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世界は人間中心にできている訳ではない
世界は人間の生存に適するようにできています。
しかし、人間が中心にできている訳ではないと思います。
しかし、人間には固定観念があります。
人は間違いがあっても、他者の様子をみて、問題なければ、それが正しいと見做したがる習性があると思います。しかし、社会が必ずしも正しいとは限らないのです。
意図せずとも、偽りの正義が通じなかった時は人はどうなるのでしょうか。
まず世界は正しい方向に進んでいるのでしょうか。
それを測る指標は存在するのでしょうか。
もしエネルギーが無駄に注ぎ込まれているなら、
くるべき未来とはどんなでしょうか。
ディストピアものなんかも過去には流行ったと思います。今どうだかは分かりません。
以前ほどの流行はないのでしょうか。
一般に人間の思い上がりは世界には関係ありません。
人間が世界に必要とされているとは一概には言えないと思います。
世界に必要なのは、平和、秩序、平等、自由、公正、安寧、正義、博愛などです。正しい人間社会とはそうあるべきもののはずです。そうでなくして人間社会は存在できるのでしょうか。
また、人間の価値観は厳しい自然環境にどれだけ通用するものでしょうか。
社会が間違った方向に進むことも断然あり得ることだと思います。
別に僕には他意はありません。
この世界は自然の法則が人間の都合に優先するようにできているはずです。
そうでないとは誰も思わないと感じられますが、
社会に迷信はどれくらいあり得るのでしょう。
何が正しいのかはよく考えないと、また充分な時間が経過しないと分からないものだとは言えると思います。
今この時点で何が正しいのか、それを測る方法はあるのでしょうか。
別に僕は不安を抱えている訳ではないし、
人に不安を与えたい訳でもないのです。
しかし、古今東西の歴史を考えてみるに、
やはり無駄な労費にはその結果が伴うものです。
今の時代の価値観が正しいと誰が保証できるものでしょうか。
答えは現時点では分からないとするしかありません。
間違いが社会にあるなら、それはどう是正あるいは訂正されるべきでしょうか。
民主主義や政治システムがその効用を発揮して、
処理すべき問題を処理していけばいいのですが、
世界の因果の法則にどの程度を則っているでしょう。
僕にも良く分かりませんが、
例えば、デモクラシーの発祥であるアテネは、
衆愚政治によって、勢いを失いました。
それはプラトンの嘆きやソクラテスの悲劇で示されています。
また、古代中国は抗争のなかでなかなか平穏な状態を維持することができませんでした。
今なおそうかも知れません。
秦が全国支配を成し遂げても、それは周制の古い体制を破壊するだけに止まり、
新たな世界に必要な価値観を作れたかどうかは分かりません。
その後の秦の滅亡や項羽と劉邦の抗争も無駄と言えば、無駄です。
しかし、結果として、それに莫大な労力や多大な犠牲を払ったのです。
中国はそれからその後もあまり変わらなかったのだと思います。
政治制度が崩壊あるいは形骸化すると、
結局は犠牲になるのは人民です。
また、強盛を誇ったローマ帝国も滅亡の道を辿りました。それも因果でしょうか。
武力で人を支配するものはその責めを受け、武力で滅ぼされるのでしょうか。
日本の場合はどうでしょう。
徳川家康は戦国時代を終結させましたが、
幕府の支配は武力を本にしたものでした。
人民の意向は反映されることもなく、
幕府は結局は武力で滅ぼされました。
その後の政権も武力で倒されて、現在の元の姿になり、現代に至ります。
その体制刷新の中で新憲法が発布されました。
今の日本があるのはこの憲法のおかげだとは個人的にも十分に思えます。
ここまでのことから言えることはやはりこうです。
人間のご都合主義は世界には通用しない。
世界は必ずしも人間を必要としていない。
その結果として、過去には間違いがどんどん拡大すればするだけ人間は多数の犠牲を強いられました。
その教訓は現在に生きているのでしょうか。
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