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正しさの一般論

時々、疑問になることがある。
何を以って、正しいとすればいいのだろう。
また、善と正しさとはどんな関係にあるのだろうか。
正しいことは善なのだろうか。
それはそうとは言える。
では、善とは正しいことなのか。
それも正しいと言える。
しかし、等しい観念ではないと思う。
これ以上は考えにくいので、ここでは追及しない。
では、正しさとは誰のためにあるのだろう。
誰かのためになることはそれで正しいのか。
それはそれで何か違う気がする。
正しいことをしたいとして、それが人のためになっているなら、いいのだろうか。
それが善意から出たものなら、いいが、僕には判断に迷う余地があるので、よく分からない。が、
それが自然とできているなら、それでいいとも考えるられる。
しかし、故意があっても、なくても、それは場合によっては恣意的な感じがする。人のために何をするのは自己犠牲感を伴うイメージもある。やはり、故意に何か人のために敢えてするのは、時として、不自然ではないか。
そうでないなら良いが。
違和感を感じざるを得ない、とも言えてしまう。
自分がそんなバイアスにかかっているだけかも知れない。
何が正しいのか、判断するのは、当たり前だが、
難しいことだ。
では、自分のためになればいいのだろうか。
それはそれで我欲を感じさせる。
結果的にそうなるなら、良いが、そうでないなら、
それは間違いを含む可能性が否定できないので、
僕としては、控えた方がいいのではないか、と思える。
またここで、西田幾多郎のいう、純粋経験とか主客合一とかを言い出してもいいだろうか。
それが世界の善性に適うことだとは言えると思う。
結局は自然に任せるしかないのだろうとは言えてしまうが、それが結論だろうか、
そのあたりに判断基準があれば、助かる。
当然として、間違いを含みやすいので、正しいことかどうかを公言することには憚りがある。
世間でもそんなものではないか。
正義についての哲学でも周到に考えを巡らすことを推奨していると思える。
また、自己責任で考えることの重要性も示唆していると感じられる。
何か参考になるものはないだろうか。
正義の尺度の問題だと言えるだろうか。
また、起きてしまったことは仕方ないが、
それが正しいことかどうかどう判断すればいいのか。
因果応報的な考えをして、それに適っていれば、
それは良しとも、できるだろう。
もし、なっていないならば、理不尽なことだとも思えるだろう。
起きてしまったことは果たして正しかったのか、間違いがあったのか、それはどう判断すればいいのか。
それは最初の印象やすぐにそれに対して思ったことが正しい判断基準になるのだろうか。
いや、まだ間違いを含んでいると思う。
間違いがあったなら、人間はすぐにそれを察知できるだろうか。
答えは明らかにできるとは言えるだろう。しかし、あらゆる場合に、そうだとは言えない。
明らかに人間は間違いを犯すことがある。
誤謬があることは、別に珍しくもない。
人間万事塞翁が馬という諺もある、何が最善のことなのかは、人間にその時に判断することは難しいということか。
ただし、僕が言っていることは文辞的なことに過ぎないかも知れない。
真実はそんなところを離れたところにある可能性も考えられる。
現実は自分の考えとか、そんなこととは関係なく起こる。
自分の眼鏡で事態を眺めているだけの取り越し苦労や部外者のただの好奇心を表しているだけなら、
それはそれでつまらないことだろう。
僕の言っていることは基本的に小賢しいかもしれない。それならそれで構やしないが、あくまで試論といえば、試論ではあるが、そこは反省の余地があるとは思う。

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吉谷匡将
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