ホッケー嫌いだった私がホッケーを好きになるまで VOL.1
ご無沙汰しております。
一部の寺尾noteマニアの方々には更新もなく大変退屈な日々を送らせてしまっていたかと存じます(笑)
大変申し訳ございません。
さて、シーズンもオフに入り、私の生き様を綴れる合間も出来始めてきましたので、駒澤高校2年生編に入ろうか考えましたが、その前にアイスホッケーが大嫌いだった私が36年経過した今、アイスホッケーベースでnoteを書いたりとしている変貌の理由とターニングポイントについて書きたいと思います。
なお、度合いをわかりやすく表現するため★の数で時期ごとに評価しております。(例)☆☆☆★★ 2/5段階
出生~幼児期
私は王子製紙アイスホッケー部(以下、OJI)の背番号23番を背負うDFの父、寺尾清隆から生まれました。
当時の一部選手の中で流行っていたのが「渓流釣り」だったようです。
うちの父も例外ではなくアイスホッケーより渓流釣りに本気だったんじゃないかと思うほど渓流釣りが好きでした。(釣りマガジン的な本にも載った事があります笑)
父が渓流釣りに行く時には私達家族も同行したり「ミーシャ」と呼ばれる方とその家族も一緒にキャンプをしたものです。
その「ミーシャ」という方、その方、実は王子の背番号18番
菊池 厳弘さん
現在は八戸でキクチ商会の代表取締役をされております。
http://lotas-kikuchi.co.jp/index.html
そしてこの方の息子が
元OJI⇒元フリーブレイズの菊池恭平です。
この世に生まれてきた時から彼とは親の関係があってお友達、恭平ほど付き合いの長いお友達はいません。
これがその頃の写真。(左:恭平 右:私)
見事に父親が渓流釣りを楽しみ我々が連れてこられているような写真ですが、このように様々な山(川)に連れていかれました。
この時はアイスホッケーというものに一切興味が無く、見に行きたいという意欲がまるでない時期。
ですが、父が試合の時には
OJIのセーターを着せられ、わけもわからずただただ試合に連れていかれていました。
当時は王子製紙の社宅に住んでいたのですが、冬になると社宅間の広場に外リンクがありました。
無理矢理スケートを履かされ、外リンクでスケートをさせられていましたが足が痛くて泣いてばかりいたイメージしかありません。笑
3つ下の弟は靴ズレして足が血だらけになろうとも、帰ろうともせず、がむしゃらにスケートを楽しんでいたのを見て、「あいつバカなんじゃないか…」と思ってたのが記憶にあります。
両親もこの時、「幸也にはアイスホッケーが向いてないかもな…」と思ったそうです。
ホッケー好き度 ☆☆☆☆☆ 0/5段階
[ホッケーなんてやらない]
東小学校入学~転校
東小学校に入学しました。
幼児期から小学校2年生にかけて王子の社宅繋がりでお友達や遊んでくれるお兄ちゃんができました。
少しアイスホッケーから話がズレますが、私の人生で一番ヤンキーだった(尖ってた・イカれてた)時期がこの東小学校時代の1~2年生でした。
ある日は仲の良い友達が5年生の〇田くんにイジメられて、友達全員を呼んで家の周囲を包囲させ、金属バット片手に一人で堂々と玄関のチャイムを鳴らし、〇田くんいますかぁ~?と出てきた母親に問いました。多分あの時、先方の母親が危険を察知して〇田くんを出さなければ…
ある日は、キッカケを覚えてませんが一個上(3年生)の先輩方数名と毎日昼休みになると毎日、体育館でガチの殴り合い。
複数人に囲まれながら一人で倒していくのが快感でした。
(完全に頭イカれてました…)
この頃に学校でスケート授業が始まり、同級生の若狭(彼もOJI選手の息子)に相手にされないほど目の前をスラッスラと滑られましたが、そもそも興味のないアイスホッケー、悔しいとも思うレベルでなく、僕はサッカー選手になる!と意気込んでいた時代でもあります。
美園小学校入学~入部まで
しかし小学校3年生になり、とうとうここでアイスホッケーとの関わりが出始めます。王子製紙の社宅を出て、寺尾家の実家へ引っ越す事となり美園小学校に転校しました。
また新しい学校、友達作りからのスタートです。
私には東小の時のようなやんちゃな自分をいきなり全面的に出すほど度胸はありませんでした。
すごく不安な転校でした。
しかし、ここが最初のターニングポイントとなりました。
そんな時、実家の前に住む蔦森(彼はKOKUDO選手(ツタスポ)の息子)が親の繋がりもあって美園小第一号のお友達に。
その後も学校で徐々にお友達ができましたが、家が目の前という事もあり放課後に遊んだりと転校生の私にとって蔦森は大事な友達でした。
蔦森は東小にいた若狭と同じくアイスホッケーを幼いころからやっており、放課後で遊ぶと言ってもインドア、ゲーム大好きな私とは正反対。
陸上ホッケーをするのが放課後の遊びでした。
優しい蔦森はスティックの持ち方、パックの扱い方、打ち方を私に教えてくれました。
あの痛くて忌々しいスケートを履かずに陸でホッケーをすることが日を追うことに楽しくなっていきます。軽量のオレンジパックでシュートを上げる練習に付き合ってくれたり、やっと上がった時は一緒に喜んでくれたりと、友達とやるホッケーが自分にとってドンドン楽しさとなって跳ね返ってきます。
その楽しさから今度は蔦森のような円盤状のキレイで早いシュートが打ってみたいという[向上心]が自然と生まれました。
その時期にタイミングを見計らったかの如く、蔦森のお母さんに「寺ちゃんは寺尾清隆のサラブレッドなんだからホッケーやった方がいいよ!」と勧められ、すっかり陸上ホッケー=アイスホッケーの意識で、あの足が痛いスケートを履きながらするスポーツであることを忘れたまま、まんまと入部する事となります。
ホッケー好き度 ☆☆★★★ 3/5段階
[ホッケーやってみたい]
入部~小学校4年生まで
まだ氷上練習が始まる手前の時期、前述の通り4月に転校してきてホッケーに興味が沸くまでの期間が私にはあり、他の同期とは入部のタイミングに差がありました。
確か8月頃かなぁ…と思います。
期待を胸に一番最初は陸トレから。
「よろしくお願いします!」の挨拶から軽くウォームアップを兼ねて外周を半周程度行いました。
幼稚園の時はマラソンでトップ集団だった私も、小学校3年生で、すっかりおっさんのような体型。少し遅れをとって、芝生に集合します。
馬飛びやるぞ!
