旅文通2 - リスボン
さて、私のリスボンに至るお話。
ある年、空腹というものを経験した。
ひと月ほど入院している間、数十年に渡ってくり返してきた物を食べるという習慣が禁じられ、アメひとつさえ何やらという成分が入っているゆえ云々と、主治医から許可が出ることはなかった。未曾有の空腹感を経験するうち、しだいに食べ物は空想の中で、どこか遠いが確実に存在する夢の世界に浮かぶ色とりどりの雲になって、夜な夜な虚しく魅力を増した。
その後、退院し、回復し、ごぼうのように痩せた身体が新鮮な大根になった頃、ようやくクローゼットから旅行鞄を引っ張り出した。
行き先はポルトガル。私が住む東海岸のニューヨーク市からイベリア半島へは約7時間のフライトで、日本へ行く距離のちょうど半分。ヨーロッパへの近さをありがたがりながら、海に面したリスボンに到着した。
するとそこには鰯の大群が町じゅうで泳いでいた。まるまると太った身体を横たえたまま塩焼きにされ、こうばしい匂いを漂わせながら付け合わせのじゃが芋にかしずかれた姿ではあったけれど。食堂でもレストランの外の席でも人々は焼きたての旬の魚を見下ろしていた。ある広々としたトイレには壁一面に鰯が描かれており、雑貨店の軒先には鰯を形どったキーホルダーなどが釣られていた。
この街のサルジーニャ(ポルトガル語でイワシはこういうそうです)への想いは相当なものだと認識し、また私にとっては大空腹を経験したあとだったゆえになおさら、そんなにもおびただしい数の鰯が街をあげて盛大に迎えてくれたのは愉快だった。
リスボンで何匹目のサルジーニャを食べた日だったろう。是非行ったみたいと思い、だいたいの位置を下調べをしていた場所へ向かった。
それはただの階段ではあるが、マノエル・ド・オリヴェイラ監督が映画“階段通りの人々”という作品を撮影した場所だった。特に名前がついている人気スポットではないのでみつけられるかどうかはわからなかったが、それほど苦労することなく行き着いた。
少し湾曲して伸びるそこそこ長い階段を囲むように、住宅が並んでいる。
映画ではその階段で生きる貧しい人々が、それぞれの思惑で日々をしのぎつつ、上り下りをくり返していた。映画の撮影から数十年が過ぎて、私が見る現在のその場所は、誰が描いたのか、壁も扉もそこらじゅうカラフルにスプレーされたグラフィティでいっぱいで、かつてオリヴェイラが撮った薄暗い悲哀は消え去り、くったくない抜け道に変わっていた。
階段の一番上の家には三階建ての家があって、最上階の窓を開け放ち、洗濯物を干している男性いた。彼の窓は落書き野郎どもには届かない高さにあり、規則正しく並んだポルトガル・アズレージョの青と白のタイルに囲まれていた。タイルには雨ざらしで古びたもの独特の良さがみてとれた。私にとって小さなミラクルだったのは、窓の彼の干すシーツらしき洗濯物の青がまさに、その色あせたタイルの青とまったく同じ青だったこと。
旅先で映画のロケ地を訪ねるとき、かつて観た作品の中のシーンと、現実に今日みるその場所とのギャップをどうしても見比べることになる。いかんせん現実の方がずっと素敵じゃなかったとしても、いつもどちらからも受けとるものは多く、どちらも好きになって通り過ぎる。
階段からの帰り道、石畳の上に並べられたテーブルにはやはり魚群が横になっていた。空腹だったがさすがにちょっともういいな、という気がする。
ふと目についた果物の屋台で、小さく丸めた紙のコーンの中に盛られた苺を買った。そのままそこに立って、知らない人や犬を眺めながら半分ほど食べ、残りは持って帰ろうとして屋台のお兄さんに包んでもらおうとしたところ、あやまって苺を何粒か落としてしまった。苺は坂道を下りるように足元を転がった。すると屋台のお兄さんは私の苺のコーンをさっと彼自身の手にとって、「身体にいいからねっ」と言いながら、苺をまた山盛りにしてくれたのだった。