あるべき「楽しさ」、「player」にするとは?
みんな試合本番、「勝負」のために日々懸命に練習しているわけですが、
「遊ぶ」ということをちょっと考える時があります。
部活などの練習の中で「遊ぶ」ことが許される時間、「遊び感覚」が持ちこめる時間、プレーの中で「遊び心」を用いる選手、というのはどれくらいいるのだろうか?ということです。
何か、「遊び」というのが、「真剣」「真面目」「気迫」という態度の対極におかれて、あたかもやってはいけない許されないような空気になることが多いかも・・・と過去の自分を振り返っています。
スポーツの前提は「遊び」
自分は練習会などでは、たまに休憩を長めにとって、遊んでもかまわないと言います。
むしろ遊んでいる様子こそ、選手たち(子どもたち)の創意工夫力や意欲、バレーボールの応用力などを推し量る試金石になるのかなと思います。
あたえられた課題やメニューをこなすだけじゃない、自分の内側からのかつナチュラルな情動によって、生み出される「遊び」の質を見ることや、そういった機会を確保するということも大事なことなんだろうなと、最近考えるようになりました。
例えば、ツーアタックやツーフェイント、プッシュやハーフショットなど、
普段の練習ではじっくり取り組めないものでも、「遊びの確保」的な時間を与えていくことで、子どもたちはどんどん覚えていくのではないでしょうか?
よく本番を「楽しむ」といわれますが、それはプレッシャーをもみけすためというよりも、PLAYとかPLAYERというものの本質・・・遊びという概念に通ずるところにあるんだと思います。
よく聞かれたり頼まれたりするのは、ドリルの紹介や、スキルへの考え方についてのレクチャー、
練習における意識の置き所・・・こういったアプローチが多いのですが、特に大事な大会の直前ともなると、それだけじゃいけないと思っています。
ゲームにおける展開の在り方や戦術的な部分、コーチの視点や働きかけ方などについてのニーズが多く、こういったものに少しでも応えていく経験も、従来繰り広げられてきた講習会のスタイルを変えるものになるだろうと思います。
指導者と選手が情報をシェアして、ともにゲームを作り上げていくという「シナジー」を過程の柱とする内容もあっていいと思います。
いろいろあろうかと思いますが、まず言えることは、一つひとつの局所的なミスや失点にいちいち一喜一憂することは、ゲームを制したりコントロールしていく上では、大きな障害となるということです。
ましてや、声出せ指導、気合い気迫指導などでは、ますますゲームの現実からかい離してしまいます。
なので、コーチも選手も、テクニカル面な情報を常に、把握、編集、思考判断、発信することを共有することが、大事なわけで、その材料を得ることが、練習になるんだと思います。
レクチャーの実施の前には・・・
さて、話は少し変わりますが、練習会を行う時は、内容としての情報、用語としての情報の伝達の仕方をけっこう考えます。
つまり、何でもかんでも、トレンドの用語を伝えて使わせればいいのか?
というと???なところもあると思っているからです。
選手の実情、チームのレベル、カテゴリの特性や発達段階が違うからです。
この点においては、「標準化の精選」 とか 「標準化の優先順位」というものを自分はよくよく考えるようにします。とくに中学生などは、スキルの習得もまだまだですし、フィジカル面も未発達、メンタルも不安定なわけです。そこに、あれこれ用語ばかり伝達して使いこなせというのも、消化不良になると思っています。
未経験者やまだまだこれから上達するであろう子どもたちには、
正しいフォームとか、用語も必要ですが、
まずは、「バレーボール」を使って身体を動かすこと、
それに対するエンジョイ感が保たれることを最優先しなければと思います。
ともすると、とあるドリルを成立させるのすらままならなくて、
コーチとしては歯がゆく、苛立ち、結果を焦る・・・ストレスに陥ります。
でも、 「バレーボールを使ってエンジョイ」 > 「課題クリア」「指導の実現」
という部分をある程度続けていかないと、
思考力の定着とか、スキルの定着を目指した、よりテクニカルな練習に向かないと思うわけです。
どこかの段階で「難しい」とか「練習が重たい」などと思わせてしまっては、その後が苦しくなる一方です。選手もコーチも。なので、必要な情報の伝達や、これから求めたい思考の伝達は、なるべく気難しくならないよう、身近に思えて、やってみようと思える・・・そんな伝え方や、資料の提示、内容の整理を心がけようと思います。
離れてからわかること。俯瞰でわかること。
部活の顧問としてチームを率いるバレー指導から離れて3年目。
こうして今なおバレーに関われていることは、有難いことだなと思っています。
