
世界覚書
↑保育園の頃の自分。なんもわからずダブルピース。
↓二十数年生きたワイの文章。
歴史は結局、繰り返されるらしい?
人間って進化したし、スマホとかパソコンとか発明して凄そうなのに、なんか結局戦争とか始めてしまう。どれだけ寿命が延びても百年周期でほとんど前の世代がいなくなると、結局歴史なんか継承されないらしい。己が血脈に疼く熱狂が代々受け継がれ、狂った為政者を持ち上げることはドナルド・トランプしかり昨今の地方選挙とか見ればわかることである。
歴史から学ばなければ同じことを繰り返すというが、同じことは戦争という形だけで、中身はまるっきり違うように思う。第一次世界大戦で、ドイツとイギリス間でクリスマスだけは休戦しよういうことで設けられた、一時停戦も夢のまた夢というか、そんな慈悲はその後一切の戦争に見受けられなくなった。新兵器はますます多くの人を焼き尽くし、今こそ落とされてないものの原爆も生まれ、そして落とされた。そして原爆こそ落とさなくともガザはすでに原爆越えの火力で民を焼き払っている。最近は以前にも増してドローンが活躍。子供や女性の悲鳴を搭載し、助け出そうと出てきた市民を殺したという報告がガザで確認されている。
ガザ地区で長らく報告されている、子供や女性の音声で市民をおびき寄せるイスラエルのドローンの件、AJの調査チームのまとめ。確証を得にくい事柄ですが、かなり具体的な事例や証言が蓄積しています。報告のとおりなら非道としか言いようがないhttps://t.co/GJbKqRaNMp -
— dmitsuzono (@dmitsuzono) December 2, 2024
銃の病。
我々は、遠くのものを殺せることに慣れてしまったらしい。
槍から弓、そして銃。それは大砲、手榴弾、果ては大陸間弾道ミサイルに。ドローンもそのうちの一つだ。距離が離れれば離れるほど、相手がまさに生きたものであるという実感を感じなくて済むらしい。ドローンでの狙撃はゲームのようですらある。ただ、そんなドローン攻撃でもPTSDを患う人がいるというのを以前動画で見た(https://youtu.be/dafZLBKMtnk?si=XqMonjV4Djs3GCLq)。こちらがトーチカのように如何に安全な立ち位置だろうと、相手の命を奪ったことへの呵責、罪の意識があるなら、まだ人類は人であるらしい。ならなぜ始めるのか、戦争を。
今テーブルに置かれてる肉も、生きるために必要だがもう誰も狩られて捌かれている現状と結び付けないだろう。野蛮さは根源的に消すのは不可能だと思うが、ならばそれを闇に押しやってしまっていいのかとも思う。食肉加工現場はそういう閉ざされた場として最悪の吹き溜まりになりがちである。反動としてのビーガンの加熱もある。
距離のあるものに撃ち込まれる別の例として、言葉もある。SNSはまさに遠い相手への暴力と殺害を可能としている。ペンじゃ人を殺せないが、言葉にはそれができると言ったのは寺山修司だっけか。開示請求したら、案外身近な人、親や家族が当人を匿名で責め立てていたというケースも少なくはない。
こういう形のものは全て銃としてひとくくりにしていいと思う。もしそうなら、この日本じゃ銃刀法違反で捕まっちまうね。寺山修司は、覗きという名目で捕まったことがあったが、何よりその言葉という凶器を持つ詩人の取り締まるきっかけとしての覗き見であって、現行の法では取り締まれなかっただけのことである。詩人が死んでも、書かれた言葉は未だ凶器として図書館にしまわれている。図書館、武器庫か?
加害者を認めない。
加害者に人権があるくらいには近代はまだ成長したと言えるが、実際に加害者が世に更正して立ち直れるのは難しい。社会が許さないし、おそらく自分も許せない。そういうことが結局は、自分の加害性をどこまでもひた隠しにし認めないことにつながると、ここ最近やっと気がついた。
人は、生まれてこのかた一定の空間を肉体で占有している。その肉体は次から次に別の命を奪ってできた食事なるもので満たされなければならない。侵犯に次ぐ侵犯である。また、子孫を残すための性交は、それだけで他者の身体への侵犯である。これだけあれば、そりゃキリスト教も人間は生まれながらに原罪があると言うのも納得である。
そしてその侵犯なしに実は生きる術はなく、人みな加害者である。ただ、それは社会に生きる上では矯正されていかなければならないので、認めて正すことが必要なのだ。ただ、現状は異常者を弾くことで自らの異常を指摘させないだけのことであり(だから糾弾する声はデカイ。ただデカイ声で糾弾してるから「そう」とは言えない。つまりイコールではないです)、根本の社会でみんな仲良くとは程遠い事態となってる。
そして、加害性に無視を決め込むだけで大統領にまで成り上がったドナルド・トランプという事例がある。あれを支持するというのは、自らの加害性を肯定してくれる期待の星なんだろう。結局この加害性にうまく向き合えないと、誰かを生贄に捧げて爪弾くか、逆に自らの加害を肯定する方へ開き直るかの二択になってしまう。
システムという名の神。
「お客様は神様です」ではなく、それを司るシステムが神様なのである。日本は顧客を甘やかしたシステムで、クレーマーとか色々威張った人がいるけど、全部そうさせたシステムが悪いんです。
