『五等分の花嫁』へのキモチ〜五月の場合〜
映画『五等分の花嫁』を五つ子それぞれの視点から振り返るのも、今回の五月編がラスト。一花、二乃、三玖、四葉の視点と照らし合わせて考えてみた時に、改めて五月だけちょっと違うポジションに落ち着いたなと思った。
もちろん、五つ子がそれぞれの問題を抱えていて、成長していくという物語の構造としては同じだ。五月に関して言えば、自分の理想とする教師像と母親像に悩み、自分の夢は不相応なのではないかと気持ちが揺らいでしまうものの、そんな葛藤を乗り越えていく姿が映画の中で描かれている。だが、他の五つ子と比べた時に圧倒的に足りていない要素があって、それが「恋愛」だと思う。
物語の中で、一貫してフータローの良き友人であり続けたというのが、五月をちょっと違うポジションだと感じた理由だろう。フータローの迷える気持ちを五月が後押しするし、一方で自分の夢が揺らいでしまう五月を励ますのがフータローなのだ。そんな2人の姿は「友達上恋人未満」とはまた違った関係性で、ある意味で理想的なパートナーと言えるかもしれない。
そんな2人の関係性に注目して映画を振り返ってみたい。
まず、フータローを後押しする五月の姿について。他の五つ子の回でも書いてはきたが、この映画の見どころは、フータローは五つ子の中の誰かにその想いを告げると決意し、5年後の花嫁が明らかになっていく部分だが、そんな彼の決意を間接的に後押ししたのが、五月の存在だ。決意のきっかけは、文化祭の準備が始まる前に、三女・三玖から「フータローは私にとって特別だから」という告白とも取れる発言を受けてだと三玖回のブログでは書いたが、そこには五月の存在も欠かせない。
三玖からの思わぬアプローチを受けたフータローは、そろそろ自分の気持ちにも1つの答えを出さなければいけないと思い始めるものの、少しの迷いが伺える。そんなタイミングで、五月と模試で思うように結果が出ていない話になる。そんな彼女の状況を知り、もし大学に合格しなかったら、自分のやってきた事が無駄になってしまうとフータローは否定してしまう。逆に、五月はそんな時間は決して無駄ではなかった肯定する。
女優という道を選んだ一花、そして料理の勉強をしたいと決めた三玖の姿。そして、他の五つ子もフータローとの勉強と様々なイベントを通じて間違いなく成長している。目に見える形で結果は出ていないかもしれないけれど、そもそも彼と出会わなければ、今のように悩むことすらもできなかった。そんな五つ子とフータローとの時間は一切間違っていなかったのだと力強く肯定してくれる台詞だ。
続いて、フータローが五つ子の誰かに思いを告げる展開に沿ってこの台詞を考えてみる。彼からの告白によって、今まで通りの関係性にヒビは入ってしまうかもしれない。それでも、今までの時間の中で紡ぎ上げてきた信頼は簡単に壊れはしない。そんな関係性の保証がここで感じ取れたから、彼は告白という選択を取れたのかもしれない。
それにしても、当初は「百歩譲っても赤の他人」と距離を置かれていた五月からこの言葉が出る重みは凄い。一番警戒されていた彼女がいかにフータローを信頼するようになったのかがよく分かる台詞でもある。そんな彼女の信頼は、フータローの幼馴染の竹林からその関係性の深さでマウントを取られそうになった際に言い返す五月の台詞にも現れている。
これには思わず当事者のフータローも赤面してしまう。それでも、五月自身は何の衒いもなく、堂々とその関係性を肯定できる。短い言葉ではあるけれど、「赤の他人」、「家庭教師」を通り越して、すっかり頼れる友人になっていたのだなと感じられる。そして、同級生にしてはちょっと大人びた発言に、五つ子だけでなく、フータローの母親としても見守っているような印象も受け取れる。
(少し話は逸れるけれど、五つ子の亡き母親・零奈と物語に一切登場しないフータローの亡き母親と、この物語には常に「母親」が不在なのが改めて気になった。そういった状況もあって、母親であろうとする五月の印象がより強いのかもしれない。)
そんな彼女の母親的な目線の印象が一番強いのは、フータローの告白から逃げ出す四葉を追いかけるシーン。勇気を出して告白したはずなのに、「私なんかで収まってたらもったいない」という四葉からの思わぬ返答で、フータローは取り逃してしまう。そんな最中、彼は五月と遭遇するのだけど、四葉を追いかけるのをやめて、別の場所にいる他の五つ子の事を気にかけようとする。中途半端な優しさを見せるフータローに五月は檄を飛ばす。
