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何処にも続かない道

前述のトロリートレイルに関連してもう一か所最近歩いた鉄道跡を転用した遊歩道について話そうと思う。私の住む町から車で一時間ちょっとの場所に鱒釣りができる小さな州立公園がある。規模が小さく有名でない公園なので、州予算がカットされたら州立公園から州立森林へと移行されてしまうのではないかと心配しているのだが、私の心のランキングでは大きな公園と混ぜても引けをとらないお気に入りの場所だ。

石積みの橋脚の跡

その公園は人口2300人の小さな町の東南の農道をはずれたところに入り口がある。ちょっと目にはわからないが入り口から急な下り坂で一番下に沢がある。鱒釣り場のすぐそばに鉄橋が架かっていてそこから沢沿いに遊歩道が続く。右手にさらさらと流れるクリークを楽しみながら下流に向かって歩く。私の住む州はプレーリーと呼ばれる中西部の平原にあり、山がない。それでいて、この公園のように平地の中に突如として深い谷があらわれたりする。谷の底へ降りた時点で周りを見上げると日本をほうふつとさせる里山の風景が見られるのもここが好きな理由だ。クリークにかかる鉄橋は2か所。下を見下ろすととても重厚な石積みの基礎が見える。橋自体は簡易な作りで鉄の囲いと木製の床でできている。遊歩道はそれほど長くない。ぶらぶらと行き止まりまで歩いて引き返してくる。この道もどうみてもかつての鉄道の軌道だったと思われるし、鉄橋下の土台もただの歩行者用の橋にしてはがっしりした造り。けれども不思議なことに道は谷の半ばで終わっていてトンネルの跡があるとか崖を乗り越えて町のほうへつながっていた形跡がない。

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粉挽き小屋

家にかえってからインターネットでその州立公園の歴史について調べてみる。あった、19世紀の終盤まであの谷には水力を利用した粉挽き(穀物を粉に挽く)の建物があった、そこまで線路が通っていたが、あるとき粉挽きの機械から発火して建物が全焼。20世紀の半ばまでに線路と橋は撤去された。2000年に入ってから篤志家の計らいで遊歩道に整備されて歩行者用の橋にかけ替えられたとある。谷側の終点が粉挽き場だったとして、さてこの線路がどこにつながっていたのかは現代の地図を見てもさっぱりわからない。遊歩道はT字のかたちで舗装された道路にぶつかって終わっている。そこから先は車道に変わったのか、潰されて農地に紛れたか?

碓氷峠

タイムマシンがあって自由に過去に行けたら何がしたいかと問われたら、もちろん何年も前に亡くなった両親に会いたいとか、可愛がっていた犬と過ごしたいとかが先に来るけれども、今はない鉄道がどこを通っていたのかとか、人々はどんなふうに乗り降りしたのかとの、ちょっとしたことについて、見れるものなら見てみたい。そして、100年もさかのぼらなくとも、自分の生きてきた時間の中にも似たような話があることに気づく。昭和の終盤に日本で学生だった頃、夏季休暇の間や週末の繁忙期に軽井沢にあるホテルでアルバイトをしていた。部屋と賄い付きでホテルが東京から往復の交通費も負担してくれるリゾートバイトで、夏から秋にかけて友達と誘い合ってはよく軽井沢へ出かけた。バイトを終えて東京へ戻るときの楽しみはJR横川駅で買う峠の釜飯。碓井峠を下り終えて横川で機関車の連結をはずすため少し長く停車する合間にホームに降りてお茶と釜飯を買い、電車の中で食べながら帰る。五目ご飯の上に干し杏とウズラのゆで卵が乗っているのを大事に取っておいて後で食べようしていたのに食べるときに卵を床に落としてしまい悔しい思いをしたこともあった。

私がアメリカに住むようになってから、東京から長野に新幹線が通り、横川から軽井沢へ碓井峠を越える路線は廃線になった。一昨年帰国した際に当時バイトに一緒に行った友人が車で軽井沢に連れて行ってくれた。碓氷峠を登るのがものすごく大変だという実感もなく、あっという間に着いた軽井沢の駅は伝言板が置いてあったような昔の避暑地の面影はなく、あの頃は何もなかった南側は全面が巨大なアウトレットモールになっていた。州立公園の谷の懐で終わるアメリカの鉄道跡について考えながら、横川駅と軽井沢駅とが線路で繋がっていたという事実も今となってはなんだか夢のような話だなあと思うのだった。