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チョコレート依存症者の話

見出し写真はアランドロン追悼企画で「太陽がいっぱい」をミニシアターで観た際に壁に貼ってあった一言。
涙を誘う。
最後に見られてよかった。



普段我が家では市販のチョコレートを食べる機会は少ない。
理由は市販のスナックは添加物が気になるものが多いのでそれなら最初から買わなきゃいいかの判断。
何が大丈夫で大丈夫じゃないか判断することへの怠慢の結果である。

チョコレートには依存性がある。

思い返すとうちの母はいつもカバンにチョコレート菓子と青のマウントレーニアが入っていた。
デブの典型である。

なんであんなにチョコレートを食べていたんだろう、彼女は。

久しぶりに家にある頂き物のチョコレートを食べながらつぶやくと「幸せになりたかったんじゃない。」と彼が。

確かにチョコレートを食べるとセロトニンが分泌され幸福感を味わえると言われている。

私も10代前半の頃は自分のご機嫌が下がり気味なときはチョコレートなどを食べてごまかしていた。
実際にチョコレート効果なのかプラセボなのかはわからないが自分のご機嫌取りにはちょうど良かった。

でもあるとき食べ物に機嫌を取ってもらうのは精神性の未熟さから来ると考え、チョコレートや機嫌取りの食べ物を過剰に摂取することはやめた。

今は食べたいな、と自然に思える時に余裕があれば百貨店などのお菓子屋さんへ行きチョコレートを買うようにしている。

そうすると少しの量で満足できるし、手土産の提案の幅も広がり一石二鳥なのである。
(とは言いつつ買ってきてくれるのは基本彼なので、偉そうにすみません。)

と話は脱線したが、つまりうちの母は幸せへの憧憬があるためチョコレートに手が伸びてしまうのではないかと。

チョコレートが切れると不幸せな現実が見えてしまうのかもしれない。

実際、母が幸せそうだと思ったことは人生の中で一度たりともない。
大げさに聞こえるかもしれないが、生まれてから15年くらい一緒に暮らしていたかと思うがその間も幸せそうな記憶は無いし離れて暮らすようになってからもずっと幸せそうな様子は見えない。

そして私は思いついた。
もし自分が本を出すなら「チョコレート依存症の人々」という本を出す、と。

本当は自分の身の回りに幸せなことがたくさん落ちているのにそれに気が付けずずっと手を伸ばし渇望している。
自分では届くはずのない幸福に満たされることを。

そういった人々はチョコレートを食べているにしてもいないにしてもチョコレートに依存している人と同じ状態なのだ ————— 。

「チョコレート依存症の人々」tera著(仮)

なんて穴が開きまくりの私の新書考案を彼に説明して、彼がいいんじゃない~と適当に笑ってくれて一緒にへらへらできる日々が私にとっては幸せだなあと思えるのです。

今日の朝ごはんは昨日の夕飯でとんかつが一枚残ったので卵で閉じた。
あとは最近宮崎フェアで買った豆皿に米のとぎ汁と塩で漬けておいた野菜たちを盛り、玉ねぎと豆腐だらけの味噌汁を用意したのでそれで体調を整えて一日を始めようと思う。

今夜はNHKホールにてオーケストラが聴けるそうだ。
とても楽しみ。
行ってみたかったんだよね、NHKホール。

みなさんも一日楽しんで~。



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