離れた立場から振り返ったり、今部活で頑張っている方々を観ていると、本当に学校の部活の運営や指導には、大変な苦労とエネルギーが費やされているんだと思います。もう今の自分にはできないかもしれません。(笑)
今の自分がいろんな選手と関わる時、彼らの学校生活の様子や学習の状況は見えません。
なので、純粋にバレーボールを介して関わることができるのですが、これが部活となったらそうもいきません。子どもたちの学校生活や家庭の状況が逐一情報として入りますから、時として大変なストレスになることも多いのです。だから、本当に自分のお気楽さ加減と言ったら、部活で苦労されている指導者には頭が上がりません。
ただ一方では、いまかかわっている子どもたちや保護者の方とお話をしている中で、「バレーが楽しい」と思えることに感謝・・・みたいな言葉をいただくことがあります。
きっとそれは、普段の学校生活や部活動を必死にがんばっているから、こうしたゆるーい時間が嬉しいんだろうと思うけど、でも、学校や部活の指導のなかで、バレーの楽しさとか、練習の楽しさ、もっと練習したい・・・そういった思いをどれだけ膨らませてあげれているだろうか?ということを考えるわけです。
バレーの楽しさや面白みをプレーやゲームの中に見出すこと、そのためには、実は「思考力」が必要で、ブロックやサーブ、ディフェンスやオフェンスの作り方や関連性を理解し、自ら選択採用していくということが大事であることなどなどを伝えています。
結果、ブロックやサーブの考え方、アグレッシブな攻撃参加など、成果が見られています。
よく、自主性とか積極性、能動的というアドバイスがありますが、それらは選手たちが自分に思考をもつことでなされますよね?
特に中学生たちなどをみてると、個人またはチームとしてのコンディショニング・・・どちらかというと、メンタル的な側面での自己管理が難しいのかなと思ったりします。ともすると、試合やゲームへ向けて自らのモティベーションを高めたり、ゾーンやフロー状態へ合わせるための努力を意識的にやっているか?やっていないだろう・・・と思うことが多いです。試合で勝ちたい、がんばりたいと思っている割には、そこまでの準備や入り方が、結構緩慢だったり、何となくだったりと、もったいないなといつも感じる時があります。
本番へ向けて自分のピークをどのように作るか、そして試合中や自分のプレーの調子をどのように上向けるか・・・こういった「セルフコントロール」や自己調整などは、いわゆる「自立」とよばれる状態へ向けた一つの入り口なんだろうと思います。その第一歩は、自分の調子にいつも注意を向けると言うことからはじまるのだと思います。
ですから、こういった部分も、積極的な思考力から来る「楽しさ」というものがキーになってくるんだと思います。
コーチの自身の動機に対する自問自答は大事
バレーボールをやめられない私にとっての理由、楽しみのひとつに、「人とのつながり、つながりの広がり」というのもあります。
一時期は勝つ喜びや醍醐味というのもありましたが、今はそんなことよりも大事なものだと思っています。自分は、小さな町とか地方で、地道にがんばっている人たちを見過ごせない性分にあるようです。なぜなら自分自身がそういった環境が出発点だったからというのもあります。今私は都市部にいて、環境も情報も恵まれています。だからこそ、私はこれからも地道に取り組んでいる人たちとのつながりは持ち続けたいなと思います。彼らと練習できるのは何時間もないわけですが、でもその中で、何かの成果やお土産を持ち帰ってもらうことも自分がやりたいことの一つです。
勝負というのは時として厳しい世界でもあって、ややもすると、勝てないと説得力がないなどと厳しい眼もある世界ですが、私は、今こうして自分があるのは、まさに人との出会いやつながり、支えによるもので、それらによって今の生活が充実しており、今自分の考えごとの材料やヒントもそれらによって得られています。だからこそ、これらも「人とのつながり、つながりの広がり」というのは、大事にしていこうと思っています。
コーチングできることが楽しいです。
指導することが楽しければ、プレーする子どもたちにも伝染しますよね?(笑)
間違いなく、私が部活を持っていた頃の自分は、その視点に欠けていたんだと反省しています。
子どもたちって、厳しさの中から成長することもあるけど、自由というか、自分に委ねられた時間の中で、自問自答したり、遊びの中で思考錯誤したり、リラックスした環境の中で思考やアイディアを育むようなそんな成長もあるんじゃないかなと、思ったりします。
「真面目な練習」「真剣な練習」とよく言います。
それって、何も厳しさだけを指すものではないと思います。
でも一方では、「厳しさ」に弱い今の子どもたちも何とかせねばとも思ったりします。
「楽しさ」の中にある「厳しさ」、「厳しさ」の中にある「楽しさ」といったところを何とか考えたいものです
(2013年)