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敗者になることは怖いことではない ・・・ みんなで確かめ合いたいこと

負けをいつも恐れていた自分

 「後悔先に立たず」ですけども、自分自身、日々後悔の連続です。その中でも、もっとはやく学んでおくべきだったと思うのが、スポーツの精神、「スポーツマンシップ」や「フェアアプレイ精神」とよばれるものです。

 よく学校スポーツでは、最上級生にとっては引退とよばれるもの迎える最後の大会にさまざまな思いを寄せると思います。選手も指導者もそこにそれまでの努力のすべてをぶつけようとします。そしてさまざまなドラマ、結末が待っているわけです。勝利をし目標に到達できた喜び、敗者となって期待に応えられなかったことに対する悲しみ・・・いろんな一喜一憂がみられます。
 自分は、勝利の喜びも何度か味わうことができましたが、一方で敗者となって身を滅ぼしかけたこともあります。圧倒的に敗者として勝者の後姿を見つめていたことが多いです。でも、あとになって考えると、そこまで自分を蔑む必要もないことがわかってきます。その時は、ある意味での自分の未熟さ、弱さがそうさせたのだと思います。
 その「ある意味での」・・・というのが、「スポーツマンシップ」などに代表される、精神なのだと思います。

選手に伝えるべきことはテクニックよりも大事なことが

 最近では、女子サッカーのワールドカップ準決勝で、日本代表なでしこJAPANとイングランドの激戦がありました。結末は、イングランドのオウンゴールがありました。自チームにゴールしてしまったラウラ・バセット選手は、泣き崩れます。しかし、その後の仲間の選手や監督の振る舞いや、3位決定戦に勇気を振り絞って出場したラウラ・バセットの姿は、まさに強さを証明していると思います。

これらのスポーツマンシップ、フェアプレー、グッドルーザー、ノーサイド、リスペクト・・・といったスポーツのあるべき精神が、はたして、「指導者においてはどうなのだろうか?」ということです。

「sportsmanship」 =  「good fellow」(よき仲間) なのだそうです。

スポーツジャーナル5/6号 2003年 (財)日本体育協会 より引用↓
https://www.kouenirai.com/about-kouen/656-01.htm
英語には"He is a good sport."という言い回しがあり、彼は信頼に足る人物だという意味だ。
ある人が真にスポーツマンであるかどうかは、究極的には勝負に負けた時の態度で分かる。
なぜなら「勝ち」が至上の目的だからだ。
負けた時に素直に負けを認め、それでいて頭を垂れず、相手を称え、
意気消沈せずにすぐ次に備える人が真のスポーツマンだ。
なるほどそれがGood Loserであるならば、確かに信頼できるGood fellow(いい仲間)に違いない。

 私は学校でも「スポーツマンシップ」を詳しく教わったことはありません。もちろん指導者研修会でもメインテーマとして学んだこともありません。
そして指導者の現状として、「スポーツマンシップ」を、選手に浸透させている指導者はどの程度いるでしょうか?これは、礼儀とか礼節とは似て非なるものだと考えています。なぜなら、スポーツマンシップは、他者への気配り心配り、リレーションだけではなく、自分自身の思考のあり方でもあるからです。

グッドルーザーやリスペクトがバレーの発展を後押しする

 結果が出せなかったとき・・・私の自身がそうだったように、周囲では、「勝てなくて申し訳ない」、「選手は悪くない悪いのは指導者である自分だ」という言葉が飛び交います。敗れたことに対して、悔いと自分を責める気持ち、そして誰かへの反省と謝罪でいっぱいになります。意気消沈するわけです。
 でも、もしみんなが本当にスポーツマンシップというものを精神として根付かせていたとしたら、指導者の心の在り様も違っていたのではないか?と思うわけです。

 結果に対する受け止め方だけではありません。指導者間の敵対関係が生まれやすい状況も看過できません。そのことで、何かに排他的になったり、議論や学び合い、交流が妨げられる状況もあるように感じます。そういったことは、スポーツが単なる争いごととなっているからであり、指導者自身がスポーツマンシップというのを精神として身につけていないからのことではないでしょうか?他者を尊重し、自分の誇りも大切にする、そして他者と自分がともに存することを喜びとする。

