説話だと思えばいい
マックにいた女子高生文学。あるいは電車の中で誰かが言っていた文学というか、そういう様式がある。
これらは事実の場合もあるけれど、自分の主張を自分以外の人間に仮託している場合も多いようである。まどろっこしく言ったが、「嘘」「でっちあげ」の場合があるようである。
最近は完全にネタになっていて、最後を「マックの女子高生が言ってた」で終わらせれば、何を言っても問題ないという感じになっている。以下のようなツイッターアカウントもあるくらいだ。
考えてみれば我が国では土佐日記の時代から、何かに仮託することで、印象を和らげたり、視点をずらすという試みをしてきたわけで、マックの女子高生を使うのも自然なことなのかもしれない。
ところで、先日以下のツイートが話題になっていた。
なんとなくモヤっとするツイートであるが、それについてはおいておく。このツイートのツリーとか返信欄を見ると、そのとき作ったであろうお菓子の画像もあるので、本当の話かもしれない。
僕は人の話を間に受けるタイプのおおらかさを持っているのだ(ほんまかいな)。
こういった何か主張のために作られた話というのは、耳目を引き、時に批判の対象になるが、われわれはこの種の話を喜んで見ていることもあることに思い当たった。
これって水戸黄門ぽくない?
水戸黄門はご存知の通り、この紋所が目に入らぬかーの勧善懲悪物語である。悪代官はあくまであくどく、黄門様は清廉潔白である。
そんなことをぼんやりとマックで考えていると、近くの席に座った女子高生二人組がこんな話をしていた。
「痛快TVスカッとJAPANってマジうけるよね」
「ああ、あの勧善懲悪の嫌味なやつを吊るし上げる番組ね」
「そうそう。パパがこれじゃ水戸黄門だなとか言っててマジ意味不明」
「まじ紋所www。なんだよ黄門てwww」
「ああいうのは、わかりやすいキャラクターにわかりやすく動いてもらうことで教訓を学べるところがいんだよなとも言ってた。」
「なるほど。じゃあ嘘か本当かは関係ないね。ある意味説話だね」
「そうそう。だから嘘っぽい話でもやっとしたらスカッとJAPANなんだなとおもえばいいね」
「世代によっては水戸黄門でもいいし、なんなら「むかしむかしあるところに」って頭につければいいよね」
「わかる」
オカオ「わかる」