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[Vol.1]江戸アケミとGGアリン〜36歳で亡くなったパンクロッカーども〜

言わずと知れた27クラブというものがある。

ロバート・ジョンソンに始まり、ブライアン・ジョーンズ、ジム・モリソン、ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックス、カート・コバーン、エイミー・ワインハウスなどなど…名だたるミュージシャンが27歳で亡くなっている。私は現在27歳だが、彼らの偉業を鑑みるとあまりにも若くして才気溢れてたことに若干の畏怖すら感じる。

ちなみに映画「タクシードライバー」の主人公トラヴィスは26歳。私は偉業を成したロック歌手にもなれず、焦燥感から銃を手にしたトラヴィスの年齢も超え、緊張状態とアイルランドの気温1度の現実に震えている…。
↓そんな危機感についての記事はこちら!

そんなことはさておき、「この年齢もまぁまぁな芸術家らが亡くなってるなぁ」と調べて気づいたことがあった。それが36クラブ(勝手に命名)である。個人的な選考になるが、なかなかなメンツが36歳で亡くなってることに気が付いた。以下36歳クラブの面々である。

トゥールーズ=ロートレック(画家)
松本竣介(画家)
マリリン・モンロー(女優)
ボブ・マーリー(歌手)
ピーター・アイヴァース(歌手)
牛腸茂雄(写真家)
GGアリン(歌手)
江戸アケミ(歌手)
Nujabes(DJ)

死因は勿論人それぞれだが、27クラブとはまた別種の、早くに亡くなったのだなぁ、という感想を抱く年齢である。そしてそれも私が好きなアーティストたちが連なっていることに個人的に驚いている。彼らは27クラブとはまた別の独自表現を極めた感じがある(マリリンとボブ・マーリーは直球で王道ではあるが)。

今回はその中でも個人的趣向でじゃがたらのボーカリスト江戸アケミとGGアリンについて語りたい。というのも彼らがアメリカという地とアジアの片隅で、お互いを知るわけでもなく同じ"意志"を持っていたように思えてならないからだ。この奇妙な36歳没のほぼ同時代を生きた二人が、揃いも揃って糞を食らっているというその共通点

左:GGアリン、右:江戸アケミ
両者共に額を切って血が出ている。

あえて似た写真を並べたというのもあるが、この類似が単なる偶然と言えるのか?この奇妙な一致と、微妙な差異と、そのレガシーについて語れたらと思う。まずはざっくりとした彼らのプロフィールから(wiki参照)。


二人のプロフィール

江戸アケミ

本名:江戸正孝
1953年7月1日、高知県生まれ。後のバンド「じゃがたら」のボーカルになる彼はGGアリンより3年早く生まれた。
1979年「じゃがたら」の前身バンドとしての活動が開始。初期はエログロパフォーマンスで話題を呼ぶも、方向転換をしてファンク色を強くしたサウンドの本格派バンドとなっていく。
1982年には1stアルバム「南蛮渡来」をリリース。しかし翌年からアケミは精神疾患を発症する。一時的にバンドを脱退状態になるも1986年に復帰、1989年まで精力的にアルバムをリリース。
1990年1月27日、6thアルバム「おあそび」レコーディング最中に、自宅の風呂場にて亡くなった。

GGアリン

本名:ジーザス・クライスト・アリン
1956年8月29日アメリカ、ニューハンプシャー州生まれ。
高校時代に既に音楽に興味を持ち、1977年にはフロントマンを務めるまでになった。
1980年に自身の1st「Always Was, Is, And Always Shall Be」をリリース。と同時に薬物に溺れだすのもこの頃からとなった。
その後も音楽活動は続けるがメジャーレーベルは手がつけられないと見放し、GGもまた商業度返しの過激なパフォーマンスを繰り広げる。その間は幾度も逮捕、刑務所へと送られることとなる。
1991年、「マーダージャンキーズ」として活動を始め、アンダーグラウンドシーンでの地位を確固たるものにする。
1993年6月27日、GGは演奏を終えた後のパーティにてオーバドースで亡くなる。

「あんた気に喰わない!/ I hate you motherfucker!」

曲が始まるのもままならぬうちに浴びせられる「あんた気に喰わない!」。私はすっかり虜になった。現在でこそ芸術の無毒化みたいのは急速に進み、快くてナンボな世の中が当たり前だと思っていた。そんな自分を切り裂くように、まずは「先にことわっておくけど」と言わんばかりに、その手の音楽やってませんを突きつけられる。時代は違えど、私にはぶっ刺さりだった。Adoの「うっせえわ」がウケたのも結局、その毒っ気を堂々たる素振りで歌い上げたところにあるのだろう。ただ「うっせえわ」が明確なイヤな上司みたいな対象を持ち、"あるある"で我々の溜飲を下げたのとは違い、今作は明確に聴くものすべてを対象としている。君も君も君も君も君も君も、もちろんお喋りな君もね〜!(by「マジックランプシアター」in ディズニーシーのジーニー)。聴衆あってのアーティストという構図は現代ではほぼ完成されているし、受け手は何を言っても許されるくらい図に乗っている。それを一蹴する図太さよ。

