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主客合一とは何だろうか

西田幾多郎の『善の研究』を改めて読んでいる。
一通り、読み返して、何が書かれているか大体は理解しかけてきたところだ。
が、とりあえず読み終えたことにして置きたい。
本の主なテーマは純粋経験とか、主客合一とか、
意識の統一とか、最後は宗教について論じて終わりであり、そんな感じだ。
主観と客観が一つに合わさった時、何が起きるだろうか。
それは置いておいて、『善の研究』を読んだ限りでの西田哲学をとやかく言ってみる。
さすがに初出は1911年であり、
古さは否めないが、これが100年以上の昔のものとは思えない。
しかし、僕のいうことは時代錯誤感があるだろう。
それはそれとして、
昭和から現代までの日本の価値観の根底にあるものを現している傑作だと思う。
読んでいて何度も何度も思ったことだが、
西田の天才的な思考回路の早さには凡人の僕はついていけない。無理である。
どうやってこんなものを作ったのだろうか。
しかし、用語の古さもある。
今日なら、他の用語に言い換えると分かりやすいであろう箇所はそれなりに見受けられた。
で、肝心の主客合一について、とやかく言ってみる。
主客合一とは読んで字の如くなら、
主観と客観が合わさって一つになることであろう、
それは前に書いた。
では、それをよく考えてみる。
机上の空論ではなく、ある意味で理想的にすぎないように思える概念だが、
捨てるには惜しいと思われてならない。
自分を客観的にみることができれば、
その語意を示したことになるだろうか。
でも、なんだか片手落ちである。
主客の区分がなくなることを意味するとならば、
それはある意味で合一である。
自分を客観的に見つめられることは褒められたことであり、よいことなのだが、
そこからさらに歩を進めて、その客観すら乗り越えて、我を感じるということは、どんな意味になるのか。さて、どうだろうか。
自分を顧みるには自分を客観的に観察できるだけでは駄目なのか。
恐らく駄目なのである。
自分とは一体、何をしているのだろう。
それを知ることすら簡単ではない。
自分を外から見たかのように自分を評価して、さらにそこから先を求める訳である。
自意識というものを正確にする必要があるのだろうか。
まあ、ないとは言えないはずだ。
なら、どうすればいいのか。
答えは恐らく無ではない。
有である。
自分という存在を確かめるために、他者の目を気にする必要があるだろうか。
他人から見た自分が客観的な自分かと言うと、それは違うと思う。
主観的な自分とはまだ内に篭っている語感がする。
簡単なことかもしれない。
つまり、言葉では表現することのできないものかもしれない。
禅問答に片手で手を打った時、その時に出る音はどんなのか、という有名な公案がある。
それと似た感じがする。
また、語ると、腑に落ちないが、また、それは我を忘れて没入することでもない。
ここまで語ってきて申し訳ないが、
やはり凡人の僕には言葉による表現が追いつかない。
これだと、いう文句が書けないのだ。
うだうだ構文を続けるが、中弛みになってきた。
結論は出ないが、とりあえず終わりにしたいが、
しかし、善意から出たことだから、
それで許してもらうしかないから困るのだが、
全然うまく書けたと思えない。
やはり哲学は難しい道なのだ。
改めてそう思える。
出来上がったものを批評するのは楽なのだが、
それをつくるにいたる、その出来事を評価できない。
何もないものが一になる、そんな感じでもない。
端的に言ってしまえば、人として自立することになるだろうか。
でも、それでは言葉が簡単すぎはしまいか、
と考えてしまうが、実際に自分を自立することは観念的には楽でも、実地でいくのは簡単でない。
しかし、自分は現にこの世界に存在している。
なら、どんな仕方で存在しているのだろうか。
誰かに偏って、変な姿勢をとっているだろうか。
そんなつもりはないが、それは主観に過ぎないのか。
しかし、客観的にもそうではない。
しかし、僕は物心的に自立していない。
それを乗り越えるのが、主客合一ということだろうか。
また、別の言い方をしてみる。
結局のところ、人間は一人では生きられない。
人と関係するには、自分に自信があることが大事だ。
では、自信とやらはいつできるのか、
それは待っていても出来ないだろう。
では、いつできるのか、自分に自信のある自分とはいつ出来上がるのだろう。
それは他人の評価を気にしないことではある、
また、自分自身で自分を評価することではある。
しかし、それではやはり客観を超えていない。
自分のありのままの真実を知ることはこんなに難しいのだ。
それが主客合一の難しさとは恐らく言える。
また、言い換えるなら、自分の仕事を見つけることが仕事というようなことだろうか。
人から言われたことをこなすだけでは自分で仕事をしていない、だから、自分で自主的に仕事をできたとき、それが仕事をしたと言える。
簡単に言うと、こんなところだろうか。
さて、こんなところで終わりにしておこうか。



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吉谷匡将
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