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かっこ悪いことを堂々と

私はかなりの「ええかっこしい」だ。
「人に一目を置かれたい」という欲求が
心の奥底にあるのかもしれない。

私が小学生のとき、一番嫌いだったのが勉強だ。
嫌いというより、勉強をする意味がわからなかった。

宿題のプリントやドリルをやったことがなかったし、
国語の本読みカードは自分でハンコを押して提出していた。

毎日のように「宿題を忘れました」と担任に伝えていたが、
今思うと、毎日忘れるということは、うっかり忘れるレベルではない。
単にやる気がないだけだ。

勉強をするより、外でドッジボールをしたり、
鬼ごっこをしたり、秘密基地で遊んだりすることに
没頭していたので、テストの点数はいつも一桁だった。

あまりにも酷かったからか、
母親が泣きながら算数のテキストを持ってきて、
勉強させようとしたけれど、
私はやる気がないのでうまくいかなかった。

中学生になり、最初の定期テストで
一桁の点数の解答用紙を受け取ったとき、
自分はものすごく「かっこ悪い」ことに気づいた。
思春期の芽生えだろうか、
女子にモテたい気持ちがあったのだ。

それから私は猛勉強をした。
まず分数の割り算など小学校で習う算数が分からないので、
そこからやり直す必要があった。

そこで公文式に入り、
中学生なのに足し算のプリントから始めた。

周りの小学生に自分がやっているプリントを見られたくなくて、
いつも教室にいくのが苦痛だった。
大変苦労したが、中学二年生の頃には、
定期テストで100点を取ることができるようになり、
クラスでもトップクラスの成績になれた。

私にとって「ええかっこしい」は動機になりやすい。
親の涙よりええかっこしいが勝ってしまうようだ。

やる気になれば、何時間でも没頭できるので、
それなりにできるようになれる。

しかし、良い成績を取ったり、
社会人になって評価されたりしだすと、
達成感や優越感は得られるが、
それを継続しなくてはいけない気がして、
いつの間にか頑張ることが目的になってしまう。

それにええかっこしたいから頑張るということは、
自分が本当にやりたいことではないことが多い。

ええかっこしいをやめて、
かっこ悪いことを堂々と言おうと、
この記事を書いて妻に感想を聞いてみたら、
「『かっこ悪いことを堂々と言う』っていうのも、
ええかっこしいだよね」と言われた。

「ええかっこしい」は、まだまだやめられそうにない。

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