そしてGGもまた「You Hate Me & I Hate You」という、これまたお前が気に喰わんというのをまんま英訳しただけのタイトルの歌を歌っている。というかHateのつく歌がやたらと多いのがこの人の特徴だ。「I hate people」「I hate my audience」、彼のドキュメンタリーもズバリ「Hated」である。

インタビュー中も譫言のように「I hate you motherfucker!」と連呼する姿が映像に収められている(https://youtu.be/0Nei20d-T8k?t=1031)。

聴くものを攻撃する最たる人でいえばやっぱりユンボでライブハウスぶち壊したでお馴染み山塚アイがいたり、酒飲んで客を罵倒しまくる若い頃の宮本浩次も思い出される(やっぱかっこいいなと思ってしまう)。その中でも特に「嫌い」ということが軸なのがアケミとGGだ。しかし、攻撃以上に発揮されるその"拒絶"の意味とはなんなのだろうか。

過激パフォーマンス・両者共に糞を食らう

過激パフォーマンスを行なっていた期間は異なるし、江戸アケミは初期の活動においてのみで、GGに関しては死ぬまで続くという違いもある。ただ、どうしても両者のパフォーマンスには似た所があるように思えるのだ。

「地球がクソなのかと思ってクソを喰った」

こちらはじゃがたら残党組のインタビュー(https://www.loft-prj.co.jp/interview/0301/10.html)で明かされた江戸アケミの発言である。実際に映像などは無いが初期パフォーマンスのうちに、全裸になる(これは写真で見たことあり)、ションベンを紙コップに並々注いで自らかぶる、マイクで額を叩く、蛇を食う(じゃがたらのメンバーEBBYによる証言あり→https://youtu.be/cSWA5OEXScA?si=sO5VeS8fVSn_rqDW)、客と喧嘩するなどが当時の目撃者やメンバーによって語られている。その中でもステージ上で糞をし、それを食べるというのは過激さの最北端と言えるのではないか。そしてこれは後に遠藤ミチロウや田口トモロヲに影響を与え、そのせいで遠藤ミチロウは家畜の臓物を観客に投げるようになったし、田口トモロヲに関してはパンクバンド「ばちかぶり」の活動にて、ステージ上で実際に糞をするのだった(しかもwikiによると炊いた白米の上にしたそうな)。いやはやとんでもないレガシーをアケミは残したようだ。

汚い話で申し訳ないがまだまだ終わらない。何故ならこのパフォーマンス、完全にGGアリンも同様なのだ(怖すぎ)。しかもこちらに関しては彼のドキュメンタリー「Hated: GG Allin and the Murder Junkies(邦題:前身ハードコア GGアリン)」(1993)にてばっちり映像にモザイクも無しに刻まれている。バナナを自らの肛門に入れ客席に投げる、カミソリで自らの肌を切る、客との喧嘩、そして客前で糞をし、それを喰らい、顔に塗りたくり客に突撃する(※モザイク無しです、大事なことなので再度言いました)。ほんとに汚いし、映像で見るとその場にいなくてよかったと安堵さえ覚える。

しかし、何故両者自ら糞を喰らうのか(こんな疑問、金輪際浮かんでこないだろう)。何故自ら嫌われ者になろうとしたのか。江戸アケミに関して、上記のインタビューでは

「ウンコはちゃんと養分として循環するものなのに、化学肥料とかが主流になるにつれ、いつの間にか忌み嫌われるものとして排除されてしまった。そういった人間の都合で排除していく事に対して憤りを感じていたのかもしれないね」

「じゃがたら残党組インタビュー」より

とメンバーであるOTOの口から語られている。もともと自然の一部だったものを汚れとして忌避する人間の姿勢に、憤りを感じたという事か。またアケミは精神疾患を患った際も都会の景色を見て不意に「森が泣いてるよ」と嘆いたこともあったそうだ。こちらでもまた自然に対する感情が強いように思う。

