ときどき考えること ⑪
今週は、改めてそのことを考えさせられる1週間だった。
そして、思い出した。
大学院留学中ー
学科は違ったけれど同じ学部に車いすで生活する少し年上の日本人男性がいた。あまり接点はなかったけれど、日本人はコミュニティが出来ていたのであいさつはする、カフェテリアなどで一緒になれば話くらいする、共通の友人やほかの人と一緒なら1つのテーブルで食事をすることもある程度の知り合いだった。
ある日、カフェテリアでその人と一緒になったとき、
食事を終えた彼に
「よしえさん、これ、捨てといて」
と、言われたことがあった。
私に何かを捨てるついでがあったわけでもなく、私が立ち上がっていたわけでもなかった。
自分が食べ終わったタイミングで言ってきたのだ。
そこで
「なぜ、私が?」
と、聞いたところ、
「えっ?」という表情をしたのは、
その人だけではなく、周囲にいた日本人の友人たちもだった。
今度は、私が「えっ?」と言う番だった。
私には、分娩時の医療ミスで右半身麻痺の伯父がいた。母が毎日のように、彼の世話をするために実家に通っていた。姉と私も、それについていくことがよくあった。その中で母はいつも
ーできないことは助けるが、できることは自分でしてもらう。
というスタンスで伯父に対していた。
それが当たり前だと思っていた私は
下に落ちた物や、上の方にある物をとってほしいというのなら、喜んで取っただろうし、自分がゴミを捨てるタイミングなら、相手が誰でも一緒に食事をしていたのだから
「一緒に捨てますか?」と聞いていただろう。
でも、なぜ、そのとき私が彼の食べかすを捨てなければいけないのか、理解ができなかった。私は、そんなことを親しくない人に頼まないし、してもらうのが当たり前だとは思わない。
彼とは、そんな風に甘えられるような関係ではなかった。
ーえ?ゴミ箱は、あちらです。自分で捨ててください。
と、伝えたら、友人に「信じられない」と呆れられた。
その理由が、彼が車いすで生活をする人だからと言われても納得ができなかった。ゴミ箱までに障害物もなく、ゴミ箱の口はちょうど、車いすに座っていても入れられる位置にあった。
ーできないことは助けるが、できることは自分でしてもらう。
これは、障害の有無に関係がない。
そして、誰が相手であっても、自分にできることは協力はするが、できないことは「できない」と断ったり、「不快なこと」は「不快だ」と言ってよいはずで
どんな友人でも、どんな知り合いでも、たとえ知らない人でも、通りすがりの人にでも、同じ対応をすることが
相手の多様性を受け入れ、個性を重んじることだ
と、当時の私も今の私も思っている。先回りしていらぬ配慮をすることが、その人のためだとも思えない。
今、私たちが接している子どもたちの障害は目に見えないことの方が多い。
けれど、社会の対応は、目に見えない枠にはめて「あの人はああいう人」という対応が多く、それで多様性に配慮していると思っている人が多いんだなと思うことがよくある。
初めから 私で あなたで 人だってー
と、思うから
特別扱いはしないけれど
諦めたり、決めつけたりせず一人ひとり大切にしたいと私は思う。