに恐怖を覚えることはないが、人がもたらす、不協和音には恐怖を覚えずにはいれない。その音はどんな時に聴こえるのあろうか朝の電車内の中に聞こえる音である。朝はギリギリに出社してここしかないというタイミングで私達は電車という便利ツールを使うその為、負の連鎖が巻き起こる集団に飲み込まれてしまうのである。それを毎日聞いていると、どのようなことが起きるのだろうか?不協和音に共鳴するのである。負の連鎖は人と触れ合うだけで感じてしまう。満員電車という4文字で簡単に納めてしまっているが、集団の負の感情が振りまき電線してしまうのが、この満員電車の怖いところである。この満員電車の恐怖に気づくことができるのであれば、対処法はいくらでも私達の中で思いつき、実行に移すことができるはずなのである私達はそれだけの頭の中の脳味噌と知識があるのだから。
私達は、ZOOMの活用よりも、人と会うことが重要であり、それがストレスを抱えない最善策であることに気がついているはずである。その為、旅行を少しすることでストレスを緩和したりする事を正月に考えていた人も少なくないはずである。しかし、今はそれをやってはいけないという風に世間がなっているのは私達が一番わかっているはずである。
正月私は、朝初めてカフェという場所で過ごしている。父親の実家に帰るという行為が、私の中の父親に拷問を受けているような感覚であった為、父親から「今年は来なくていいってよ」という声を聞いたときは、叫びたいくらい喜びたいという気持ちだった事を今になって思い出す。そのように、考えることができるのだから、私にとって本当に悲劇の1年の始まりという位置づけになるのであろうか?私は、父親の実家に帰りたくなかったのである。しかし、このように思う人は今年の初めに多くいるのではないだろうか?なぜか知らないけど、気づいた時には、居心地の悪いところに腰を下ろして今年の始まりという風に位置付ける。しかし、始まりが悪いというイメージのところで行われることで私達は何を目的に進んでいけば良いと思われるだろうか?そのように考えると、私の中では今年ほど自由な新年を迎えることができ、より良いものへと変動と遂げることができるかも知れないと思われる年はないかも知れない。悪いイメージの場所にいくことがないのだから。しかし、反対に、悪いイメージを自ら作り上げることもできてしまう。それが、正月のダラダラ過ごしである。どうしても、年のスタートをカメのようにのんびり過ごし、栄養を蓄える人が多くいるイメージが私の中にあるが、私はそれが今年の私であるという主張をしているようにしか見えないのである。私は、年越しを飲食店のアルバイトのお店で過ごした経験がある。その時は、「お金貰えるし、何にもやる事ないからいいか!」くらいに考えていたがよくはなかったという風に思うのであった。そのお店を将来のビジョンという位置づけでやっていたのであれば、肯定はできるがそんなことはなかった。店長の押し切りに、負けたにすぎないのである。
私達は、新年をどのように過ごすことが、正解なのだろうか?今までやってきた事をそのまま出す事なのかも知れない。それしか、私達には残された産物がないのだから。もし、私にお金というものがあるのであれば、海外に飛び立ち新しい文化を触れる新年を迎える事だってできたかも知れない。しかし、そのようなことは、叶うことはない。なぜなら、お金というギフトを持ち合わせていないのだから。持っていない産物を出そうとしても出てくることはないのだ。ならば、私は何もできない人になり変わってしまうのであろうか?そんなことは、ないはずである。私は、仕事でやりたい事をお見つけることが叶い、今歩き出す準備段階までこじつけることができ、これからのスタートはいくらでもできるぐらいのものを去年手に入れた。もし、そのようなものをもらっていないという風に思ったとしても、これからやりたい事を初めにやることができたら、去年やってきたことが変身を遂げてあの時の行動があったからという風に思うかも知れない。そのように思うと、スタートがどれぐらい大切なのかが見えてきたはずである。私は、学生時代から本というものは私との相性が最悪であるという位置づけをしていて、心の棚に追いやっていた。しかし、いろんな人から私は本を読んだらすごくなるという風に私の背中を押し続けてもらった。そして、私は、去年本というものにようやく手を自ら出すことができたのである。本を手にして読んでみると、自分の中で合う分野もあれば、合わない分野もある。興味を引くものは、私の中に物語を降り注ぎ、心の中の棚を開けてくれる存在がそこにはあったのである。私の中の本のイメージが移り変わり、私に言葉のチョイスを爆発的に高める瞬間がそこにはあったのである。
私が去年蓄えたことは、たくさんあるが、それは去年だけではなく、生きてきた瞬間にの出来事から始まっているビジョンだったのである。私の去年はそのことがおもむろになっていたが、それが見えないことだってあったはずである。私は、人からのアウトプットによって自分というものを見つけているのである。そして、それを純粋に受け入れながら自らの道を探しているにすぐないのである。貴方は、人からこう思うという自分のイメージを消しゴムで消してはいないだろうか?私は、真面目とか静かとかが主流である為、その言葉を消しゴムで消したくなる。また、悪いイメージや批判を受けると、相手を批判することだってあったかも知れないが、それ自体を受け入れて、自分の中に取り組み、だったらどのようにすれば、という考えをすることで自分の中のイメージと相手の中のイメージのマッチができるのである。
新年の始まりを正月という文化を断ち切るように過ごしたのは、今年が初めてかも知れない。私は、テレビ番組を見ることもない為、いつもの日常に少し賑わいを見せている街とスマホだけなのかも知れない。しかし、もしそれが1番正しいというされる行動であるのであれば、私は正月の認識を日常の毎日という位置づけに戻す必要があるかも知れない。私は、新年をダラダラ過ごして1年の最初を最高な滑り出しをするより、通常運転から最高の状態に持っていき、何か大切な印を手に入れる事を望んでいる。その為には、今この瞬間を毎日の日常とは違う雰囲気を飾り押して、最後の冬を迎えた時、私は何という男なのだという自画自賛瞬間を夢見るそんな瞬間があるのであれば、私は苦労したいと思う。