83年にアケミがテンパッた時、太陽の下じゃないと喋らなくなってしまって、ビルの中だと筆談しかしないんだよ。ー(省略)ー部屋の中だと喋らないから屋上に行ったのね。そうすると何事もなかったように普通に喋りだすんだよ。それで、当時住んでた参宮橋のビルの屋上からは神宮の森が見えるんだけど、その時アケミが「おまえ、あっち観てみ。神宮の森があるのに、その前にあんなにガンガン、ビル建ててさあ。神宮の森が泣いてるじゃん。わかる?」って言うの。もちろん、人間が森を切り裂いてビルを建てる事がよくないってのはなんとなくわかるんだけど、その時、森が泣いてるって感じるかどうか、その切実さっていうのは、単に頭で理解するレベルとは違うと思うんだよ。森が泣いてるという痛みを、自分が愛する人が苦しんでいる時に感じる痛みと同じように感じるっていうのはさ。」

「じゃがたら残党組インタビュー」より

悲しい哉、実際に2024年11月現在も明治神宮の木々は伐採が進んでいる。坂本龍一が死の直前まで訴えた思いはなんだったのか。(この記事を読む限り、明治神宮外苑は再開発事業、興業に巻き込まれたようにしか思えないhttps://www.njsf.net/zenkoku/news/25061/)。江戸アケミ、ごめんよ。

そうした自然主義的観点とは別にGGには、アンチ社会としての姿勢が強かったように思える(アケミも十分に反体制ではある)。アケミがその後、音楽というリズムこそ人間を原点に、自然に帰すという考えに変わっていったのと違い、GGは対社会でやったことで方向性をシフトすることはできず、過激さを突き詰めるその一本道しかなかったのだろう。しかし、その両者の共通項は自らを忌み嫌われるものとして提示することであった。そしてそこにはキリスト教が深く関わってるのではと私は推察する。こう言うのには理由があって、両者共に幼少期はクリスチャンであったのだ。そして彼らは磔刑にされるキリストを自らに課したのではないだろうか。

「俺の体はロックンロールの神殿だ(だから糞もまた神聖なものなのだ)」

あるテレビの司会者が尋ねる、「何故あなたは観客の前で排泄するのが必要なのだと感じるのですか?」と。するとGGはこう答えた。

「俺の体はロックンロールの神殿だ、血や体液は人々への聖餐(communion)なのだ、好むと好まざるとにかかわらず」

(こちらのインタビュー映像の3分半あたりから引用https://youtu.be/m_ZvhHgSKy0?si=Yt-jIE-JQ85iZJdQ

Communionという聞きなれない単語が出たので調べると以下の通りだった。

聖餐とは新約聖書が伝える、イエスが十字架につけられる直前に弟子たちとともにしたパンとぶどう酒を中心とした最後の晩餐、およびのちに教会がその再現として執行してきた典礼的会食をいう。

コトバンク「聖餐」項より

この発言に色濃く出るキリスト教的な視点。キリストの体をパンとし、血をワインとした聖餐の項目から漏れ出たのはHoly Shit(聖なる糞)なのであった。GGはそこに疑問を感じたのではないか?そもそもGGアリンの"GG"は彼の兄が、ジーザス・クライストの名を冠したジーザス・クライスト・アリンの名前をうまく発音できずジーザスをGG呼びしたことに端を発する。生まれながらにキリストの名を受け持った彼の運命と言ってしまえるかもしれないが、そこにはGGの家庭環境も関係していると考えられる。

彼にキリストの名を与えたのは、彼の父メルルであった。メルルは熱狂的なキリスト信者で、度々そのいき過ぎた信仰心は家族を脅かした。ある時は一家心中を企てたり、地下室に将来的に家族を埋めるための墓を掘ったりしたそうだ。当然の結果として両親は離婚し、GGアリンも母の配慮で名前をジーザス・クライスト改めケヴィン・マイケル・アリンとされた。この時にある種の宗教的懐疑の萌芽は芽生えていたと私は推測するが、本人自体は父からの影響を否定しているそうだ。江戸アケミの両親との関係や生い立ちは詳細が知れないが、「江戸アケミ十三回忌」というサイトのアケミ略歴欄には「1966年 神父に抗議。『聖書の中には大きな間違いがある』としてキリスト教『脱退』」とだけ記されている。

聖書から排除された糞という存在。「キリスト教 排泄」と検索をかけてみてもひっかかる項目はわずか。そもそも聖書における善なることに対する「汚れ」という二項対立は、その後者をどこまでも排除すべき概念として置いているわけで、その欺瞞に二人は疑問を呈したと考えられる。彼らの過激さには、「排除すべき人間を前に、お前らは何ができるのか!?」という投げかけがある。それは裏を返せば「いいや排除できっこ無い、何故なら排除していい存在なんて無いのだから」という思惑も彼ら二人にはあったのではと思う。そこには人間存在の否定の裏返しとしての優しさがあると私は読み解く。

しかしそんな二人の過激パフォーマンスを前にオーディエンスが示すのは冷笑であったのだ。

↓第二弾記事はこちら!


