選択から思考判断による対応へ
ワン・ウェイの危険性
何というか、物事とんなことでも、一長一短があり、メリットとデメリットがあるんだと思います。
あとは人それぞれが、自分の経験や価値観に則って必要性から、選択をしていくのだと思います。
ところが、人間の心理というのはインサイダウトな部分も大きく、どうしても一つの正解を求めたくなる傾向があって、見るべきものを見失っていることもあるんだと思います。
例えば、ブロックでは、
フロントして、ハンズアップでサイドステップから跳ぶ場合と、
ステイして、スイングをともなうステップから跳ぶ場合と、
それぞれにメリットもデメリットもあるわけで、
あとは、ゲームの状況やポジションや場面、戦術などによって、
その選択やみられるプレーが変わっていくのだと思います。
だから、どんな試合を観ても、
全部が全部サイドステップでのブロックでもないだろうし、
全員が全員必ずスイングをしてのブロックではないわけです。
観ていたらわかりますよね。状況や戦術によって、プレー局面は変わります。
しかし、時として、あたかも 「どちらがいいか?」という議論になり、
一方がもう片方を否定するというのは、どうなのかな?と思うわけです。
本当は、否定ではなくて、「デメリットの指摘」 ですよね。
だから、何かを考察しようとするならば、
「そちらのおっしゃることには~といったデメリットがある」
「ゆえに、こちらの~の方が~という理由でいいのではないかと思う」
「しかし、こちらには~といったデメリットがある」
「そちらが考えることのメリットは~だと思うが・・・」
などと、ちゃんと互いのメリットとデメリットを対等に並べて、
議論しなければいけないんじゃないかなと思うわけです。
そして、「どちらがいい?」と聞かれれば、
ユウジュウフダンで、ミーハーな私からすれば、
「どっちも必要なんじゃない?状況に応じて・・・」
と言ってしまいたいわけです。
さまざまなスキルや戦術の議論において、
欠陥や改善を求める意見が出ているのは、
あるスキルや戦術自体を否定しようとするわけではなく、
一つのことしかやっておらず、状況に応じた対応力、判断力に欠けていて、
ゆえにそれ以外の方法についても理解と実行力をやっておくことが
必要だということなんだと思います。
サイドステップからのブロックがいいのか、
スイングしてのブロックがいいのか、
それはその時々によります。そうなっちゃう時があります。
ただ、いずれにしても、片方しかできない、それ以外ができない、
こういったことが、思考力や対応力、応用力や創意工夫を妨げ、
戦術的な発展の足かせになっていることは間違いないと思っています。
逆も言えるかもしれません。
戦術的な発展に対する情報や知識が不足すると、
どうしても狭い判断材料でスキルを限定化してしまう側面もありますよね。
議論の中で方向性や結論を導くことも大事ですが、
その前提として、
なぜ、その議論が生まれてきたのか?といったバックグラウンドも
理解しておくことが必要で、
それがより建設的な議論には必要なのだと思います。
シンプルとコンプレックス
例えば、クイック か オープン かという二者択一的な視点になっちゃうと、パイプ攻撃やビック攻撃というものの導入はしにくいだろうし、ブロックもそれに対抗しようという思考は生まれませんから、バンチやデディケートなどといった視点やリードブロックという点にタクティスが及びにくいのではと思います。
確かに時間差やブロード攻撃が生まれてきた過程があったわけですが、それが戦術的に通じなくなってきた、戦術面における歴史的過程があったわけです。
ですから、近年では、スロットだのテンポというようなものを用いて、わかりやすく情報を把握したり共有できるような概念が議論されてきているのだと思います。
「シンプル・イズ・ザ・ベスト」
という原則が功を奏すこともよくあります。
ただ、「シンプル」というものには、二つの側面があると思っていて、
はじめから「シンプル」、つまりひとつのことしか知らない、それしかやらない。
というものと、
いくつもの選択肢をもっていて、知識や情報も多い中で、「単純化」を選択する。
というものとでは、見た目の「シンプル」でも、その意味や内容は、
まったく性質が異なるものです。
話は、スロットやテンポなどの議論に戻ります。
指定されたスロットやテンポでのプレー再生となると、かなりのスキル精度が求められるかもしれません。
でも、だからと言って、頭ごなしに単純化してしまうと、そのもとで育つ選手は、思考が単純化されたものが標準となるわけです。そこから、スロットやテンポの概念をもってやろうとすれば、きっと適応や理解に時間がかかるのではないかと思うわけです。
仮に、テンポやスロットなどといった、難解にとも思える情報を用いなくても、例えば、自由にどの位置からでも攻撃を仕掛けてよい、どんなタイミングでも、いってみようと思えば、助走をとってみてよい、ということが、自然なものとして選手がやろうとすれば、セット(トス)は、そこに合わせればいいことになるわけで、何も細かな選択肢の中で精密にやらなければいけないということにはならないのではと思います。
やっている側は、それほど緻密・精密な感じではなく、フリーな感じでやっていることが、外から見てるとあたかも、用意周到で綿密に計画されていて、高度なスキルでないとできないことのように感じちゃうという側面もあるのだろうと思います。
見る側からすると極めて高度かつ複雑なプレーのように思えても、やっている側からすると、その場の状況でできることをやろうというかなりシンプルな立場になっていることもあるんじゃないでしょうか?
シンプルか?コンプレックスの様相をもつか?
これは、「やるか」とか「させるか」ということではなく、
選手がやっていること結果的な姿を表現するものであると考えたらどうでしょう。
コーチが、見た目の複雑さを感じ ⇒ まだできないと決めつけ ⇒ やらせない
結果、選手はいつまっでたっても発展しない、思考が広がらない。
そういったことが、特に底辺カテゴリでの指導現場では結構課題としてあるんじゃないかと感じています。バックアタックなんかいらない、バックアタックをしても勝てない、最後はオープンで勝負・・・いろんなことがありますが、もう少しトップでも下のカテゴリにも、案外共通するプレーや戦術の要素というものが見直されればいいなと思います。
(2015年)