#52 自分の言葉で紡ぐスピーチ
きのうは高校の卒業式でPTA本部の役員として参列してきました。
式次第を見ると、卒業証書授与のほかは祝辞が続きます。
祝辞もいろいろだな~とこの卒業式を見て思いました。今までも多くの式典に参列してさまざな祝辞を拝聴する機会はあったもののあまり、祝辞に対して意識していませんでした。でも、どうして今回の祝辞は気になったのだろう???
それは校長先生が祝辞をくださったときのことでした。
去年の息子殿の中学の卒業式のときの校長先生との違いがあったからかもしれません。
通常、多くの方がする上着の内ポケットから式辞を出してそれを「読む」。私はこれにとても違和感を持ってしまったのです。もちろん、話す内容は間違えないように、そして脱線しないように書いておくことはとても意味があることだと思います。でも、大切な挨拶のときはそれが朗読になってはいけないと思うのです。きのうもまさにそうでした。時折、視線は子どもたちに行きますが、大半の目線は式辞を書いた紙に落とされます。
私ならどうするかな~と考えてしまいました。そして一番近くにあった息子の中学の卒業式の校長先生。そして私が勤める日本語学校の校長のスピーチ。どちらも共通しているのは「読まない」ということ。形式的に式辞の紙はありますが、それを「読まない」。
読まない=自分の言葉で伝える
のです。今ある思いを目の前にいる学生にぶつけているのです。当然抑揚もつきます。そしてその言葉が伝わったとき、聞いている人は感動するのです。うなずいたり、笑ったり、手をたたいたり・・・さまざまな感情が揺さぶられて心に残ります。感情が揺さぶられたとき、言葉は力を持った言霊にかわります。文字としての言葉ではなく、心に響く言霊に変わるのではないか・・・
卒業式にもどって
祝辞はまだ続きます。来賓の方の祝辞、祝電の紹介。
でも心に響きませんでした。私が卒業生でないから、また卒業生の親ではないからかもしれません。それを踏まえた上でも心に響かない。
来賓の祝辞のあと、在校生の送辞、そして卒業生の答辞と続きます。
ですが。。。
この送辞と答辞は心に響きました。
もちろん、きちんと紙に書いて間違えないように読んではいます。
違うのは
具体的な話
自分たちが関係している話題。見えるのです。情景が。イメージできるのです。その光景が。
その状況下にいない私でも想像することができたのです。
これなんです!!
私は常々、日本語教師養成講座で「イメージングすること、自分事にすること」を話しています。
通り一遍のきれいな言葉ではなく、いかに共感してもらえるか、心に残してもらえるかが私はこのような場でのスピーチではないかと思います。
「言霊」と聞くとなんか怪しい宗教のように感じますが、そうではなく、「生きた言葉」「エネルギーのある言葉」ん~これも宗教っぽいけど。。。
平面の「字」ではなく、3Dのようにバーンと浮き出てくるようなイメージ。
日本語教師なのにうまく伝えられない💧
言葉にパワーを注入するには、その言葉を自分の気持ちでコントロールすることが必要。つまりは自分の言葉としてきちんと落とし込むことが重要じゃないかと思うのです。
形式美も確かにあります。
でも、もう紙の式辞はなくてもいいのではないかしら?
紙を見なくていい、短くてもいいから「自分の言葉」で伝えることができれば、心に残るスピーチになる。
私はこれからも自分の言葉で紡ぐスピーチをしていきたいな。
伝えたい人の目を見て言葉を紡いでいく人でありたいと強く感じた心に残る卒業式でした。