一応調べたけど、古代ギリシア語のσύστημα(スュステーマ)「組み立てた物」の意が語源らしい。こんだけ神扱いされてるんだから、神様かなんかの名前が由来かと思った。
システムというのは素晴らしいものだが、ちょっとしたことでバグ大量発生が起きるものだ。法や憲法が分厚い本や文書でギチギチなのには、そういうバグを発生させないための厳しさな故なのである。政治家が憲法を「先っちょだけだから汗」と言って変えたがるのは、そのちっちゃい間隙から全て覆せるからである。そういって全部ズッポリ犯そうとするのが政治家の正体なのである。実際に、文字通りの性的スキャンダルさえある。
人間に自由意志がなく、そのくせ自由の刑に処されていて、手っ取り早くそれから逃れる言い訳としてのシステムへの隷属。とかいうとあまりにも生きる気力を削がれる。別に私は隷属でもいいとは思うし、自由意志とかも当人が幸福ならいいと思ってた。でも、そうすると容易にシステムを使って搾取されてまう。
資本主義のせいに全部したい。けど、そうじゃない世界を想像できない。資本主義じゃなくても、人がシステムをつくり統治するというやり方や経済のあり方は、なんであれ人間の根源的な何かを侵犯するという生き方の拡張でしかないのではないだろうか。
男性によるセックス・スキャンダル。
近年、それが世界各国の男ばかりに引き起こされてきたことが、この社会のシステムが如何に男性中心主義に築かれ、そして下から搾取する構図で成り立っているかがよくわかると思う。あえて「男性による」と書いたのもそのためである。
アメリカではハーヴェイ・ワインスタインによるセクハラや、ジェフリー・エプスタインの児童売春、イギリスでは有名司会者ジミー・サヴィルの性加害が近年になってようやく明らかになった。日本で言えばジャニー喜多川を筆頭に、松本人志、中居正広らが強制的に性行に及んだことが問題となっている。それが可能となるのはまさに権力システムであり、松本人志の場合は後輩芸人が、中居正広の場合はフジテレビ幹部が女性をアテンドして一種の"上納"をしていたことが証言されている。トップが入れ替わろうとも、システムが抜本的に変わらねば意味がない。
男女の性差は実在する。しかし、男性中心の社会でどうやって女性はその差分を、格差を埋められるというのだろうか。他の私の記事を読んだ人なら「また言ってるよ」と思うかもしれないが、聖書って男が書いたと思うんです。アダムとイヴで、イヴがそそのかされてりんごを食べようと誘ったとされてるの、すごい男性視点だなと。自らの手は汚れていないとする御都合主義、そして女性はそそのかされるバカとしてミソジニーもある。
フェミニズムは、主張として一貫していない。ある時は性的に解放しろと言い、ある時は性的搾取をやめろという。というのも、男性中心主義的社会においてまずそれ自体に抵抗しなければならないので、時代時代で変わる根本の男性特権に抗い続けねばならないからである。フェミニズムの達成というのは、今ある男性特権的な社会構造の変革である。またフェミニズム以外の女性が黙ってるのは、あなたがた男性の特権に黙らされているだけである。
そもそも上下でマウントをとるみたいのが、元々野蛮だった我々の祖先がそうして生き残ってきた生物学的な正しさ故だと思うのだ。ただ、いつまで猿人のつもりやねんと思う。
一から出直し、の繰り返し。
やっと経験値も増え、若気の至りだった粗暴さも丸くなったと思えば、新しい子供たちが世界をこれからはじめ直そうとしている。こんなこと繰り返して逆に人類はよく持ってきた方だと思う。いちいちリセットボタンが押されるような話で、"戦争を知らない子供たち"なんて歌も当の昔というか、"戦争を知ってる老人たち"の方がよっぽど貴重である。
これまた厄介なのが、年老いていくと頭も回らないし体も思うようにならなくて、若者への継承はますます難しくなっていくものである。特に、老いてさらに判断を見誤る可能性すらあって、こうなるとやれ老人はとか言われて、逆に老人もまたこれだから若者はみたいになっていく。
人間一人単位で見て、その影響なんてほんの少しで、しかも長くて80ちょいくらいで終わる人生が、一体全体何の役に立つのか。長年続いた悪しきシステムの方が、人の人生より長生きしてるし、権力はあまりにも影響を持っている。「男一匹が命をかけて諸君に訴えてるんだぞ」と訴えたあの三島由紀夫でさえ、その訴えは自衛隊員のヤジに消えていったではないか。
世界によろしく、さよなら世界。そう言って老人は次から次へと去っていった。ちゃんちゃん。
この文章は、単なる世界に対する覚書として個人の中に止めるもの。アジアの島国の、東京と神奈川の間隙あたりで長いこと過ごしてきた人間の、平凡ながらに懸命に世界を捉えたことを書いたに過ぎない。でも、寺山が言葉が武器だって言ったように、少しでも傷ついてくれる人がいることを願ったり。世界はこんだけ無理解で変わらないしバカバカしいことを、そしてその渦中であなたも苦しむということを。
オイラいつも何していいのかわからない。
この曲が好きすぎるな。いつも世を憂いて、自分の生き方がわかんなくなると舞い戻ってくる。詩もそうだけど、音楽とか芸術は残るな。いつまでもぐっさりと深くまで刺されて。