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TOSSというよりSET。セットプレーである。

日本のセッター「トス」から「セット」へ・・・

「アシスト」という言葉は、サッカーやラグビーでよく聞かれる言葉です。
サッカーで言えば、得点を生み出すパス、得点に大きく関わるパス、という感じで使っているのかなと思います。
 世界のサッカーでは、巧みなパス技術で、味方を走り込ませてゴールへと導き、ゲームの流れを作ることができ、これらの技術を持つ選手をイタリア語では「マエストロ(演奏家)」と言うんだそうです。
 思えば、バレーボールでも、ブラジルのレゼンデは、「選手はソロじゃなく、オーケストラのメンバーだ。選手が '自分は特別だ' と考え始める時、(その選手は)終わる。」という言葉もありましたね。
 何か、音楽やオーケストラとサッカーやバレーボールにおけるシンパシーを感じるわけです。
 そこで、バレーボールにおける、その「アシスト」プレーで象徴的なのは、セッターから供給されるプレー、「トス」・「セット」というものです。

 サッカーでもどうやら、何を持って「アシスト」とするかの定義は必ずしも明確ではない部分もあるようですが、特に、「アシスト」というのは、攻撃をするも、相手チームのディフェンスがプレッシャーをかけてきたり、攻撃を遮断しようとしてくるような、よりコンプレックスな局面の中から、得点につながるパスを出すという要素が非常に重要になってきます。
 でも、バレーボールの場合は、「アシスト」はより明確であると思います。スパイクにつなげるボール、つまりはトスやセットと呼ばれるプレーです。
 昔から日本では、セッターがスパイカーにボールを供給するプレーを「トス」と言ってきました。トスは本来意味的には、つかんで投げる、放り投げるという意味合いが強いようです。
 しかし「セッター」ですから、セッターが供給するプレーは「セット」というのが自然なはずです。そこで「セットする」とは何をセットするかといえば、味方に攻撃させる準備や体勢を提供すること、端的には「スパイクさせる」ために、ボールをスパイカーにとって「ベストな状況」としてボールを提供することにあるんだと思います。

 このあたりの「トス」と「セット」のお話は、もうすでに数年前から日本でも議論になっており、セッターが行う「セット」とは、スパイカーのためになされるものであって、それはスパイクによる得点の「お膳立て」・・・だからバレーボールにおける重要なアシストプレーであると言えると思うわけです。

 そこでどうして、「トス」じゃなく「セット」だろう?・・・という話題になったかと言えば、長らく日本では、セッターがバレーボールのゲームの「司令塔」と言われるなど、なぜかゲームにおける攻撃の主導権がセッターにあって、スパイカーはセッターに追従する。またはスパイカーはセッターに使われるという風土があったからです。
 この「風土」という大変あいまいで、観念的なことが、実は21世紀の現代バレーにおいて、日本が世界に取り残される大きな要因の一つになったと考えられるわけです。
 このあたりの話は、別のところでやらないと長くなってしまうのですが、つまりは現代バレーの、ブロック戦術VSアタック戦術においては、「数的優位性」というのが重要になってきていて、攻撃側のスパイクでは、攻撃(スパイク)に積極的に参加することが求められる。だから、スパイカー各自の能動的、主体的な攻撃参加が必要であり、その中から「シンクロ攻撃」がなされてくるようになってきたわけです。セッターに指示されてから機能し出すようなスパイクでは、シンクロ性は絶対生まれないわけです。

 ですから、日本では「セッターは司令塔」だとか、「トスをあげる」という言葉を使い続けているうちに、自然と思考回路がセッター主導になり、スパイカーは受動的プレー、もっと言えば攻撃参加に極めて消極的になってきた背景がある。言葉ひとつといってもコワいもんですよね。
 そういった視点でもう一度、世界のセッターがやっている「セット」プレーを観ていくと、また見え方が違ってくるはずです。彼らは、常にスパイカーにいいパフォーマンスをさせようと、状況判断をし、そしてスパイカーの個性に合わせた、最適なセットを高度な技術をもって調整しているのです。
 
 セッターに求められるのは、雑技団や大道芸的な華麗な球さばきを披露することはないんですよね。セッターは、ただ単にボールをぶん投げているわけでもなく、ボールをピストルのように放射しているわけでもありません。他者であるスパイカーにアシストしているわけです。セッター、ちゃんとスパイカーに打たせろよ。スパイカー、カバーとか言う前に打ちに行けよ。ってね。

 サッカーでも、だいぶアシストの重要性や、アシストで光る選手が注目され、評価されるようになってきましたね。
 バレーボールでも、究極のアシスタントである、セッターのナイスアシストぶりにもっと注目や評価・・・つまりは重要な得点奪取を生み出す、またはスパイカーに最大のパフォーマンスをさせている、そういったことに論点がいけば、日本のバレーボールのアシストプレーも変わっていくんじゃないでしょうか?

セッターを特殊能力のポジションとしないために

 日本人のセッターでは、こういったクリエイティブな選手はあまりお目にかかれません。
 このようなプレーに対して、どうしても、映像の選手が何か特別な存在、特殊例だと考えちゃう人が多いのですが、そうではありません。むしろ、いつもそういう思考で「限界」をつくってしまうことこそが、日本人の中でこういうセッターになかなかお目にかかれないということも言えるのかなと思います。
 ただ言いたいのは、何もトリッキーなプレーをしろとか、アンダーからクイックを使えとかなんかではありません。
 しかし、「基本に忠実に」とか「ていねいに」などという指導が過度に求められると、選手たちの動きの自由度やプレーのクリエイティブさが阻害されてしまいます。

個人的に、決定的な違いを感じるのは、
スパイカーの打点とセッターの関係です。
ミドル付近でのクイックでは、ボールの高度でいえば、ネットから相当高い位置にあり、スパイカーの最高打点を引き出していると言えます。
またサイドへのセット(トス)も、スパイカーの打点を十分に生かせるような高さとほどよい球速を保っています。
こいったプレーには、

①セッター自身のセットへの考え方、
②セッターとアタッカーとの共通認識
③それを実現する確かな技術


が必要になってくると思います。
日本ではどれもまだまだ足りないのではないでしょうか。

先ほどトリッキーな・・・ということを書きましたが、
それも冗談は抜きにして、そのようなプレーが生み出すには、
確かな技術と、瞬間的なインスピレーションがないとできないと思います。
常に指導者からの指示待ち、言われたことを忠実にしようとするセッターは、こういうプレーは出現しにくいのではないでしょうか?

 確かに、セッターというポジションは、いつでも誰でもすぐにこなせるものではないかもしれません。しかし、映像にあるような様々なセット技術やスキルは、コーチから指導されたものもあるでしょうが、それ以上に個々の選手がもっているスキルを最大限発揮し工夫して、自らのインスピレーションで即興的に生み出したものであるとも言えます。
 特殊能力がなせる業ではない。このようなセッターが当たり前に出現するような指導環境を生み出せないものでしょうか?

(2016年)