体験というもの
島の天気は変わりやすいのだろうか。
京都にいた時に比べて、天気予報が外れることが若干多いような、家を揺らすような風がよく吹くような、霰がよく降り雷がよく鳴るような気がする。今もこれを書きつつ、強風が窓を叩く音に毎度びくつきながら、ああ、1人じゃなくて本当に良かったと、心の中でシェアメイトに感謝する。
さて、あっという間に5月も半ば。
校舎の側の桜の木にはすっかり若葉が茂り、みずみずしい新緑を感じる。畑に植えた野菜苗たちは、虫に少々食われつつも着々と日々成長を見せてくれる。
私も季節に置いていかれないようにと焦る。
ただ、そんな中で
私が自分で微々たる成長を感じたのは、図書館で借りた魚図鑑を読んでいるときだった。
その本は以前に1度読んだものだったけれど、その時とは明らかに違う、ぐんぐんと自分の中に入ってくるものがあった。
やっぱり、スーパーで魚を眺めているだけ、お店でお刺身を食べるだけなのと、漁港でとれたての魚を見て、買って、捌いて、調理し、食べ、ああだこうだ感想を言い合ってしたのとは、全く違うなと実感した。
さらに言えば、散歩の途中でふと海を覗き込み、泳いでいる魚を発見した時、嬉しくなってなんの魚だろうと目を凝らしてじっと観察していたあの時にみたものの記憶はずっと鮮明で、魚に出会う度、脳内であの魚はこれか?いや、ちがうか。と未だに見比べてしまうほど強烈な記憶となっていることに今気づいた。
これぞ、食育。これを都会の人にはどう伝えられるのだろう。いや、きっと何をしても体験には代えられない。それならば、もっと、知りたい!食べたい!見てみたい!やってみたい!体験したい!という欲をかき立てる、興味をもたせる、そんなきっかけを贈るような存在になれたらなあと思う。
どうしたら興味をかき立てられるのか、それはこれからもずっと探していくことになりそうだ。この島でその材料をたくさん仕入れていかねば。
それにしても今夜は相当風が強い。
明日、大敷(※)あるかなぁ。
※大敷網。定置網漁のこと。学校から徒歩5分の漁港に毎朝水揚げされる。
そういえば、これも気候によって魚が手に入れられるかどうか分からないというなかなか出来ない体験だ。「分かってはいる」ことでも、実際自分の生活にかかわってくるとなると感じ方が違う。やはり体験は何にも代えがたい。
本当は当たり前のことなのにな。
また、この当たり前の不便さを、必死の努力と知恵で便利なものに変えてきた人たちの思いを知って、その上で生活が成り立っていることを理解しているのが、自然と、先人に対する礼儀なはず。そのことを忘れず繫ぎとめていきたいなあと思う。
(文:島食の寺子屋生徒 出野)