もちろん、五月自身が選ばれる可能性もあったが、そんな素振りは見せないで四葉の所に行くようにその道を指し示す。これは母親の視点に立って、自分の気持ちに正直になれない四葉を救って欲しい、そして選ばれなかった他の五つ子の事も考えてあげて欲しいという思いやりもあるのだと思う。この瞬間は同級生の五月というよりかは、そんな彼らの関係性をフラットな目線で見つめる母親としての五月の印象を強く抱く。
フータローが五つ子への特別な思いを明らかにする事、そしてその中から四葉を見つける事。それらは映画の中で色々な展開があったからこそたどり着けた答えだろう。それでも、そんな彼を最も近い距離かつ平等な目線で向き合い続けてきたのは間違いなく五月だ。
そんな彼女が母親のような立ち振る舞いをしていたのは、作品の中でも言及されているように「亡き母親の代わりでありたい!」という彼女の強い決意があったからだ。だが、フータローが彼女に支えられたように、彼女も彼の支えがあったからこそ、そんな「母親」を追いかけ続けていいのだと思えるようになった。そう、今度はフータローが五月の背中を押す番だ。
冒頭でも書いたように、五月は将来の夢である教師と理想とする母親像の間で葛藤する。加えて、そんな母親がかつて教師であった事、そして、本当の父親を名乗る無堂が現れ、「母親は教師であった事を後悔していた。父親として娘に同じような道を歩んで欲しくない」という言葉で、自分が勉強を頑張る理由も見失いそうになる。教師になる夢、そして理想とするお母さんになろうとするのは間違っているのだろうかと迷いながらも、そんな憧れを捨てきれない彼女は涙ながらに勉強に打ち込む。
そんな状況にいる彼女に対して、「教師なんてなるもんじゃない」とフータローは一蹴する。だが、それは彼女の夢を否定するという意味合いではなく、家庭教師としてやってきたフータローなりの経験を伝えつつ、それでも教師を志そうとする五月の背中を押すためだ。
ただ勉強を教えるだけの家庭教師を越えて、五つ子と深く関わってきた彼だからこそ言える言葉だろう。そんな迷える自分の気持ちに決着がついた五月はこう決意する。
今まで理想としていた母親と夢である教師像がうまくシンクロしなかったが、ようやく彼女の中でその姿が重なって見えてきたのだろう。自分の夢を追いかけると決意した彼女は、亡き母親を否定した無堂も乗り越えていく。そんな彼女の姿が今作での見どころポイントの1つだ。教師という夢を見つけた事、そして、母親のような教師になりたいという夢の解像度を高めてくれたフータロー自身も、母親同様に理想の教師像の1人だと五月は気付く。
冒頭で五月だけが他の五つ子に比べて「恋愛」要素が足りないと書いたけれど、この台詞はまさにそれを感じさせる部分だろう。あまりに「恋愛」に対して無自覚なのだ。この台詞は「理想の教師=フータロー」だったという前置きがあるからあくまで友人としての言葉として受け止められる。だが、物語に照らし合わせるのであれば、十分告白としても成立する台詞だろう。だからこそ、そんな言葉をかけられたフータローもドキドキしているのだと思う。
それでも、恋愛に対して無頓着だったからこそ、五月は真っ直ぐにフータローと対等に向き合う事ができたし、母親のように振る舞えたのかもしれないと思うと、こんな台詞を何の恥じらいもなく彼女は言えるのだ。きっとこれからの彼女は、フータローにとって良き相談役であり、フータローと五つ子を家族として見守り続ける母親でいるのだろう。
▼注釈
注1 春場ねぎ 『五等分の花嫁』12巻 2021年 講談社 p 62-63
注2 同上 p97
注3 春場ねぎ 『五等分の花嫁』14巻 2021年 講談社 p 16
注4 春場ねぎ 『五等分の花嫁』13巻 2021年 講談社 p22
注5 同上 p 23
注6 同上 p144-145
▼参考資料
春場ねぎ 『五等分の花嫁』フルカラー版 2021年 講談社
神保昌登監督 映画 五等分の花嫁 松岡禎丞 花澤香菜 竹達彩奈 伊藤美来 佐倉綾音 水瀬いのり出演 2022年 ポニーキャニオン
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