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イギルの話

イギルは、トゥバ共和国に伝わる2弦の弓奏楽器、擦弦(さつげん)楽器です。

写真を見て「馬頭琴ですね!」と思った方は沢山いらっしゃるでしょう。確かに馬の彫刻がヘッド部分に付いているので、日本語でそう表現もできるかもしれません。ただこの楽器はモンゴルの「モリンホール」では無く、トゥバ人の民族楽器で「イギル」と言います。良かったらこの機会に是非覚えてみてくださいね。

モリンホールと形状はとてもよく似ていますが、ボディが台形でなくスプーンのような形をしています。ホームベースのような形のイギルもあります。(厳密に言うとモリンホールと同様に胴体が台形のイギルもあります)そしてイギルとモリンホールでは弦の張り方や演奏方法などに違いがあります。

モリンホール以外にも、周辺民族に類似する楽器としてアルタイのイキリ、ハカスのウーフ、カザフのクル・コブズ、クルグズのクヤク等類似の2弦の擦弦楽器が存在することにも注目したいところです。

トゥバのちびっ子が演奏するミニサイズのイギル。ヘッドに馬の彫刻がない場合もある

イギルはトゥバの伝統的な弦楽器の中でも、特別な位置を占める、トゥバを代表する楽器のひとつと言っていいでしょう。

楕円形のボディの中はスプーン状にくり抜かれており、表面には動物の皮が貼ってあります。木材は伝統的にはカラマツを使用することが多いようですが、現代は職人たちが様々な素材を試しているようです。皮は山羊皮が多い様ですがこちらも素材は様々で魚の皮を使う事もあります。

現代の楽器職人のイギル製作風景。元々は演奏家自身が自分で作っていた。今でも自分で作る人も多い

弦は伝統的には馬の尻尾を使っていましたが、長さや強度の問題から現代では釣り糸を束ねて使う事が一般的です。尻尾と釣り糸をそれぞれ貼る場合もある様です。弦はネックに押しつけず、指の腹や爪等で横から押す様な弾き方をします。また弦に指を優しく触れ、かすれた音を出す、いわゆるフラジオレット奏法がイギルの演奏では特徴的です。

イギルという名称は 「2本の弦(イー・フル)ийи хыл」というトゥバ語に由来しているという研究があります。そういった考えも影響しているのか、この楽器は伝統的には2弦を同時に演奏します。

ちょっと印象的なエピソードとして、現トゥバ共和国の文化大臣であり著明な音楽家、楽器職人であるアルダール・タムドゥン氏がイギルの演奏方法を解説しているビデオがあります。その中で「(この楽器を)私達はいつも2弦同時に弾く。この楽器はモリンホールやチェロでは無い」と語っている場面があります。

https://youtu.be/q9sKXJ08lQM

実際には片側の弦に強いアクセントをつけたり、片方の弦のみを弾く様な場合もあると思うんですが、トゥバ人のイギルに対するこだわりを感じる興味深い一コマです。
ただ現代はポピュラー音楽と折り合いをつけるような場面もありますし、トゥバ人の演奏家にも様々な考え方があると思います。この辺りは色々と模索されているといったところでしょう。

イギルは基本的には歌手、喉歌の歌手、語り部らによる歌唱の伴奏として使用されてきましたが、少ないながら独奏曲、つまりイギルのソロ演奏も存在するのが興味深いところです。現在は複数人のアンサンブルやオーケストラ形式の大人数の場面でも演奏されています。

トゥバ共和国の音楽学者であるヴァレンティーナ・スズケイ氏によると、かつてイギルを演奏するとタイガの主(ぬし。トゥバ語でээ / エエという概念)が寄ってきて狩りの結果が有利に働くと信じられていたそうです。そのため猟師はイギルを持ってタイガの中に入っていき、焚き火のそばで夜遅くまでイギルを弾いていたと言います。この様にトゥバの人々の民間信仰の中にもイギルは関わりがあった様です。

イギルには幾つか伝説があり、また歌の中にもしばしば登場します。
以下のアラッシュ(トゥバの著名な音楽グループ)のサイトにイギルの伝説のひとつが英語で紹介されています。
トゥバ人のイギルに対する精神面が少し窺い知れるかもしれません。面白いので興味がある方は是非読んでみてください。僕もそのうち翻訳したいなと思ってます。

(※2022 8/7 追記:日本語訳をnoteにアップしました)


トゥバでイギルを構える著者。昔はこの様にイギルをブーツに刺して弾いていた

イギルは僕にとってもとても大切な楽器で、トゥバの楽器の中でも一番好きかもしれません。やはりなんと言っても一番の魅力はその音色にあります。イギルには弦が2本しかなく、指板などもありません。非常にシンプルな構造の楽器ですが、豊かな音色をコントロールすることができ、非常に複雑な表現が可能です。

基本的にはトゥバ民族の中で伝承されてきた民族楽器ですが、近年はトゥバ音楽の人気に伴い、僕のように海外でも演奏に取り組む人も増えつつあります。僕自身はトゥバの人々の中で伝承されてきた演奏のあり方や精神文化に向き合いながら、自分なりのイギルの演奏の可能性に取り組んでいきたいと思っています。

自身で製作したイギルを持つモングンオール・オンダール氏

ちなみに僕の先生である音楽家のモングンオール・オンダールも楽器職人でもあり、年々職人としての腕も上げています。僕が演奏しているイギルは全てモングンオール先生が作ったものです。もしイギルが欲しい、演奏してみたいと考えている方がいましたら僕に相談してみてください。出来る限り協力します。


ここまで読んでいただいて有難うございました。
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参考文献:
В.Ю. СУЗУКЕЙ / МУЗЫКАЛЬНАЯ КУЛЬТУРА ТУВЫ В XX СТОЛЕТИИ
等々力政彦 / シベリアをわたる風、トゥバ音楽小辞典
浜松楽器博物館 総合案内 2015

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