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組織にTransparency(透明性)を導入する大変さ

台湾の天才IT担当大臣、オードリー・タン氏は活動の全てに「ラディカルな透明性」を実施している。日々のスケジュール、会議での発言、インタビュー内容、訪問者との会話は全てサイトに公開する。余計な衝突や誤解を減らし、相互理解を促す上で「透明性」は必要不可欠な要素である。

私の組織の発足は2012年であり、人材も18-26歳であるため、新しいことを導入しやすいフレッシュな組織であるが、ボーイスカウト運動そのものの大元組織は100年近い歴史のある組織であり、良くも悪くも「昔ながら」が残っている。「透明性」の導入が大変な理由の多くもそこにある。

オードリー氏の透明性は確かに「ラディカル」であるが、これからの社会と組織において「透明性」は極めて重要な考え方だと思う。そんな私が自身の組織に「透明性」を導入した時に大変に感じたことや、改めて理解したことなどをまとめておく。

「情報の公開範囲」で組織内の階層を切り分ける簡単さと、それの問題点

「情報の公開範囲」で階層わけを行っている組織は今でも多くある。
  「それは課長クラスにならないと分からない。」
  「この情報は部長までで留めておいてください。」
などなど。だからこそ、部長以上でしか知らない情報を課長以下が知って入れば、その人は優位に立てるし、そのような情報をゲットする上で社外での交流(夜の飲み会など)が必要になっている。そのように「情報を誰まで公開するか」と「組織内の階層(役職)」とは相性がよく重宝されているが、もはやそのような組織運営は過去のものになりつつある。

単純に言えば組織内に「情報格差」が生まれているわけである。健全で持続可能な組織とは言えない。同時に組織内に情報の濃淡がある場合、組織「全体」として動くスピードは著しく低下する。組織内にミッションやビジョンを浸透させる重要さが叫ばれて数年が経つが、その浸透を阻害しているのは組織内の「情報格差」であり、それによる本来は存在しない「組織内の壁」である。

「それ、本当に公開してはならない情報ですか?」

どれだけ透明性が重要だと言っても公開してはならない情報は確かにある。個人情報や人事的取引など。しかし、それらを除いた大部分の情報は「本当に公開してはならない情報」だろうか?

「なぜ公開しないのですか?」と問いかけると、大抵以下のような回答が帰ってくる。
  「未確定なものであるため、混乱を生じる可能性があるから。」
  「他部門には関係のないものであるから。」
ではなぜ未確定なものは混乱を生じるのか。結論は「混乱を生じる場合はあるが、原因は『未確定であるから』ではない」である。混乱は議論内容によって生まれるものであり、確定・未確定には依存しない。適切な説明とタスクわけ、何をどこで決議をとるかなどを明確にしながら議論しているならば、議論内容を見ても混乱は生じないであろうし、それでもし混乱が生じるのであれば「議論の仕方やドキュメントの使い方」に問題がある。また見る側が不適切に情報の一部のみを切り取りデマ化することもあるが、それはその人の読解力と人間性の問題である。
また、必要のない情報である、という意見もあるが、「見ようとしても見れない」と「見ようと思えば見れる」は天と地の差であり、その点に関する議論になる。

組織内へのSlackの導入と、全ての連絡をSlack上に限定

私自身が代表になったその日のうちに、運営委員会での全てのやりとりをSlack上に移行し、それまで使用していた全てのクローズドな媒体(Cybozu、一部のみ参加するLINEグループ、メール)の使用を停止した。また、早急にSlackガイドラインを作成し整備を進め、2ヶ月と少しで各県の代表もSlackに招待した。この時、運営委員会が使用するチャンネルのほとんどはオープンな状態であり、誰でも見れる状態にした。これは今では慣れているが実際はかなり勇気のいるものだった。これにより「運営委員会が何をしているのか」誰でも見れるオープンな状態を実現した。

透明な組織と人の流動

「情報の公開範囲」によって生まれていた壁が一気に無くなったとき、組織は急激にフラットになる。例え末端の人間でも組織の中枢が行っている議論内容にアクセスできるのである。疑問と自身の意見をもった人間は中枢へと進むことができ、これは意思決定への参画を実現する上での最初のステップとも言える。逆に中枢には「見られている」緊張感が生まれる。適当な議論はできなくなるため、真剣に取り組むようになる。組織内の「透明化」は程よく緊張と流動を促し、持続可能性を向上させると考えている。

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