先生の指示に従い並び、馬飛びを始めます。
さぁ、いよいよ自分が飛ぶ番です。
我ながら軽快に1つ目の馬(かがんでる人間)を飛び越えました。
この馬飛びのように俺はアイスホッケー界を飛翔して有名に…!!
と、自分の将来に夢描き、身も心も空高く舞い上がった直後、
《グキッ》
見事に一発目で着地の際に足首を捻挫。
泣きながら帰宅しました。
その後痛みが治まるまでホッケー部は休部。
なんやかんやで全然1年目に陸トレはしないまま氷上練習期間に入ります。
すっかりスケートの痛みなんざ忘れている私。
まずは父のOJIパワーで防具を全部揃えてもらいました。
スケートは当時の鈴木宣夫さんと一緒のdaoust 501です。
これで俺もOJIの選手!そう思っていました。
しかし現実は厳しく残酷。
幼児期、散々スケートが痛いからと嫌がって乗らなかった私がトップ集団はおろか、中盤にすらにも入るわけなく、同級生の女の子と常にビリ争いで負けて最後方でサークルスケーティングをする日々。
そして何より、
やっぱり足が痛い・・・(ノД`)泣
こうして燃え上がろうとしていた私のアイスホッケー愛は一気に砕かれる事となります。
試合にもまともに出られない、というかスケートもままならない状態で、まともにホッケーなんてできるレベルじゃない。
父もこの時は一切、私を怒る事はしませんでした。
ただ、母親は毎回練習が終わるたびに
「今日は何回パックに触れられた?」
と今思うと超低レベルな質問を車の中でしてきました。
私は自慢げに「〇回!」と答え「お、昨日より増えたね!すごいねぇ!」と褒められるのが何より嬉しかった、そのためにやっていたような時期でした。身の丈に合った目標から一緒にスタートしてくれた母親には感謝しています。
しかし、そんな本来のホッケー楽しさではない楽しさでの時間稼ぎのような時期も無駄にはなりませんでした。
ホッケー好き度 ☆☆☆☆★ 1/5段階
[なんでホッケーやってるんだっけ?]
小学校4年生~6年生まで
ここで第2のターニングポイントが訪れます。
ほぼ未経験の同級生の男の子が小学校4年生頃に入部してきました。
彼の名は安藤 肇
まだ氷上でストップもできないレベルでした。
私はこの頃にはストップができ、そんな彼にストップを教えてあげることにしました。一生懸命見本を見せて、惜しい!~できた!!と喜びを共有することが楽しかった。
その後は更に彼と親密になり、一緒に毎日ハイランドの外リンクでスケートの練習をしました。同じレベルだからこそ楽しいし、youtubeやインターネットが無い時代ですので一緒にスケーティングの仕方に悩みましたし、一緒に編み出して成功し喜び合えました。
楽しかった記憶はいまだに鮮明に覚えてます。小学校4~5年生の二人が編み出し名付けた二人のコンビネーション名、その名も
技名:ハイパークロスバージョン
(ただクロスしてパス交換して攻める形)
ちなみにハイパークロスバージョンの歌うバージョンというのもあります。こちらは歌いながらクロスして相手を笑わして隙を作るという天下無双の画期的なホッケースタイルを編み出しました。
ただ、こうやって外リンク自由に遊んでホッケーする時間が楽しかった。
左が安藤くん、真ん中が私、右の永澤くんも途中からGK始めた下手くそ仲間です。
ホッケー好き度 ☆★★★★ 4/5段階
[お友達とのホッケーが楽しい]
小学校6年生~卒業まで
こうしたホッケー欲で日常の運動量が増え、小学校低学年からオッサン体型だった私も小学校6年生になる頃にはいつの間にかすっかりスポーツマンぽい体型となりました。
私と肇は小学校6年生からやっとまともに試合に出ることができ、出っ放しのDFに。
みるみるホッケーが上達し、苫小牧選抜なんかにも選ばれホッケーの上手さにこだわるようになります。
そして、この頃から父親が鬼指導者へと変化します。笑
同じDF、同じハンド、同じ体型
父は誰よりも厳しく私を指導しました。
小学校の外部コーチとしてリンクには乗っていましたが私が試合に出るようになってからは、一層厳しくなり氷の上はもちろんのこと、帰りの車の中、家に着いてから、ホッケーをするという事=怒られるというイメージができあがりビクビクしながらホッケーをするようになりました。
(どんな厳しい指導をされてたかは割愛します。笑)
同時に最高潮だったホッケー愛も、この時の父親のスパルタ具合に一気に落ち込み始めます。
ホッケー好き度 ☆☆☆★★ 2/5段階
[ホッケーは楽しいが親父が怖い]
長いホッケーキャリアを1記事にまとめると大変長い記事になってしまうのでVOL.1はここまでとします。
続きはVOL.2にて。
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