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北の果ての鉱山開発・母の事


序文
北の果ての鉱山開発について、父の手記を投稿しました。多くの方に御閲覧
頂き、ありがとうございます。
戦争に翻弄された樺太生まれで樺太育ちの母の思い出も、合わせて投稿します。投稿者の弟が記載しました。
当時の日本人の厳しい生き様をご覧になり、今の平和な日本の有り難さを
皆で感謝したいと思います。


母の事

大正14年(1925年)6月15日生まれの母の想い出
 今になって思うのは母親の話しをしっかり聞いておけばなぁ・・・・・

 母方祖父の事は後述するとして、祖母は津軽地方出身なのは聞いたことがある。
 何処で育ったのかも知らないし、何処で祖父と出会ったのかも分からないが後妻となり二男三女を生んでいる。母キクエは三女かと言えば、後妻の子なので六女。
 姉は双子で生まれ、一人は死んでしまったので、本当は七女かもしれない。

 物心ついたのは、樺太支庁大泊舟見町。先妻の子の家族を含め、大人数で住むことが出来る大きな家だったそうだ。

 大正の終わりに父親60過ぎで生まれた末娘は、家族に愛され可愛がられたが、中には年上の甥や姪もいた。

 船大工をリタイヤしていた父親は、末娘を特に可愛がり、誰にも触らせなかった船大工道具で、小さな娘に鋸引きや鑿(ノミ)を教え、兄たちを悔しがらせていたらしい。

 酒乱で家族中に背を向けられていた父親には、唯一の見方作りだったのかも知れない。
 金を持たせてもらえない父親は、空瓶を娘に持たせ、酒屋に所謂付けで酒を買わせる作戦に打って出た。

 酒屋も入学前の少女が空瓶を持ってきて「お酒ちょうだい」と言われ、ダメとは言われないと考えたのだろうか。

 作戦は成功し、娘が楽しそうに帰ってくる姿を家の中から眺めていた老父は悲鳴を上げ出した

 娘は楽しそうに瓶を振り回しながらのご帰還だったのである。

 その娘が12歳の頃、手術が必要な病気(卵巣膿腫)になるが、その費用は家には無かった。
家族会議を開き、このまま治療を放棄するか、何とか助けるか話し合った。結論は長兄が病院の下働きをする事で、何とか命を繋ぐことが出来た。

 しかし、片方の卵巣は全摘出、一方は三分の一を残し摘出であった。少し残したのは中性にならないよう、女性ホルモン分泌の為であった。
  退院後も長兄は、暫くの間病院で働いていた。

 私と兄は、その残された三分の一の卵巣にいた卵子から、この世に生れ出た。何とも言えない生誕の不思議さを感じざるを得ない。
 
 その後先妻の子(兄弟)達は、家族と共に樺太の他場所、北海道へ仕事を探しに移動して行ったようだ。

 二・二六事件が起きるほど、時代は疲弊していたし、辺境の地の貧しさは本土以上のものであった。

 老父母も母と共に、双子の片割れの姉が嫁いでいた豊原、西海岸の本斗、に移動また、その北へと流れて行った。没落士族(元松前藩士)の最後の姿であった。

 大本営発表の昭和16年12月8日、慶応2年生まれの祖父は脳出血で倒れ、一週間後に亡くなる。最後の言葉はこの戦争「日本が勝つ!」だったそうだ。

 その時母は16歳、遊んでいると徴用されると言う事で、准看護婦の資格を取ったそうだ。

 非常時の中、どれだけの勉強で看護婦になれたのか?その後、正看護婦の資格試験に望むことになる。試験内容は学科と論文であった。

 準看護婦仲間では、正看になると赤十字に入れられる。要するに従軍看護婦になり、戦地に送られるとの噂が飛び交い、本心は不合格狙いで受験したそうだ。
 論文では、周りの受験生が2枚、3枚と用紙を貰う中、1枚さえ埋められず、時間を持て余したそうだが、何故か数名の合格者に入っていた

 従軍看護婦になりたくない母は、何処にあるのかも分からない北小沢炭坑病院に就職することになった。



 この病院の看護婦は、ソ連軍の侵攻時集団自決した悲しい話しも残されている。

 ここで出会ったのが外科の三上先生。たいそうな名医?で、手術時に、術式の本のページをめくる係が必要だったとか。

 たいそう可愛がってくれ、ある時炭鉱労働者数十人を徴用で新潟県の工場に送る引率者に三上医師夫妻がなった時に、母も推薦してくれたそうだ。
母は、先生の向かって右側。

生まれて初めての本土への旅!

 戦時中にも拘らず、復路で仙台などでのんびり東北旅行を楽しみ、予定を大幅に超えて、帰山した。これには鉱山長も激怒し、超過分の旅費を返却させられたそうだ。
 
 母には、そんな天然さもあった。

 戦時中で在郷婦人会による、竹やり訓練があったが、「機関銃に竹やりが勝つ訳ない」と一度も参加しなかったそうだ。「担架訓練には欠かさず参加したよ」とは言っていたが。

 日本人労働者は召集、徴用されるために、炭坑には朝鮮半島から集められた労働者が多くなってきて、怪我人、病気になる人も増えてきた。
朝鮮人病棟も出来る位であったが、母はその担当をさせられていた。

 毎朝、おしっこ何回?うんち出た?と聞いて回る18か19の娘に、長老格の患者が朝鮮語を教えてくれた。イプジョノソ」と聞けば良いと。

 その後は、その言葉を使うと皆が笑顔で、回数の指を立ててくれたそうだ。

 そのイプジョノソであるが、私が母から聞いたのは使っていた時から40年後、それから更に30年後に神田の韓国人居酒屋の女主人に話しをすると、「そんな言葉はない」と。

 暫くしてから「可愛いお嬢さん」と言う言葉をハングルにすると似ているかもと話してくれた。
 「イプジョノソ」は謎だが、そうであってほしい。

 

 
 
 


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