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旅文通10 – ニューヨークのピンク、ある?ない?アッパーイーストありません –

旅から戻ると。
余韻を楽しむ間もないまま日常へと、まるでマンハッタン上空から細切れの野菜が煮えるスープの大鍋へ落下するようで、なんだか恨めしい。熱々の野菜スープに溺れながら、なんとか手足をバタつかせて泳ぐ。たとえ鍋の縁で頭をぶつけようが、スパイスが目に沁みようが、あたりまえのこととしてあるべき暮らしに戻ってゆく。

この夏の旅から戻った直後は不思議な感覚を味わった。帰った翌日の朝にあれ?と、気づいた。
それがどういうものだったかというと、初めて味わうある種の体感であり、気持ちの状態のようなものだった。自分自身の周りから一切を払いのけたような感じ。皮膚の近くに何もなく、なんとも爽快で、究極にすっきりしている。真っ白な何もない空間にひとりで浮いているような具合で、荷物もなくただそこにいる。その意味するところはわからないものの、とにかく珍しく好ましいそのステート=状態、をキープすべきだと思い、大切に大切に壊れないようにしていた。 
それは何だったのかはまだはっきりとわからない。
私の身体の周りにいつも漂っている目に見えない暮らしの匂いや何かの残像やノイズが、すっかり消えてしまったようだった。その気の軽さは格別で、つまりそれがまさに旅で得た気分転換だったのかもしれない。
気分転換最高!

やすこさんの前便は、いつになく問いかけをたくさんもらったので、ひとつひとつにお返事を書きたくなっています。

ピンクの服。こちらアッパー・イースト・サイドでは誰も着ておりません。笑えます。厳密にいうと私ひとりです。それもまったくバービー映画とは関係なく、去年の年末セールで買った真っピンクのパンツです。数ブロック先の映画館でも上映されておりません。ここはいったいどこなのでしょう。ダウンタウンへは地下鉄に乗ればすぐですが、実質アッパ・イースト・サイドは高齢者の多いエリアなのです。だってね、うちのそばにホールフーズができたとき、大型スーパーの開店祝いらしく買い物客にショッパー・バッグが配られましたが、そこに描かれていたのは老夫婦が静かにベンチにすわっているイラストでした。食品購買欲を掻き立てることのないそのバッグを私はもらいませんでした。

アヴェニューAのベビー用品店、覚えていますとも。あの店のそばに住んでいたとき、一度だけ入ってみたことがあります。こういう店はいったい何を売っているのだろうという好奇心で。そこにはストローラー(日本ではベビーバギーと呼ぶ方が多いでしょうか)がるいるいと並んでおり、私はしげしげとそれを見下ろして「いつか私がこんなものを使う日がくるのだろうか」と、ひとりごつ。あのローカル色麗しい店がゴルフ・ショップになるとは。住人の劇的変化を感じざるをえません。

名画座はマンハッタンにどれくらい残っているのでしょう。日本ではどうでしょう。昭和時代にはできる限り映画をたくさん観たい学生の願いを叶えてくれる2本立て上映や、4本立てのオールナイトを上映する小規模な名画座がたくさんありました。私が日本で最後に行ったのは浅草六区の劇場で、昭和の終わり頃だったと思います。館内の売店で焼きそばパンを買い、オールナイトで昔のクレージーキャッツ映画を小さな布製のシートに座って数本観ました。
中学生のやすこちゃんは、映画音楽に導かれて名画座に通い始めたんですね。やすこちゃんの世界がすごい速さで細胞分裂していた背景には、映画や音楽などミックスした文化が、びっしり養分としてあったのだと合点しました。現在のやすこさんの姿とぴったり重なります。人はほんとうに変わり続けるけれど、そういった魂のシステムみたいなものはなかなか変わらないもので、人間の本性というのは愛おしいものですね。
名画座というと、かつて私にも特別にご贔屓の場所がありました。高校生の頃、まるで仕事のように熱心に通ったのは、大阪の堂島にあった大毎地下劇場でした。昼間なら2本立て。「天井桟敷の人々」のようなフランスの戦前に制作された白黒作品から、ロードショーが終わって数年経った旧ソ連の「惑星ソラリス」など映画ファン好みのものも含め、幅広く海外の名作を観せてくれました。確か木曜日だった気がしますが、放課後、新しい2本立てがかかる初日には、市内まで電車を乗り継いで観に行きたいわけです。私服の高校だったので着替える時間は要りませんが、それでも授業を最後まで出ると映画を2本観て夕飯までに何くわぬ顔で帰宅することができません。そこで上映が新しくなる日はいつも、午前中の4時間目が終わるや否や、校内のどこかにいる担任を探して「先生っ!」と声をかける。すると向こうも慣れたもので、「あ、山本、早退か?」と穏やかに応じてくれました。あの先生が私の早退理由を一度も訊かなかったのは、優しさだったのでしょうか。

ちっともお返事が進みませんね。ごく簡単に簡潔に返す言葉もありそうですが、それではどうも味気ない。するとどんどん長くなる。
続きはピンク色のバービーが溢れるダウンタウンのバーかどこかで。

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