キリスト教の元に狂い咲いた才能たち

正確に言えばキリスト教が原因で人生を拗らせて狂ったと言える人たちの話。これは以前映画チャンネルBLACKHOLEにて柳下毅一郎が「カトリックから離脱した作家が一番面白いものを作る」(https://www.youtube.com/live/X9swnVLSsaE?si=cSY4FdhmkohElc7j)と言っていたところから着想を得たことだが、実際にアンチキリスト教でよろしくやってる人たちの映画は確かに面白いのでなんとなく納得したという話だ。マーティン・スコセッシ、ルイス・ブニュエル、ジョン・ウォーターズ、ラース・フォン・トリアー、ここら辺の映画のバチバチ感は確かにたまらないものがある。デヴィッド・リンチもクリスチャン家庭に生まれてあれだけ禍々しい世界を描いたのだ。フェリーニもまた宗教的欺瞞から解き放たれて自己を解き放った、思い当たる節ばかりだ。

ルイス・ブニュエル「自由の幻想」にて
食事と排便が逆になっているシーン

また画家で言えば、例えばゴッホなんかも牧師になろうとさえした男であるが自らの耳を切り落とし精神疾患になるほど狂ってしまう。またはダニエル・ジョンストン、彼もまた敬虔なクリスチャンの両親との齟齬と、そこからの精神疾患を患うのである。アウトサイダーアートとしてヘンリー・ダーガーもまた熱心なクリスチャンであった(だからこそ自ら手がけた「非現実の王国で」の不道徳さを「捨ててくれ」と言い残していたのだろう)。というか久々にヘンリー・ダーガーのwiki見たらえらい充実してて驚いた。アウトサイダーアーティストの絵を昔片っ端から調べてた頃は謎に満ちたままで文字数も全然なかったのに、読み応えたっぷりになっている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC)。彼らは芸術としての才能と引き換えに絶え間ない生きる上での葛藤と戦い続けなければならなかった。キリスト教の孕む矛盾点は、人の一生を十二分に狂わせる。

そして御多分に洩れず江戸アケミとGGアリンもこの中に入ってくるのだろう。そして彼らが少し違うベクトルにいるのは、アンチキリストと信仰を同時に行うという究極のアンビバレントを行なっていることである。つまり、キリスト教が見放す最も汚れた行為によって磔刑に処されるキリストになるということである。キリスト教はこの手のアンビバレントを引き起こすことが可能で、上記に掲げた芸術家たちが絶えずアンチであったり熱心であったりしつつその真逆を体現してしまうということがしばし起きていることからもわかる(そしてそれは精神衛生上とても不均衡で危うい)。その最たる矛盾をこの二人は成したと言えよう。

そしてそれは、大衆が犠牲の精神やヒーローに憧れるくせに、実際にキリストのように磔刑に処される者を目の前にすると石を持って投げる側であるというのを炙り出す。江戸アケミが歌にもたらす絶望感というのは、こういう所からきてるように思うし、GGアリンの幾度もなされた自殺宣言も絶望の裏返しなんだと思う。GGに関しては「俺は神だ、死んでもいいのか?あとのことなんかもう知らねえからな!」という駄々っ子な感じにも受け取れるが(もはやかわいい?)。



おまけ・女装の人

何故かおかまであったり女装であるということをした共通点がアケミとGGにはある。そもそも江戸アケミも本名は正孝なわけで、わざわざ女性っぽい名前をつけている。しかしこれが功を奏してバンドメンバーを獲得したとも言える。何故ならギタリストのEBBYは、掲示板でのバンド募集欄の名前から女の子だと思って連絡したからだ(電話越しにおじさんの声で「アケミよ〜!」と返ってきたと証言笑)。もちろんバンドの目指す方向性に興味があったとも彼は語っていたが。

GGアリンに関しては高校に行く際に女装して行っていたという。兄曰く、彼は何にでも反抗しようとしていたそう。これらの行動もまたキリスト教的価値観へのアンチテーゼとしてあるように思う。

GGアリン女装時の姿、普通に居そう

ふと思い出したのはマルセル・デュシャンの女装名義ローズ・セラヴィだ。あらゆる価値を転倒させたデュシャンのハイコンテクストさをすっ飛ばして、彼らは同じ女装へと向かう。

マルセル・デュシャン女装時

さらにそれにインスパイアを受けて女装姿をしたジョン・フルシアンテ。

アルバム「Niandra Lades and Usually Just a T-Shirt」ジャケット

いかに人は固定観念に囚われているか。そして、それが強固になる時、なにかが排除され始める兆候なのだ。信仰はだから時節を鑑みない石頭振りがある。そんな石頭にはロックを、ということか。ナンノコッチャイ。

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