家族の思い出
子どものころの食事ってどんなんだっけ?なに食べてたっけ?と考えていたのだけど、茹でた甘海老が山盛りのった大きなお皿がテーブルの真ん中に置かれていたこと、ひとりでイカのお刺身を食べたこと、お気に入りだった黄色いプラスチック製のボウルにすりりんごを入れて食べていたこと、しめ鯖をおいしいと食べていたら母が大きな半身を買ってきてくれて一気に食べて嫌いになったことなんかを思い出した。いわゆるおみそ汁とごはんと大きいおかずと小さいおかずがふたつくらい、みたいなごはんの記憶がないのだけど、忘れてるだけなのか、本当に我が家では出てこなかったのかは思い出せない。
わたしはずっと母子家庭で育ってきたのだけど、ほんの数年間、ごく普通の、よくある家庭だったことがある。住宅街に建つそこそこ立派な黒い一軒家に父と母とわたしの三人で住んでいた。ちなみにそのときの父は二人目で、本当の父のことは記憶にない。
そのときのことをたまに思い返すのだけど、なんとなく現実だったのか夢だったのか曖昧な感じになる。たしか幼稚園から小学校の二年生か三年生くらいまで続いた暮らしだった。幼いわたしは屈んだ父の背中に乗り、ゆっくり立ち上がる背中に落ちないように掴まってきゃあきゃあ言って笑っていた。たぶん父も笑っていたと思う。それをねむる前の時間にしてもらうのが好きだった。そういう他愛もない出来事の一方で、真夜中に一軒家に一人きりで眠れず、母の勤務先に電話をかけたことを覚えている。今となっては真夜中に幼稚園児が一軒家にひとりなんて非常事態だと思うのだけど、何故かそのときはひとりだった。母の勤務先というのはいわゆるスナックだかクラブだか、とにかく夜のお店で、電話するまでものすごく悩んだ。電話機の横にスヌーピーの電話番号帳が置いてあって、それを捲っては閉じて、またねむろうとしてもねむれなくて悲しかったのを覚えている。いよいよもう我慢がならなくなって電話をかけた。ボーイさんのような人が出て、詳しいところは忘れたけれど、何故か知っていた母の源氏名を告げた。そのときのわたしはすごく泣いていて、ねむれないと言ったと思う。それからしばらくして母は昼も夜も家にいるようになった。それからもっとしばらくして父が何事かに激怒しながら荒々しく蛇行運転をする車の中で泣き叫んだ記憶を残して家庭は崩壊した。
わたしの記憶の中にあるごく普通の家庭の思い出は本当は普通でなかったのかもしれない。ただ両親とわたし、最小の一般的な家族のピースがたまたま揃っていただけなのかも。けれど、階段横の棚に置かれたわたしが幼稚園で作ってきた紙粘土のベルや、毎週末レンタルビデオ屋さんに3人で行ったこと、そういう些細なことが片隅にちらつくと、あれはあれで一応家族として見てくれは成り立っていたんだなあとも思う。そしていま現在、わたしが家族だから、血縁だからということになんの執着もなく、ただ人として気が合う合わないということだけを頼りにしていることと、この家庭環境にはなんの関係もないように思う。何故だかはわからないけど、たぶんそう。どちらかというと、毎週末レンタルビデオ屋で「妖怪人間ベム」や「キョンシー」を好んで借りては何度も見ていたことのほうがよっぽど人格形成に影響を及ぼした気がする。ディズニーの「クリスマスキャロル」を見たのもこのころで、わたしの中ではもうすでに親が子に自分のぶんの食事を分け与えることに違和感を覚えていた。もしかするとその時点で、家族に期待や執着がなかったのかもしれない。それかまったく逆の、ごく普通の心身ともに健やかな家庭に憧れ過ぎて、冒頭のミッキー家族が見ていられなかったのかも。今の執着がない、というのも実はそういうことだったりするんだろうか。
どちらにせよ、とにかくディズニーの「クリスマスキャロル」は「ダンサーインザダーク」と同じくらい二度と見たくない。ディズニーより台湾の桃太郎、そうやってわたしは大きくなったのだ。家族とかそんなことはどうでもいい、台湾の桃太郎を見よう。