教育の世界に共感表現を増やすことで、社会全体に感謝の表現総量を増やそう。
批判は量が問題ではないか
けんすうのこのnote記事は、常に意識の中にあります。
とあるメディアで、誰かや何かといった対象に対し、激しく批判する記事を拝見しました。そしてこんなことを思いました。
私自身は、愚痴は好きではないので、愚痴はほとんど吐きませんが、「愚痴そのものが存在する」ことについては「まあたまにはいいんじゃない!?」と思っています。
また、批判は好きではないですが、議論や個人的なやりとりにおいて、誰かや何かを批判することはありますし、「批判そのものが存在する」ことについては全く否定的ではありません。
批判的表現が誰かや何かを動かし、社会をよくする方向に導くこともありますから。
一方で、愚痴ばかり吐く人とは激しく距離をおきます。
批判ばかりの人とは基本的には距離をおきます。
「批判も大事」と自己正当化し、他の問題解決方法になんらコミットせず、批判ばかりの表現が目につく人とは激しく距離をおきます。
まさにけんすうのnoteにある、この姿勢がとても大事だと思うんです。
悪いことをしているけど、誰も指摘していない、、という場合には、自分がそれは違いますよ、といったりします。しかし、100人に批判されている場合には特にいいません。むしろケア側に回ります。
その人のため・社会のための最大公約数をとって対応を変えるというイメージです。
教育の世界に共感表現を増やしたい
自分のいる教育の領域。
私が普段お付き合いしている、教育の領域でお仕事されている方は、本当に素敵な方ばかりです。
そんな皆さんからは、こと教師については、「ほぼすべての教師は、まじめで献身的。」という言葉を伺いますし、実際きっとそうなんだろうとは思います。
一方で、この言葉を借りて恐縮ですが、まじめで献身的であることと、共感を表現することとは別だと思います。
そして、これまでの自分の過去の経験、触れ合った教育領域の皆さん、教育領域の方々が教育に関することについて語った世の中の様々な「表現されたもの」を見る限りにおいて、教育領域の中(とでもいいますか)で表出する表現には、共感表現より批判表現の方が多い気がしてならないのです。
※上記で「とあるメディアで、誰かや何かといった対象に対し、激しく批判する記事」も、教育領域の方の表現であり、対象もまた、教育領域に関するものでした。残念ながら。。。
個人的には、教育領域の皆さんが「指導」という言葉に触れる頻度が高く、その言葉からくる解釈と、その解釈に基づく言動が、「共感を表現すること」を遠ざけている部分がある気がしています(「指導する行為」そのものに否定的なわけではありません。念の為)。
指導という名の下、指摘的な表現が多くなり、結果的に、共感する表現が少なくなる現象があるのではないかと。
そして、共感を表現する技術も磨かれていかない世界があるのではないかと。。。
教育の世界に共感表現を増やすこと。
そして、そういう表現に触れ続けた子供・若者が社会に出た時に、日常、誰かに、何かに助けられている、という感性を身につけ、直接的に支援されたときには「ありがとう」と口にスッと表現できるようになっていること。
そんな皆さんで社会が作られていくこと。
すごく大事なことだと思うんです。これ。
なんでもかんでも褒めるのがいい、といいたいわけではありません。
良いと思ったこと、すごいと思ったことに、「いいね!」「すごいね!」と言葉にすることがいいと思うのです。
そしてこのためには、「良い」「すごい」と思う感性と、感じたときに表現する技術を磨く必要があります。
私自身を含め、教育領域の業務に従事している方には、この感性と技術、とても大切だと思っています。
結果として、感謝表現の総量が増えた社会創りにつながり、それはやや逆説的ですが、愚痴や批判の存在を受容できる個と、個からなる社会にもつながると思うのです。
#教師のバトンに「いま」思うこと
上記までで今回のnoteで書きたかったことのほとんどは書き尽くしていますので、あくまで雑談的に、そしてひとつの例として、教育領域で話題になっている #教師のバトン について最近感じていることを。。。
#教師のバトン についての活動が、1年少し前の3月末に文科省HPにて発表された際、瞬く間に多くの愚痴や批判で溢れかえりました。
私はそれらを相当数拝見し、1つ1つの愚痴については「うん、そういう気持ちになるの、わかる。。。」と感じることが多かったですし、問題を解決するときに批判が集中しないと変わらない問題もありますので、批判が集中した現象そのものについてはなんら否定的に感じていません。
※肯定的、というわけでもないです。「そういう現象が起きた」ことを見て、感じて、捉えて、教育に関わっている自分に何ができるか、何をすべきか、と考えて、自分にできる問題解決を実行するのみです。
一方で、「いま」のtwitterの「#教師のバトン」を、折に触れて見る限りにおいて、tweet総量が激減している影響もあり、同じような批判が繰り返されているように見えることで、教師ではない方に対し「教師という職」を徒に毀損する影響の方が大きいと感じます。
これは決して好ましいこととは思いません。
先の5月17日にこのような記事が公開されました。
記事から引用します。
「もの言わぬ教師」がSNSを通じて、やっと絞り出しはじめた声。その声の高まりである「#教師のバトン」を一過性のものとして終えるのではなく、声を出し、受け止め、また新たな声を出す循環に繋げ、ネガティブな声だけでなくポジティブな声をも拾い上げる場に発展させていく必要がある。「言いっぱなし」と誤認されぬよう、“しっかり”受け止めた結果としてさまざまな政策が日々改善に向かっており、声と政策が対応関係にあることを、継続して分かりやすく伝える仕組みが必要ではないだろうか。
#教師のバトン が、上記のような仕組み化までには至っていない現実はあると思います。
だからといって、愚痴や批判を繰り返し、愚痴や批判ばかりで埋めつくすタグでずっとあり続けることや、愚痴や批判を繰り返すことそのものが本当に問題解決につながるのかということとは別問題だと思います。
学校現場のしんどい現実は、#教師のバトン を通じて、相当程度世間に広まったと私は感じています。
もちろんまだまだ知らない方もたくさんいるかもしれません。
しかし、知らない方に伝える方法としてtwitter上で#教師のバトンを使っても、恐らくはもう大きな効果はなく、逆に「愚痴や批判ばかりしている」という印象が与える、「教師という職」へのマイナスの方が大きくなると思います。
上記のけんすうのnoteでは「社会のための最大公約数」という言葉があります。
広義でも狭義でも、社会が変化する以上、「社会のため」の言動の総体における様々な濃淡は変化すると思います。
こと、#教師のバトン における表現は、上記MUFJの記事にある通り、「声を出し、受け止め、また新たな声を出す循環に繋げ、ネガティブな声だけでなくポジティブな声をも拾い上げる場に発展させていく」ことが、次につなげるために大切だと、私は思っています。
そして#教師のバトンはタグである以上、このタグで創る社会は、表現して参加する皆さんです。
私も#教師のバトン タグをつけて発信することもありますが、常に「新たな声を出す循環に繋げ、ネガティブな声だけでなくポジティブな声をも拾い上げる場に発展させていく」ことを意識して表現したいと思っています。