ファシリテーターって、何する人? -勝手で壮大な考察-
個人的に、これは長年答えがよくわからない問いです。
巷には、「私、ファシリテーターです」という人の数だけファシリテーター/ファシリテーションの定義があるという印象があります。
会議を進行する人?
恊働を促進する人?
ものごとを容易にする人?
場をデザインしてホールドする人?
集団の真の力を引き出す人?
プロセスに関わる人?
その他にも、さまざまな定義や要素があるでしょう。
では、なぜファシリテーションが必要なのか?
それは、ファシリテートしないとできないことが、少なからずいろいろな場面でできていないからです。
その「できていないこと」の元にある要素の一つは「安心」「信頼」「協力」です。
「安心でない状態」は、「不安」「怖れ」です。では、何を怖れているのか? なぜ怖れているのか? 世の中はなぜそんなに危険なのか? 本当にそれほど危険なのか?
数年前まで10年ほど、「死」をテーマにイベントを開催したりいろいろな立場の方のお話を聴いてきたりしました。人間の怖れの根源は「死」です。「死」とは人の死だけでなく、動物やモノ、組織さらには精神の死も含みます。「喪失体験」と言い換えてもいいかもしれません。
「できていないこと」ができないのは、何らかの死を怖れているからではないでしょうか?「干される」「また傷つけられる」「無視される」「やられる」という精神の死です。「自信のなさ」ともも言えます。
では、なぜ自信を持てないのか? それは、私たちが弱いからでもダメだからでもありません。
10年ほど前に気がついたことがあります。
それは、資本主義が加速する中、「これを持っていないとダメ」「太っている人はダメ」「保険に入らないと危険」と、常に「足りないモノ」を突きつけられることの連続で、「洗脳」されてしまっているということです。
つまり人類は、どこかの誰かに知らず知らずのうちにヤラレてしまっているのです。「○○○でないと/○○○を持っていないと、あなたは十分ではない。生きる資格がない」と思い込まされて、「存在することを許されていない」状態になっています。
私ごとで恐縮ですが、5年ほど前に私のミッションが「降って」きました。
それは、「"(あなたも私も)そこにいて、いいよ”と思えるようになること」。小学校低学年レベルの表現ですが(お子ちゃまの皆様、ごめんなさい)、このミッションは今でも変わっていません。
子どもや動物たちは、自分が存在すること・し続けることに何の疑問もなく、のびのびと生きています。
ファシリテーションの出発点として、「存在することを許可して、本来の人間性や全体性を取り戻すお手伝いをすること」により、人類の壮大な思い込みをリセットできるかも?と考えると、ちょっとワクワクしてきませんか?
*この記事は、ファシリテーターのアドベントカレンダー(https://bit.ly/34prQ0C)の一環として書いたものです。 gaoryuさん、いつもありがとう!