言葉の威力

言葉には力がある。クリスチャンが使う言葉には尚更。だって内に主が共におられるのだ。マイナス、ネガティブな言葉を使えばその刈り取りもある。クリスチャンが言葉を扱う責任てデカいなぁと。ネガティブな事や御言葉にそぐわない事や神を呪う言葉を使った聖徒の刈り取りが悲惨であるという証を、ルークさんの動画でよく聞く。この↓ルークさんの動画は本当に素晴らしい。あぁ…ハレルヤ…。

神はこの世界のすべてを創造する時言葉を口にして造ったのだ。動植物や人間を造る時もすべて。そしてすべての約束を言葉でした。神の似姿に造られた人間が使う言葉、力が無いと思う方がむつかしい気がする。↑だけでなく他の動画でも、アダムは超高機能であったろうとルークさんは話す。すべての動物の名前をアダムが呼べばそれがその動物の名前になった。アダムはすべての動物に名前を付けた。そしてそれを覚えていたのだ。記憶力。神の似姿に造られた人間。その高性能さたるや。

身近な人に言葉の持つ影響力を少しだけ説いた。キリストを信じていない人にとっても分かり易いものだと思う。言葉。悪い言葉を使うのが癖な人で演技でなく心から幸せに生きている人に会った事が無い。健やかだなぁ幸せそうだなぁと明るく輝いて見えた人は、その言葉と心根、物の見方が軽やかで無理がなく健やかだった。否定で見ないのだ。引き算で物事や人を見ないのは、とても大切な事だ。幸せに生きるキーだと思う。振り返ってみると、自分の扱う言葉を刈り取っている事って物凄くある。ありまくる。

言葉を変えると自分の心根が変わる。見方が変わり自己認識が変わる。そういう人間へ周りからの扱いが変わる。人生が変わる。体験談。嘘みたいな本当の話。やってみるといい。変わるから。分かるから。でもど–しても愚痴を言いたい時だってあるじゃんか‼︎ってのはそらそうですわな。それはね、神に申し上げるのがよいと思う。神様はなんでも聴いてくれる。神の御前で話す。勿論人と会話をする中で貰う暖かさとかってあるから、人と関わるのがよくないなんて事は全く無い。無い。人との関わりの中で育まれるものってあるのだ。人間関係だけでなく、自分や相手や周りの成長も然り。ただ、あんまり否定的な見方や独りよがりな偏見で物を言うのを披露するのはね、まぁ、よくないものを刈り取るのだ。言葉には力がある。冷静に認識して賢く用いてゆくのがよいなと思う。言葉で力付ける事って出来る。支える事って出来る。それが必要な時って人生にある。神が人間に口と言葉というコミュニケーションツールを与えた意味があると思うのだ。意味無かったら神は与えないと思う。折角与えて貰ったものをどう用いてゆくのかは、私たち一人一人の責任だなぁと。言葉の影響力をあまり認識していない人って多いのなって日々思う。でも、皆んな懸命に生きて来ての結果なのだ。だからってほいほい人傷付けるとかふざけんなってお話なのだけど。皆んな懸命に生きて来ても間違える。じゃあどうすればと言うと、神を知り受け入れる事。神が世界を造り人を造った。神の法則がある。神抜きでは健やかでいられないのだ。懸命に生きて来て間違える。哀しい事だ。報われないと思う。こんなに頑張って来たのにって。私はそうだった。だからどうか、受け入れてくれますように。フォアグラみたいにアヒルの口開けてガガガガッて突っ込むみたいにしなくても、手を開いてふわり広がるようにただ渡せば響く。それが愛だ。無理くりガーンて投げたら伝わるものも伝わらない。私それやったのだけど。必死だったけどそれやられた方としてはこちらの必死が伝わっちゃって怖いどころじゃないと思う。我ながら青かったなぁと。

伝道も必要だけど、ただ神との交わりの中で日々幸せにクリスチャンが生きているその姿勢と表情で人々が「?」となるってあると思う。姿勢で示す。示そうとしてなくても勝手に響いている。今口を開く時かと思ったら話せばよいのだと思う。適切なタイミングってあるのだ。無理してグググググッて生きてる子供(クリスチャン)を御父はどう思うかなぁ。私が親なら、心配になる。そんなんなってまでいいよって思うと思う。幸せでいて欲しいもん。愛する子がもう存在してるだけで幸せなんだろうと思うけど、ぁぁパパ幸せ–って笑って生きてる子をやはり見たいのが親心なのではと思う。力んで踏ん張って無理して生きろなんて神は、言わない。神がやってくれる。神が一緒にやってくれる。嫌だな–って事は申し上げればその心を変えてくれる。健やかに出来るようになる。らしい。私はここはまだ通っていないけど。

パパは、最高をくれるんだ。やっったぁ–。イェーイ
最高のパパを持ったぜ。

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