敗者になってでしか学べない大事なことも多い

 最近言われだしている、「勝利至上主義の弊害」というのも、「スポーツマンシップの欠如」という側面で考えることもできます。
 もしも、フェアプレイ精神、リスペクト・マインド、グッドルーザー、ノーサイド精神・・・こういったことは、選手にやらせるものではなく、指導者が実践し、応援する者、観戦者、そして保護者も理解をしてはじめて、実現できることではないかと思います。そして、常に勝者と敗者が存在するスポーツでは、いずれになっても、何かを学び成長し、胸を張って次への一歩を踏み出せるはずです。

 目指してきた試合で敗れること、欲しかった結果が得られず敗者となること・・・それは、それまでの努力や思い出、そしてさまざまな労力や支援があったことを考えると、とても残念な気持ちになるのは正直なところです。特に指導者としては、選手や保護者に対して申し訳ない気持ち、さらには己の指導力などについていろいろ反省も迫られます。しかし、勝たねば味わえないこともあると同時に、全力で負けなければ味わえないことだってあると思います。その経験や学びは、勝者ではわからないことだってあると思います。その後の生活を左右する勝敗もあるのかもしれませんが、いずれにしても試合後にはそれぞれの人の人生と日常があるわけです。
 私たち(特に指導者)は、これまで極度に、敗者になることを怖がってきたのではないでしょうか?それゆえその恐怖をはねのけるために、常に自分や選手を鼓舞し、時には厳しく対峙してきたのではないでしょうか?

 でも、敗者になることは、決して惨めなことでもなく、自分の愚かさを露呈するものではありません。むしろ、周囲がそう評する風潮自体に問題があるのではないでしょうか?あの人は指導力がない、あの人では勝てない・・・確かに結果を求められる厳しい世界もあると思いますが、その中でも見失ってはいけない精神があるのだろうと思います。特に育成世代における、指導者はよくよくスポーツマンシップを学び自らそれを実践していかねばならないと最近特に感じます。

 敗れることは怖くはない・・・逆に言えば、試合で安心して敗者になる、勝敗など恐怖の対象にならず、競い合うことだけに集中できる、安全弁みたいなものがスポーツマンシップなのではないかと思うのです。そうすれば、日本のスポーツ界やバレー界にはびこる、さまざまな摩擦や軋轢、指導上の問題も良い方向に進むと思います。

なぜ、なにを、そんなに恐れているのか?

コーチをされているみなさん。
 なぜそんなに勝敗にこだわるのですか?敗者になることをそんなに恐れるのでしょうか?なぜ敗者になったときそんなに自分を責めるのでしょうか?そして敗北したとき選手たちを叱責するのでしょうか?
 時々、自分とじっくり向き合い、自己との対話をし、とことん考える時間を持つことをお勧めします。
 絶対に己の「エゴ」が見えてくるはずです。自分の名誉、自分の評価、自分の欲求・・・。私はそれ自体の存在が悪いとは思いません。いけないと思うのは、自分の本心に蓋をしたまま、「子供のため」、「教育のため」などと上っ面の看板を掲げていることです。これでは選手のためにもなりませんし、指導者自身も疲弊していくことを知っています。
 さらに言えば、バレーボール界のスポーツ界にある、さまざまな人間関係における問題も深刻です。保護者による指導者へ批判、指導者間のハラスメント、指導者の独裁的なハラスメント、暴言や体罰、陰湿な人間関係の摩擦・・・だからこそ、みんな競技結果の敗者になることが怖いのだと思います。

そんな不毛な現実を終わりにしませんか?みんなが楽しい、心を豊かにできるバレーボールの世界ができないかと考えています。
勝者になっても敗者になっても、前を向き、学び、成長できる。そんな無敵な精神があることを皆さんとシェアできたらいいです。

(2015)