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【定番をめぐる】vol.1-2清水寺|境界の鴨川、かつての生と死の境界を垣間見る

さて、vol.1-1ではひたすら背景だけを書いた。

京都通の方にとっては、知っている部分も多かったかもしれないが、少しでも学びがあれば嬉しい。
次は京阪清水五条駅から歩くことを想定して、順を追って書いていく。
惜しみなく書いていくので、現地ツアーへの導線としてどうなの?って感じだが、まずアウトプットかなと。
ぜひGoogle map を開きながら、読みながらなぞっていってみては。
次のまちあるきの参考になることを願って。


清水五条駅~五条木屋町まで歩く

どこかへ行くときに、できるだけ近くまでタクシーで行く人もいる。
京都にきたら、目的地までの道にすら色々な楽しめる雑学が散らばっているので、ある程度近くまで行ったら少し歩くことをオススメする。
今回は、清水五条駅を始点に歩き始めてみる。

まず五条大橋から、鴨川を眺める

五条大橋から南を見る。いつ見ても美しい。

五条大橋は見どころ満載な橋で、ここにいるだけで30分くらいは楽しめる
気がする。先に書いておくが、vol.1-2 ~3の大半は五条大橋から先には一つも進んでいない。(五条大橋~五条木屋町まで)
ぜひ気になるところだけでもかいつまんで見てほしい。さて、五条通については後程触れるとして、まずは鴨川に思いを馳せてみよう。

鴨川は境界であり、道であり、余白である

皆さんご存じの通り、平安京ができたとき鴨川は都の東端に境界として
位置していた。都がその場所に置かれたのは理由があり、川が防壁の役割を担っていたためだ。

現在の川幅はこの地点で、約50m。
しかしかつて鴨川の幅は、約300mほどはあったという。平安時代は
もっと広かったであろう。
実際今見てみると、河原町通~新宮川町通までが約300m。

このくらいだろう。西端は河原町通という今の京都のメインストリート。

ひ、広い。確かに防壁たりえるし、渡るのも一苦労であったろう。
そしてそんな国境線だった川は、京都人にとって別の境界としても認識されていた。

『生』と『死』の境界だった、鴨川

三途の川、というものは何となく日本人の死生観の中に組み込まれている。
世界中に共通するような川の話があることから、元を辿れば他の場所からきた信仰であろう。

平安時代以来、鴨川の向こう側エリアは、鳥辺野(とりべの)と呼ばれる
葬送地だった。

当時の庶民の葬儀の方法としては、「風葬」または「鳥葬」が主流。
そのまま死体を置いて、朽ちるに任せ、そして鳥が食べて処理してくれるだろう、というやり方だ。人間も自然の一部、自然のサイクルの一部であるという信仰が窺える。
藤原道長もこの地で葬送されたという。(身分の高い人は、火葬されていた)『源氏物語』にも出てくるというのだから、かなり一般的な葬送地だったのだろう。

今だと大体「大谷墓地」のあたりだろう。今は死体ではなく、お墓が立ち並んでいる。
https://photo53.com/otanihonbyo.php

そして、そこに死体を運んで行くには鴨川を渡らなければならない。
まさしく、あの世への入り口だったのだ。その向こうには、どんな世界が
広がっていたのだろう。どんな思いで人々は、川を渡っていたのだろう。

河原は、処刑場/首さらしの場でもあった

鴨川の河原自体も、『死』の現場だったこともある。
今日多くのカップルで賑わっているような河原は、かつては処刑場であり、首さらしの場だったのだ。

多くの著名な武士などが、鴨川の河原で処刑されている。(平将門、源頼朝の祖父、平清盛の叔父、石田三成、小西行長、石川五右衛門など。知ってる人は知ってる?)
日常生活のすぐそばで、人の『死』を目の当たりにするというのは、どんな気持ちだったのだろうか。恐ろしいことに、案外慣れてしまうのかもしれないが、、、

平将門の首塚(東京大手町)。意外にも参拝の人が途絶えないスポットだ。

ここで処刑された人々にまつわる物語は、怪談となり京都の民間信仰に繋がっていたりもする。あまり怪談自体に興味はなかった(というか、普通に怖い)が、当時の世相や人々の畏れが物語や絵画に反映されているというのは
興味深い。

鴨川を渡れば、あの世の世界の痕跡が広がっている。
「死」が今より身近にあったかつての人達の生き方は、どんなだったろうか。

お盆に迎え火をたいたり、お墓で祖先に話しかけたり、山深いところで何か言い表せないものに畏れを感じたり。
あの世の世界が、この世と繋がっているという感覚は何となく私たちの深いところで、残っているのかもしれない。

では、また次回に。

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