人間はどうしてもこの世界に存在している必要はない?!
「人間はどうして存在が許されたことになるのでしょうね?
許された証拠を得ることはまず無理ですね。
でも、許されていないなら
この世に存在しなくていいですよね。」
「とすると、私は世界に許されて存在する訳ですね。
となると、どうでしょうか。
うーん、まあ仕方ないですね。
私は望んで人間に生まれてきた訳ではないですし、
そう生まれてきたのが偶然だから
人間として生きています。
ネガティヴな感情もポジティブな感情もそれについてはないです。」
「しかし、私はネガティブな感情があります。
それを表現することを許してください。
人間は何故に生きなければならないのでしょう。
人間としての定めを勝手に神から授かったからですかね?
それは嫌なことです。
私は望んで人間になった訳ではありません。
たまたま人間になってしまっただけです。
だから世界から人間としての本性を押し付けられるのは嫌です。
しかし、人間として生まれたので
人間として生きる必要があります。
多くの人がこのジレンマに悩んでいるのではないでしょうか?」
「そう思います。
またネガティブな表現になりますけど、
人間として生きることを放棄するとなるとどうでしょう。
もはや人間として生きられなければ
人間ではなくなります。
その結果として何になるかは知りません。
まあ想定可能ですけど、
ここではそれはどうでもいいです。
人間である以上はやるべき責務や本能からは逃れることは難しいですね。
だから、古今の人間たちは四苦八苦してきたのでしょう。
私もその一人ですね。」
「さて、人間として生きる道を放棄するとはどのような意味になるでしょう?
それは可能ですか?
でも、本能があるでしょう。
そのしがらみを破ることは難しいですよ。」
「だからネガティブな表現は嫌いだ。
どうしようもないんだよ。」
「でも、自分が人間として生まれたのが
不本意なら仕方ないでしょう。
ニーチェの言う超人だとか仏教の言う仏だとかにならないと生きている意味がないとも言える訳ですよ。
それで仏教徒や僧侶たちも苦労してきたのです。
坐禅は仏であることをポーズすることだとも思います。
ただの人間であることをやめて自分が仏であることを心に念じるのです。
それで成仏できるかもしれません。」
「下らないのか、価値あることだか、分からない。
ただ仏にも死は訪れます。
この世は無常であり、仏にも無明があります。
つまり寿命があるのです。
寿命がない存在などありません。
時間の概念がある限り、寿命は有効です。
時間が消えてしまえば、
何もありません。
絶対零度の空間が残るだけでしょうか?」
「なんだか難しいことになってるね。
ここで僕の意見だ。
要するに寿命があることが救いなんだよ。
死ねることが祝福であり、
その後は保障されない。
それが自由である。
ある意味で怖いけれども、それが真実だろ。
僕は時々思う。
さっさと寿命を終えてしまいたいと。
この世に何故にいなければいけないのか。
それが強制なのは嫌ではないか。
だから自ら命を断つ人すらいるのではないか。
僕は知的生命の本性からしてそれは仕方のないことだと思う。
望んで生きていけないなら
仕方ないだろ、としか思えない。
しかし、自分はそれができるのだろうか。
苦痛を感じるとできないのだが、
尊厳死や安楽死はその辺りをテーマとしている。
それを考えるのも社会人として
当たり前のことだと思うよ。」
「重い。
人の命を何だと思っているのだろうか。
海外では安楽死は選択可能な国も多いらしい。
身体に不治の病があってこそ選択可能らしいが、
何故そうなるのだろう。
よく分からない。
自殺で亡くなる人を思うと、不治の病でなくても
選択させてあげればよかったのではないか。
そう思う。
自分は未だこの世にいるが、
不本意でも去る羽目になった人は可哀想だ。
せめて苦痛なく安楽に逝かせてあげればよかったのに。
そう思う。」
「うん。
それは君の意見だよね。
そう思うことは自由さ。
でも死ぬ権利とか言い出すとキリがないだろうから、
ここまでにしておくよ。
僕はよく分からないけど、
そういうテーマがあることは承知している。
ただそれだけではあるけど。」
「そうか。
また考えよう。
今回はこれまでにしておくよ。」